第二章

第4話

 若々しい緑の芝生。優雅にランチタイムを過ごす学生たちを尻目に、つばめは一人思案しながら、美術棟に向かって歩いていた。

 四月も三週が過ぎ、学園生活にも慣れてきたころだった。毎朝五時過ぎに起きることも、毎日の予習や復習にてんてこ舞いなのも、繰り返すことで、それはすぐに日常へと変わっていく。いまのところ、授業にもついていけているし、ばあちゃんとの暮らしで培われた家事能力もあって、はじめての一人暮らし(寮はすべて一人部屋だ)は順調かに思えた。

 だが、この絶海の学園生活において、想像以上につばめを悩ませたのは金銭的な問題である。つばめの目下の目標は、一刻も早くバイト先を見つけることだった。朝夕の食事は寮で提供されるが、昼は実費なのが非常に痛い。水道水を水筒に入れて持参しているのはつばめくらいだ。数年前から貯めに貯めた貯金(主にお年玉)もここでは役に立たないし、面倒な手続きを踏む仕送りをねだることにも躊躇いがあった。ベテラン主婦ばりの節約術を駆使して出費を抑えてはいるが、このままでは三万ポイントの資金も、あっという間に尽きてしまうだろう。

「うう、昼食抜き、三日目か……」

 おまけにキャンパスの広さと、その移動の大変さも想像以上だった。ほとんどの学生がレンタサイクルを利用しているが、キャンパス内ではそれにもポイントが必要なため、つばめの休み時間はほぼマラソンタイムと化していた。そのあまりの節約ぶりに、クラスメイトにも遠巻きに見られる始末。そして今日もつばめは、腹ペコのお腹を抱えたまま、キャンパスの果てにある美術棟に、昼休みの半分以上をかけてたどり着いたのだった。

 選択授業で選んだのは美術。今日の授業はは初めて他のクラスと合同で行われ、写生をすると聞いていた。一歩美術棟の中に入ると、昼休み真っ最中のにぎやかさはと一線を画すように、静寂が辺りを包んだ。ひんやりとした空気に乗って、かすかな絵具の匂いが運ばれてくる。

 きっと一番乗りだろうと、指定された教室のドアを開ける。だが予想に反して、そこには先客がいた。閉じられたカーテン、日差しと日陰が絶妙に混じりあう真昼の薄暗さの中で、一人の男子生徒が、こちらに背を向けて座っていたのだ。

「あ……」

 ドアの音にも振り向かず、窓際のテーブルで頬杖をついている。見知らぬうしろ姿からも、かなりの体格の良さが伺えるが、なによりも目を惹いたのは、その髪の毛だった。

 鮮やかなオレンジ色。つばめは数秒、その後ろ姿に気を取られ、足を止めた。この学園は頭髪・服装なんでもオーケーな緩い学校だったが、ここまで派手な色もなかなかいない。群れをはぐれたライオンのように、彼は一人、黙ってそこにいた。

 外の世界から遮断されたような、静かな教室にぽつんと二人。話しかけてみようか――一瞬でも、そんな思考に至った自分に戸惑う。迷いながら、つばめは遠く離れた一番後ろのテーブルについた。まもなく次々と生徒たちが入ってきて、教室が本来の明るさと動きを取り戻しても、つばめはあのオレンジから目を離せずにいた。


「それじゃ、二人一組になって! お互いの顔を描いてみましょう。偶数だから、もれなくペアができるはずよ」

 その言葉を合図に、教室は一斉ににぎやかになった。

 ついにきたか。つばめはひっそりと肩を落とし、テーブルの木目に目を落とした。グループを作るとか、ペアを作るという話になると、つばめは必ずはみ出し者になるタイプだった。案の定、同じテーブルのメンバーとさえ目が合わない。つばめが入り込む隙も無く、順調にペアが形成されていく中、つばめは肩身が狭くなって、椅子の上で小さくなった。

