死神
岩間を抜けたところで僕はリゼットの手を離れる。
どっしりとした岩に寄りかかって腰を落とすと、湿った冷気が尻と背中に伝わってきた。
こめかみに手をやるとぬるりと血の感触がする。
「少し切ったみたいだ」
手には少量の血が付いていた。
ひどいケガじゃなさそうだ。
いま戻れば一緒に霧を抜ける話し合いができるかもしれない。
だが、そう思っていたのは僕だけみたいで。
「あんたね! あんなおかしな奴へ不用意に近づくなんてばかじゃないの!?」
頭上から怒鳴り声がした。
はじめにコートの下から伸びる白い脚に目がいって、分厚いコートで腕組みするリゼットを眺める。
怒ってるんじゃないかと思ったのに。
「少しは自分のことを考えなさい!」
心配そうに僕を見つめていた。
「ごめん、僕の力足らずで迷惑をかけたね。次は上手くやるから」
リゼットは大きなため息をつく。
「次なんて無い。あれは何を言っても無駄なのよ」
「でも霧の中で怯えていた。助けなきゃ」
「なんで」
「
リゼットの顔がひきつった。
それから重心が背中に寄って僕との距離が離れたが、
「……あんたは勇者じゃない。わたしが勇者よ」
後退りすることはなかった。
リゼットはコートからハンカチを取って僕に手渡す。
「まずは血を止めなさい」
「ありがとう」
ハンカチをこめかみに当てる。
リゼットは僕の隣に腰を下ろした。
地面が湿っているから、お尻が付かないようしゃがむ程度に。
「あんたは勇者になりたいの?」
「別に」
「じゃあ同じ神官だから?」
「死神なんて持ち出す神官と一緒にしないでよ。それに、あの人はリゼットのことを悪く言ったから好きじゃない」
「ならどうして?」
「あの手足を見たろ? とても痩せ細っていた」
隣から鼻で笑った呼吸音がした。
「だから助けたいって? 取り返しの付かないばかね」
罵られているのに不思議といやな気がしなかった。
リゼットの方へ視線をやる。
膝に頬を乗せて、僕を見つめていた。
目が合って、リゼットの碧い瞳の黒目が大きくなった。
でもすぐにリゼットが目をそらす。
「ま、また無言になったわね。ほら何か話すんでしょ」
「ああ、そうだった。今度はそっちが何か聞いてよ」
まだ頭を殴られた衝撃が残ってて、ぼーっとしている。
考えがうまくまとまらないなりに思うのは、この時間は死神への恐怖を忘れられるくらい密だったってこと。
「だったら今度はあんたの好きなものを教えなさい」
「妹だ」
即答した。
「は? なにその即答、こわっ」
「は? 妹が世界で一番だろ」
何を怖がることがあるんだろう。
リゼットは頭を横に振って難しい顔をした。
「いや待って待って。あんたそんな奴だったっけ?」
「生まれる前からそうだけど」
生前から僕はエイミのために生きている。
死後、転生してもそれは変わらない。
「それが怖いのよ。何なのあんた、ちょっと良いかもって思ったのに……」
「何だよそれ。僕にとって唯一の家族なんだぞ」
「ご、ごめんなさい……」
リゼットが申し訳無さそうに肩を縮ませた。
「良いんだ。僕も話さなかったし。少し話そう。僕は孤児で、双子の妹がいた。神官になったのも本当は妹を探すためだったんだ」
でも最初の巡礼でその目論見は潰れた。
「へえ、あんたも人探しの旅なんだ」
「というと魔王領に行こうとしているのも誰かを見つけるためなの?」
「ま、そんなところね。早く見つけなきゃならないわ」
魔王領に知り合いがいるってことは無いだろう。
あそこは無法地帯だと聞いているし、罪人が流れ着くという。
リゼットはコートの裾を強く握りしめている。
いったいどんな奴か怖くて聞けなかった。
たぶん聞いてしまったら残酷な何かが待っている気がしたから。
そして、鐘の音がした。
◆
狭い岩間の前に立つ。
リゼットはあきれてため息をついていた。
「これを最後にするよ。これでだめなら諦めて霧を抜ける方法を探す」
約束するという気持ちを目で伝えた。
リゼットの碧い瞳が岩間の方に向けられる。
「無様に殴られっぱなしになるんじゃないわよ」
「わかってるよ」
僕らは岩間を超える。
深い霧の真っ白な視界の中で、リーン、リーン、と鐘が鳴る。
その音がピタリと止まった。
ぶつぶつと念仏のようなものが聞こえてくる。
だが、その唱えられていた言葉が、「死にたくない」だと気づいた時、僕は反射的に耳を両手で塞いだ。
「死にたくない、死にたくない、死にたくない……。霧よ、死神を潰し給えッ」
呪いの魔術は相手に聞かせることで発動するのだが、それはまったく見当違いだった。
この霧そのものが、男の作った魔術だったのだ。
真っ白な霧が密度を増して、完全な白い質量となって僕の体を押しつぶそうとする。
「ヨヴィ!」
「わかってる!」
もう話し合いも何もない。
思い込みだとしても敵意を持った攻撃に他ならないからだ。
先に動いたのはリゼット。そして、コートを脱いで旗のように振り回した。
巻き起こる風によって霧が薄まると、その先にか細い手足の男が現れる。
錫杖をこちらに向け、悲鳴を上げた。
「ひぃぃ! 死神め!」
「だれが死神だっていうのよ」
殺気。
薄くなった霧の裂け目にリゼットがダイブする。
「リゼット、だめだ!」
その人を殺しちゃいけない。
彼女の旅の先には死の匂いがする。
いますぐの殺人だって厭わないかもしれない。
「ひぃぃぃ! 死神だ、しにが――」
男の悲鳴はそこで途切れた。
吹き飛んだ男は岩に背中を打ち付け、その場に倒れ込む。
霧の圧迫が止んだ。
「リゼット、その人は」
「突き飛ばしただけよ。さ、今のうちに逃げましょう」
颯爽と振り向いて金髪が舞った。
だが、霧自体は晴れていない。
リゼットの後ろで、男は地面を這いつくばり、片手のひらを握り込む。
「リゼット!」
僕は彼女に体当たりした。
バクン、と後頭部で音がした。
間一髪とはこのことだ。
「大丈夫? 怪我はない?」
リゼットは地面と僕に挟まれる形になった。
えらく整った顔が間近にある。
でも、その表情は驚きから真剣なものへと変わりつつあった。
「問題ないわ。それよりどいてくれる?」
「ごめん。はやく逃げよう。……それと服を着てくれ」
ゲシッと足を蹴られた。
いや、ほとんど裸みたいな
旅してしばらく経つけどまったく慣れない。
「あんたには緊張感ってないのかしら?」
「それリゼットが言う?」
僕は立ち上がって、リゼットに手を差し出す。
彼女が僕の手を握って立ち上がった。
リゼットがコートを羽織る。
「行くわよ」
「うん」
僕はリゼットの後ろを追って岩間を引き返した。
いつか彼女は殺しに手を染めるようなことがあれば、僕は本気で止めなきゃならない。
それが僕らの関係を壊すものだとしても。
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