第5話

 ゴールデンウィークに入っても、桜の花びらはまばらに地面にへばりついて、そこら中に春の名残を留めていた。そんな海沿いの道を、つばめはいま、追い詰められたような顔をして歩いている。というのも、つばめの財布事情は深刻さを極めており、連休初日の今日も、朝一でバイトの面接を受けようとしているからだ。

 つばめはこれまでも、二つのバイトにチャレンジしていた。だが一個目のパン屋は、「ああごめん、さっき面接した子に決まっちゃったんだよね~」と、受ける前に撃沈。二個目のスーパーは「品出しはさ、体力のいる仕事だから……」と、暗に小さな体格を理由に落とされた。だから今度こそ三度目の正直と意気込んで、つばめはキャンパスから遠く離れた、海沿いの古本屋に狙いを定めた。特に本を読むのが好きなわけではなかったが、本屋で働いている人はきっと、読書好きで穏やかな人ばかりだろうという偏見もあって選んだ。

『佐倉堂』は、海沿いのショッピングエリアの中でも、森と海が交錯する一番端にある。二十畳ほどの小ぢんまりとした店内には、『万引きは犯罪です』と書かれたスローガンから、平成初期、いや、昭和時代の、つばめが見たことのない女優のポスターなどが張られていた。

「っていうか、こんなへんぴなとこに、よく来てくれたねえ」

 想像通り、現れたのは物腰柔らかい男性だった。店名通り「佐倉」と名乗った店主は、穏やかな笑みを浮かべ、つばめの履歴書にふんふんと目を通す。歳は還暦を迎えたくらいだろうか。白髪まじりのふさふさな髪の毛に、分厚いメガネをかけている。

「一応聞いてるんだけど、志望理由とかある? ほかにも割の良いバイトはあるし、ほら、本屋ならもっと大きいところもあるじゃない。どうしてうちを選んだのかな」

「それは……」

 古本の独特な匂いに包まれながら、つばめは畳の上でもじもじと居住まいを正し、数秒の内、正直に話すべきか迷った。だがいままで嘘を突き通せた例のないつばめは、しょんぼりとして小さな声で答える。

「もう二つ、バイトに落ちてしまって……。ポイントが少ないので、すぐにでも働かなきゃいけないんですけど。その、時給が高いところはもう、募集も終わってて。それと、本屋さんなら、優しそうな人が多いかなあって……」

 いざ口に出してみると理由が情けなさすぎて、恥ずかしさから店主の顔を真っ直ぐに見れなかった。だが聞こえてきたのは、はっはっは、という軽快な笑い声だったので、つばめは恐る恐る顔を上げる。

「いいじゃない、いいじゃない。そういう正直なところ、ぼくは良いと思うよ」

「は、はい……」

「ポイントはここじゃあ死活問題だもんね。えらいよ、自分で何とかしようと行動してるんだもの」

 同情もあったのだろうが、その言葉は、それまでカチカチに固まっていたつばめの心を、少しだけ柔らかくした。褒められることになれていないつばめは、照れながら口をぎゅっとすぼめた。

「うんうん。湊くんねえ。真面目そうだし。ぼくは良いと思うんだけど。ね、きみはどう思う?」

「え、」

 店主が突然、後ろを振り返り、店の奥に向かって声をかけた。するとのれんをかき分けて、つばめの想像していなかった人物が顔を出した。

最初のインパクトは――オレンジ色。

「おれに聞かなくたって、もう決まってるんだろ」

「まあね。じんくんもバイト仲間ができたら嬉しいでしょ」

 陣。彼の名前は、陣というのか。

 思わぬ再会に、つばめは驚きと喜びと不安が入り混じった、複雑な感情に襲われる。だが陣は怪訝そうな瞳でつばめを一瞥すると、すぐにのれんの奥に引っ込んでしまった。

「陣くんはぼくの知り合いの孫でさ、春休みからずっとバイトしてくれてるんだよ」

「そ、そうなんですか」

 つばめの中で、ようやく点と点が線になる。近衛が言っていた、つばめと同級生の孫というのは、この派手な髪色をした大男なのか。それに、佐倉と近衛は知り合いということにも驚いた。奇妙なつながりにつばめが世間の狭さを実感していると、佐倉がにこりと笑いかけてきた。

「ということで、湊くん。採用決定ね」

「ほ、ほんとですか!」

 つばめは立ち上がって、ぺこぺことお辞儀をした。

「すみません、ほんとうに、ありがとうございます!」

「はいはい、これからよろしくね。じゃあ今日から早速、働いてもらいたいと思うんだけど」

 よっこいしょ、と佐倉が立ち上がる。

「ぼく、ちょっとこれから野暮用があってさ。陣くんに一日の流れとか教えてもらって。大丈夫、ぜんぜん大変じゃないからさ。陣くん! ちゃんとお世話してあげてね。頼んだよ」

「チッ」

 雇い主に対していささか無礼すぎる態度だが、佐倉は軽やかに笑い、「じゃ、よろしく」と手を振って、店を出て行った。見送ろうと外へ出ると、開いた自動ドアから潮風が入り込んだ。

 それは波真利ブルーと呼ばれる、藍色と空色が入り混じったような海からだった。こんなに綺麗だったっけ、とつばめは思わず見とれた。ここに来るときは緊張で目に入らなかった景色、だがドアの真ん中で動けずにいると、背後から鋭い声が飛んできた。

「おいストーカー、早くドアを閉めろ。潮風で本がダメになる」

 振り向いたつばめに、陣がデニム地のエプロンを放ってよこした。つばめは慌ててドアを閉め、エプロンを付けた。だが一応、明らかに誤解されている部分については反論を試みることにする。

