第7話

「あんのクソジジイ」

 古本屋の店じまいは早い。だが例の騒動のせいで、今日は特別早いようだった。腕時計の針はまだ、午後五時すぎを指している。見事な夕日が、水平線近くの空を蜂蜜色に染めていた。

 だがそんな絶景にも目をくれず、つばめの一歩先を行く陣がぶつぶつと悪態をつく。だがその相手は、先程の少年だけではなかった。

「万引きヤローにヘラヘラしやがって、情けねえ」

 その怒気に答えるように、陣の足もとで小石が勢いよく跳ねる。だがつばめは、それでも佐倉の選択が、最も良い落としどころだったのではないかと思う。

「もう二度と、万引きしないって誓えるかい」

「はい……」

 佐久間は怒鳴られたり詰られるよりも、穏やかに自分の罪を自覚させられる方が効果的なようだった。訥々と語る佐倉の口調は静穏そのものだったけれど、そこには凛とした響きが混じっていた。「反省してくれれば、それでいいよ」――そう言って佐久間を許したのは、同情でも、腰が引けたのでも、ましてや事なかれ主義だったからではないだろう。それを陣がわからないはずはない。だから彼も佐久間の処遇について沈黙を守ったのだろうと、つばめは理解している。

「でも、佐久間さんの元カノの名前は聞けたね」

「当たり前だ。この女を調べて、そこから裏にいる連中全員あぶりだしてやる」

 陣はそれでも、警察や学校に連絡しない代わりに、佐久間の連絡先と、ネックレスをあげた元カノ(やはり別れていたようだ)の名前を聞き出し、さらには今後の情報提供も約束させた。

仮屋玲香かりやれいか、三年生。クラスはわからない。だが、当時はショッピングモールにある喫茶店、『Café IRORI』でバイトをしていた」

 探偵みたいだね、と茶々をいれかけた口を慌てて閉じて、つばめは足を速める。足の長さが違うので、つばめは時折小走りにならなければいけなかった。

 仮屋という女子生徒が、この件に関わっているかはわからない。だが、いまのところ彼女の存在以外に手がかりはない。ここを取っ掛かりにするしかないのだ。

「おれも、一緒に調べてみてもいい?」

「はあ?」

 前を向いたまま、陣は心底嫌そうな声を出した。だがつばめも負けない。

「一人より、二人の方が何かと都合がいいと思うんだ」

「遊びじゃねえんだよ。興味本位で顔突っ込むな」

「違うよ。おれも……こんなことして人を苦しめてる奴を、放っておいたらダメだって思うから」

 彼をここまで駆り立てるものの正体を知りたい。できれば力になりたい。自分がこんなにわがままをねだるなんて思いもしなかった。「熱が出たから、学校を休みたい」という一言すら母親に言えなかった自分が、出会って二週間弱の同級生にしつこく食い下がるなんて、つばめ自身も驚いていた。

 それでも、陣は言葉を返してくれる。そう確信できるほどに、つばめはこの数時間で、もう彼を信頼し始めていた。野生の勘というべきか、つばめの本能的な部分が、陣から離れるなと言っているようだった。

「……ああいう連中を、おれは許せない。たかがこのくらいって、土足で上がり込んで線引きして、無自覚に人を追い詰める連中が」

「佐倉堂でも、万引きはよくあるの?」

「ジジイの話じゃ、棚卸の日になって初めて、何冊も見当たらないなんてよくある話だと。あんな風に現行犯でなんて、まず捕まえられねえ」

 彼の怒りをもっともだと思うのと同時に、その怒りの原動力が、単純な正義感ではないことを察する。

「どうせ反省なんかしねえよ。大したことじゃないって、あいつはいまでも思ってる」

「来月、またラインが来たらどうするんだろう」

「どうせまた、今度はコンビニやらスーパーやらで、同じことをするんだろ」

 夕暮れの海から目を背けたまま、陣はコンクリートの地面に向かってそう吐き捨てた。

「……たった一冊の本でも、被害分を埋めるには何十冊って本を売らなきゃいけない」

「何十冊……」

「あのジジイは一回も、学校側に被害を申し出ていないんだと。万引きだと確定したわけじゃないって言い張って。本が勝手に店から出てくわけないのによ」

 その言葉につばめはようやく悟る。

(佐倉さんのために、怒っているんだ)

 海を背に、バス停のベンチに座る。ようやく見えた陣の顔は、口調の割には冷静さを保っているように見えた。でも、そっけなくさえ見える横顔からも、あの日、おにぎりをくれたときに感じたのと同じ温かさがにじみ出ている。開けたてのカイロをそっと握りしめたときのような、じんわりとした温かさ。

 彼のことを、一つだけ知れた。

 だけど、それじゃ物足りない。もっともっと、彼のことが知りたくなる。そしてつばめは、それまで躊躇って口にできなかった彼の名前を呼んだ。

「近衛くん」

「おれはその名前が嫌いだ」

「じゃあ、陣……」

 くん。と続けようとして、ふと、陣がつばめを見た。

「足引っ張ったら、クビだからな」

 春から初夏へ。頬を撫でる風の温度から、つばめは、いま、季節が確かに変わったのを感じた。その小さな衝撃に、つばめはお礼を言いそびれてしまう。

「う、うん!」

 バスは空いていた。わざわざ隣に座るかどうか迷って、つばめは陣と、通路を挟んで同じ列の席に座る。窓から差し込む西日が、二人の間に漂う戸惑いと高揚を、静かに、柔らかく包み込んでいた。

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