「あれ、湊くん。ペア見つからないの?」

 いつの間にか近くにいた美術教師が、背後からつばめに問いかける。

「あ、はい、すみません……」

「うーん、おかしいな、もう一人必ず余るつもりなんだけど」

 ちゃきちゃきとした、恰幅の良い美術教師が、教室をきょろきょろと見回す。こういうシチュエーションになると、つばめは嫌というほど思い知る。自分を一番に選んでくれる人がここには一人もいないのだということを。別に、いじめられているわけではない。浮いているわけでもない。クラスメイトとは、そこそこコミュニケーションもとれている。なのに、いつだってつばめはあぶれてしまうのだ。その度につばめは、自分は決して、誰かの一番にはなれないのだと言われているような気さえした。

「……あ、いたいた。きみ、どこ行ってたのよ」

「便所行ってました」

 突然、頭上から降ってきたやり取りに顔を上げる。すると先程の派手髪の男子生徒が、ポケットに手を突っ込みながら教室に戻ってきたところだった。

「さっきの……」

「はいはい、じゃあきみ、この子と組んでね。そうね……」

 先生が教室を見回す。だが他の学生は思い思いに写生を始めており、これ以上、つばめたちが写生をするスペースはないように思えた。

「今日は天気がいいんだから、外がいいんじゃない? チャイムが鳴るまでに、ここに戻ってくるのよ」

 そう言うと先生はどちらの返事も待たず、さっさと準備室に戻って行った。

「……」

「……」

「あ、あの……」

 オレンジ頭はつばめを一瞥しただけで、何も言わない。それからはあ、とため息をつくと、そのままスケッチブックを掴み、黙ったまま、騒がしい教室を出て行く。つばめは慌ててその後を追った。

「あのう、どこ行くの?」

「……」

「な、中庭がいいかな? それとも、花粉とかあれだったら、一階のロビーでもいいし、」

「……」

「おれ、つばめっていうんだ。湊つばめ。よ、よろしくね」

「……」

「きみは名前、なんていうの?」

「……」

「あのう……」

 ここまで徹底的に無視されるのは初めてだ。心が折れそうになりながら、階段を降り、ロビーを抜け、外へ出る扉を開けたとき、前を歩いていた彼が、突然足を止めた。

「なにに釣られたのか知らないが」

「え?」

「おれはお前と関わる気はない。勘違いすんな。以上」

 先制パンチとばかりに、彼が吐き捨てるように言う。だがつばめは傷つくより先に混乱した。真意が読めず、戸惑うつばめを尻目に、オレンジ頭はすたすたと先を歩いて行く。つばめは我に返ると、慌ててその後を追いかけた。

「ちょ、ちょっと待って! ごめん、おれ、なんかした?」

「……」

「ね、ねえってば……」

「お前、例の特別入学の一年だろ」

「え、あ、うん……。でもなんで知って、」

「しらばっくれんなよ、クソが。いいか、おれはお前と関わる気なんてないからな」

 その背中は、ついてくるなと言っていた。結局彼は、つばめの顔を見ることもなく、春の日差しの中に消えて行った。綺麗なガラスの自動ドアに、呆然とした表情の自分が映る。初対面の人に、ここまで嫌われるなんて。どうして自分は、人間関係を構築するのがこうも下手なのだろう。そう思うと、情けなさと空しさで、目からじわり、と水分が滲んだ。

 つばめは肩を落としたまま、ロビーの隅っこに座ってスケッチブックを開いた。呆然としたまま、それでも真っ白な一ページ目に、数分前に消えたオレンジを思い出しながら、鉛筆の線を一筋滑らせる。日の光を凝縮したような、太陽の色。きっと太陽の下では、もっときれいなのだろうな――そう思うと、つばめの手はすぐに止まってしまった。

(なんか違うんだよな……)

 白と黒では、彼の本質のようなものを描けない気がした。だからと言って色をたくさん使っても、それはよく似た偽物にしかならない気もする。

「名前、なんていうんだろう」

 あんなに冷たく背を向けられて、どうして自分は彼を忠実に再現しようとするんだろう。そう思いながら。つばめはそれでも、一心にあのオレンジに思いを馳せていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る