「ご、ごめん。でも違うよ。この本屋さんに来たのはほんと、たまたまなんだ」

「どうだかな」

 にべもない態度。つばめはおずおずと口を開く。

「あの……確かにおれは近衛さんにこの学校に入れてもらったけど、きみのことは知らなかったよ。だから、わざと近づこうとしたわけじゃないんだ。美術の授業でも、余るのはいつものことだったし……」

「うっせえ、ストーカー」

 こんなにも邪険にされるとは、一体近衛さんは、自分のことをなんといって彼に説明したのだろうと、つばめは不思議に思う。恭介は親切だったし、そこまで悪い印象は持たれていないはずだけれど。

「おい、ボーっとしてんじゃねえ。いちいち説明しないから、見て覚えろよ」

「は、はい」

 だが誤解を解くにはまだ時間がかかりそうだった。つばめは反論を諦め、ポケットからメモとシャーペンを取りだした。それから陣はてきぱきと開店準備をし、本の整理をしたり、買い取ったCDやゲームソフトにビニールを巻いたり、客が来れば対応し、空き時間には掃除をし、準備が整った商品を棚に出したりした。

 この店の支払いも、もちろんすべてポイントに限られていた。金額を打ち込んだ後、客にスマホを備え付けの読み取り機にタッチしてもらうと、決済は完了する。つばめは思わず感心してしまった。とはいえ古めかしい店内にある最新鋭のレジは、なんともちぐはぐな感じがする。

「ビニールが巻いてある漫画と、そうじゃないのがあるけど、どう違うの?」

「新刊にはシュリンクをかける。その他は付けない。本が古くなったら、頃合いを見て外す」

 ぶっきらぼうだが、陣は簡潔に、つばめの質問に答えてくれた。休日だからか、つばめの想像より客は多い。本土までは移動だけで二日弱かかるため、ゴールデンウィークには家に帰らない学生も多くいたのだ。せわしない雰囲気の中で、つばめが生まれて初めてのレジ打ちに四苦八苦し、本を持ったまま盛大に転び、買取金額を間違えてあたふたしても、陣は悪態をつきながらフォローし、さらりと業務をこなしていた。そんな陣について回り、仕事を覚えるのに必死になっていると、「一時間、休憩」と声をかけられる。そこではじめてつばめは、正午をとっくに過ぎていたことに気づいた。

「一時から順番に昼休憩。お前、先行ってこい」

「あ、おれ、休憩はいいから、お店にいてもいい?」

 今日中に、商品の種類と場所を頭に入れたかった。また早く学んだことを反芻しなければ、頭がパンクしそうだったのだ。悲しいことに昼食抜きの生活にも慣れきたから、空腹の問題もそこまで大きくなかった。だが陣は眉を寄せ、つばめをじろりと睨む。

「は? 店の中で飯食うつもりか?」

「ち、違うよ! おれ、お昼ご飯食べないから。ポイントが足りなさ過ぎて、節約してるんだ」

 あわてて手を振って否定する。

「節約?」

「仕送りとか、貰ってなくてさ。ほんとカツカツで……。バイトのお給料が入るまで、お昼は抜きって決めてるんだ」

 貧乏くさいと呆れられただろうか。

 つばめは言ったそばから後悔する。近衛家は相当な資産家だと聞いていた。経済的な問題で昼食が抜きになるなど、陣には想像もつかないだろう。だが隠してもしょうがない。と考えたところで、ふと、なぜ彼はここで働いているのかという疑問が浮かんだ。きっとお金には困らないだろうに。陣の顔を伺うと、彼は険しい顔のままだったが、まるで想像より酸っぱい梅干を食べてしまったときのような、複雑な表情をしていた。

「ちょっと待ってろ」

 陣はそう言うと、エプロンを外して店を出て行った。

数分後戻ってきた陣の手には、ビニール袋が提げられていた。後ろ手にドアを閉めてから、それを雑につばめに放る。

「それ食ってろ。外でな」

「わっ、」

 戸惑いながら、キャッチした袋の中を見る。そこにはコンビニのおにぎりが三つと、ペットボトルのお茶が一本、入っていた。その意味をようやく理解したつばめは、慌てて陣を追いかける。

「え、いいよ! おごってもらうなんて、申し訳ないし……」

 なんとか固辞しようとしたが、陣は取り付く島もなかった。挙句の果てに「ピーチクパーチクうるせえ。口答えすんな」と言われたので、つばめはありがたく頂戴することにした。

 言われた通り外に出て、つばめは海岸沿いの石垣に座った。おにぎりは梅干しと鮭とツナマヨだった。ぺりぺりとビニールの包装をはがし、パリパリの海苔ごと口に運ぶ。

「おいしい……」

 二週間ぶりの昼食は、体中に染み渡るようだった。あっという間に梅干しを平らげ、すぐに鮭を手に取る。なんの変哲もない、ばあちゃんと一緒に暮らしてからはよく食べていたはずのコンビニのおにぎりなのに、いままで食べてきたおにぎりの中で一番、おいしいとさえ思う。

 鮭の旨味を噛みしめながら、つばめはようやく理解した。陣と初めて会ったとき、彼から目が離せなかった理由を。そしてどんなにつれない態度を取られても、気になってしまう理由を。

 海を見ながら、おにぎりを咀嚼した。浜辺でカップルが数組、座ったり散歩したりするのを見つめながら、最後の一口を頬張る。ぽろりと流れた涙を、つばめは今度は拭わなかった。

「ごちそうさまでした」

 小さく手を合わせたら、ふいに、ばあちゃんが最後に固形物を食べた日のことを思い出した。固形物と言っても、具を極限までちいさくしたミネストローネだった。料理歴が浅く、大しておいしくなかっただろうに、「おいしいよ」と笑ってくれたばあちゃんの気持ちが、なぜかいま、少しだけわかった気がした。


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