警鐘
僕たちはまだ霧の中を歩いていた。
馬を引きながら、狭い岩場を手探りに進んでいく。
背後からため息が聞こえた。
「リゼット、どうしたの?」
「実はおかしな感覚がしたのよ」
「おかしな感覚?」
歩を進める速度をゆるめて話に耳を傾ける。
「あの男を突き飛ばした時、とても軽かったの」
「軽いって?」
「そのままの意味よ。まるで干したてのシーツみたいな軽さだったわ」
それは軽そうだ。
しかし、人がそんな軽さのわけがない。
「まさか」
「疑ってるの? 本当よ。あんな岩まで吹き飛ぶほど
たしかにそうだ。
僕は霧の中で見え隠れする岩を見て、勢いよく当たれば死ぬ可能性は大いにあると感じた。
だから、リゼットが男を殺すんじゃないかと肝を冷やした。
「じゃあリゼットはあの男は普通の人間じゃないって言いたいの?」
「それこそまさか。居るわけ無いわ、そんなもの」
リゼットがその何かを口にするのを憚った時、僕らの前にまたあれが現れた。
「岩の隙間だ……」
何度目だ。
ずっと霧の中を進んでいたはずなのに。
「なんでよ! まだ同じところに戻ってくるなんて」
リゼットは両手を握りしめて焦りを露わにした。
僕だってそうだ。
もう出られないのか、僕たちは……。
心がじわじわと押しつぶされていく気がした。
「こんな所で足踏みする余裕なんて無いのに。それに石碑も見つからないし。あの男の魔術のせいなのか? なら突き飛ばしちゃダメだったんじゃ」
つい弱音が出てくる。
リゼットが腕を組んで僕を睨んだ。
「なにそれ。わたしが悪いって言いたいの?」
まずい。
頭じゃ落ち着くべきだと分かってるんだけど、そわそわして口を滑らせた。
「違う、ただ男の魔術だったら解かない限り霧を出られないって可能性の話だよ」
「違くないじゃない。もう突き飛ばしたんだから後の祭りよ。それに魔術ならあんたの専門でしょ! なんとかしなさいよ」
「知らないよ! こんな魔術は初めてだ。魔術の気配もない」
魔術は大気中の魔素を消費して、別の反応に置き換える。
もし魔術で霧を起こしたなら、水素や風素が残っているものだが、それらの気配を感じない。
「でもあんた石碑を探してキョロキョロしてたじゃない。何か見つけられなかったの?」
「岩に触っても何の声も聞こえないんだ。手がかりが何も無い」
僕は他の人と違って、物に触れるとその物に宿った想いを聞くことができる。
だけど、ここの岩はどれも想いすら宿っていない。
完全に手詰まりだ。
リゼットは、ううう、と唸って、
「そもそもなんでこんな場所にいるのよ!」
爆発するように大声を出した。
岩に声は反響することなく、霧に吸収されていく。
ただ、僕だけに苛立ちがぶつけられた。
「それは、僕が
全部、僕が悪いんだ。
リゼットは単に巻き込まれただけ。
なのに怪我した僕を逃してくれたり、動けない僕の代わりに戦ってくれたり。
つまり、その、今回の僕はお荷物だったのだ。
「ごめん。僕のせいだ。街道を外れるのは危険だと分かってた。途中で霧に包まれた時、僕は引き返す検討すらしなかった。……案内役、失格だ」
迂闊。浅はか。愚行の数々。
リゼットが全て正しい。
僕は深く頭を下げた。
「待って! そんなつもりで言ったんじゃないのよ」
慌てた声に顔を上げると、なぜかリゼットの表情には戸惑いの色があった。
しかし、次第に訝しげに眉根を寄せ始める。
「もしかして、あんた、本当に覚えてないの?」
「なんのこと?」
「わたしたちは引き返す検討なんて出来なかったのよ」
しなかったのではなく、出来なかった。
僕に落ち度が無いとでも言うのか。
いや、違うな。
思い返せば、はじめのうちは引き返そうとしていた覚えがある。
「気づかない? 頭の中にも霧がかっている感じがするの」
リゼットはこめかみに人差し指を当てた。
まるで拳銃で頭を撃ち抜くように。
「この霧に迷い込んでからずっと、わたしの頭の中は、早くあいつを見つけなきゃ、って意識ばかりがぐるぐるしてる」
「僕もだ。早く
「あの男もそうじゃない? ずっと警戒するみたいに鐘を鳴らして、死神のことが頭から離れなくなってる」
ならば。
「わかった。この霧は、……いや、もう考えるのをやめるべきかな」
「そうね。そのためにも、ヨヴィ、頭の中すっきりするくらいのこと、何か無い?」
とても良いアイディアだ。
今だけはまったく関係ないことを考えよう。
後先のことばかりじゃなくて、もっと身近なことを。
「リゼット、こんなこと一度しか言わないからね。乞食をしてた頃の僕は、きみに出会って救われたんだ。……ありがとう」
感謝はしてたけど、伝えてなかった。
エイミの居ない世界に放り投げだされた現実に打ちのめされた。
それが寂しいって気持ちに気付かせてくれたのはリゼットだった。
「なんだ、そんなこと。あんたは勝手に救われなさい」
リゼットは一度もこっちを見ないで岩間を通り過ぎた。
僕も後を付いていく。
◆
霧が晴れた。
僕の先を行くリゼットが「出られた!」と両手を伸ばした。
でも、リーン、リーンとどこかから音がする。
「またか? いや……」
そこには平原があり、羊たちの群れがあった。
鐘の音なんてお構いなしに歩き回り、羊たちの向こうで羊飼いが棒立ちしていた。
羊飼いの男性はこちらに気づいて、三角帽をチョイと上げる。
「やあ、巡礼者さん。こんにちは」
気さくな挨拶に身構えた心が少しほぐれる。
羊たちの間を通って、彼のそばに歩きながら挨拶を返した。
途中、羊たちが邪魔をしてまっすぐは進めない。
「こんにちは。おっと、おっと、元気な羊たちですね」
「おや、これは失敬。この辺りの羊たちはあまり鐘の音を気にしないもので」
ああ、そうだろうなぁ。
「わかります。近くで鐘がよく鳴ってるでしょうから」
そう返しているうちに羊飼いのそばに寄った。
50歳くらいの男性で、シャツをまくった腕は日焼けして黒くなっている。
「巡礼者さんは運がいい。空から聞こえてくるので、私たちは天使の鐘と呼んでるんですよ」
「空から? ええと、僕たち道に迷ってしまいまして」
「道に?」
話を割って聞き返されたが、そこを聞き返されるのはあまりピンと来なかった。
迷った? ならわかるけど。
「ええ。岩場を抜けてここに出たんです。その道中で」
「岩場……ですか。巡礼者さん、こんな所で道に迷うなんてことあるのでしょうか?」
羊飼いは鐘の付いた杖で宙をかき混ぜるように回した。
その動作に合わせて周囲を見回す。
さっきまでの霧は一つもなく、穏やかな平原がどこまでも広がっていた。
「わたしたち、いま出てきた所よね?」
「うん。そのつもりだったけど。夢じゃないのか? 頬をつねって――痛い痛い!」
リゼットは躊躇なくつねった。
千切れるかと思って目を閉じたが、ふたたび開いてもそこには平原があるばかり。
リーン。
どこかから、また鐘の音がした。
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