魔狼
シスターさんはビクビクしており、彼女が何度か一瞥を繰り返すのはリゼットの鋭い目つきだった。
「そんな睨むような目やめなよ、リゼット」
「ヨヴィ、危ないわ。下がりなさい」
リゼットは拳を前に出す。
急に何を言い出すんだ、と思ったそのとき。
「魔獣だ!」
広場で誰かの叫び声が聞こえた。
声のする方を見ると、大きな狼が白い建物の上に陣取っている。
狼は牙を見せて唸る。人間を3人くらいぺろりといけそうな大きな口だ。
「ほ、本物か? これが……」
話で聞いていたのとは迫力が段違いだ。
怖いのに足が一歩も動かない。
嘘だろ、エイミが追い払ったって傭兵の男が言ってたのに。
「本物よ! ヨヴィ、狼の前足を見なさい。あれは魔狼フェンリルよ」
隣からリゼットが叫んだ。
体躯は赤茶色だが、前足から黒いガスのようなものが出ている。
ここに来る途中の大岩で語ったあの魔狼フェンリルだ。
「キャアアアア!」
広場は女性の悲鳴からパニックになった。
人々が逃げ惑い、一つの屋台が大きな音を立てて崩れた。
フェンリルの視線は音を立てた屋台の方へと向く。
「ひぃぃぃ! 傭兵、何のために雇ったと思ってるんだ。早く助けてくれぇ!!」
「ならボス、さっさと逃げろ!!」
「腰が抜けて動けないんだよぉ!」
あれはあのときのマッチョな傭兵だ。
その後ろで石畳に尻を付いているのは雇い主の行商人か。
相手はフェンリルとかいう伝説級の魔獣だ。
下手に刺激しない方が良い。
そう思った矢先。
「くそう、どこからでも掛かってこい!」
傭兵が剣を抜いた。
最悪だ――フェンリルは傭兵めがけて白い建物から飛び降りる。
まずい!
僕は駆け出した。
だが、着地とともに大地が揺れ、僕は態勢を崩す。
視線を外したしばしの空隙にフェンリルは石畳に降り立っていた。
傭兵の姿が無い。
まさか踏み潰されたのか。
「こっちよ」
広場の端にリゼットがいた。
傭兵の首根っこを掴んで、パッと手を離す。
「痛っ」
どうやら傭兵は無事みたいだ。
それにしてもあの一瞬でリゼットは傭兵のおっさんを助けたらしい。
異常なスピードだ。
「ひぃぃぃ! 傭兵、俺を置いていくな!!」
おっと、感心している場合じゃない。
腰を抜かした行商人が怯えた声を出して、フェンリルの気を引いてしまったようだ。
ああ、どうしよう。
あんなの僕じゃどうしようも無いって。
フェンリルは襲撃先を完全に行商人に切り替えて駆け出す。
くそ! 僕は行商人の方へ走る。
「我が手に、風の力を宿して集め」
右手の平を空に広げる。
詠唱に応じて大気中の風素が僕の右手に寄ってきた。
風素は楽しいこと好きだから、僕は指揮者みたいに指を振る。
「
砂埃が舞い上がって僕と行商人を囲う風の渦が出来た。
フェンリルがその風の渦に襲いかかるが、前足を風圧で押し戻す。
行商人が「おお」と歓声を上げた。
「賢者さま! 勇者のごとくあの魔獣を引き裂いてくだされ!!」
それは大岩でリゼットが語った聖典のエピソードだ。
フェンリルに食われた
なら、僕だって。
風素を操る右手を振り上げた時、シスターが竜巻とフェンリルの間に割り込んだ。
危ない。反射的に手を止める。
「やめてください!」
悲痛な叫び。
その声に驚いたのは僕だけではなかった。
フェンリルはシスターをじっと見つめた後、急に踵を返して街の外へと走り去る。
なぜフェンリルは去ったのだろうか?
シスターの本気さにおそれをなしたのか。
分からない。けど、脅威が去ってほっとして力が抜ける。
「ふぅ……、怖かった」
風が止む。
僕はシスターのそばに駆け寄った。
「お見事。助かったよ」
「あ、はい! とても危ないところでした」
シスターはまたおどおどして、フェンリルが去った方角を見やる。
それから彼女は「変な話ですけど」と前置きして僕に視線を戻した。
「また危険な目に遭うかもしれません。今日は外出を控えていただけますか?」
「それは構わないよ。教会の宿舎で休ませてもらうつもりだったし」
傭兵の肩を借りて行商人が立ち上がった。
意外と背丈のある中年のおじさんだ。
「それは困る。商売上がったりだ」
「ですが、安全を考えると……」
「教会が商売の邪魔をするつもりか?」
中年商人が圧のある声で言うものだから、シスターがおろおろし始める。
やれやれ。
「お客さんに何かあれば商人のあなたも困るのでは?」
「う。それはそうだが……」
「次は僕らが一緒にいるとは限りませんよ」
ちょうど僕の隣に立っていた傭兵にちらりと目をやる。
おっさんは苦い顔をして、僕の脇腹を小突いた。
「そうですぜ、ボス。それにあんな魔術、俺にゃ使えんです」
「ぐぬぬ……。仕方ないっ。休業だ! 傭兵! お前も手伝え!!」
行商人はしぶしぶ店じまいを始める。
パニックで崩れた屋台を傭兵のおっさんはため息を吐きながら片付けた。
僕らは二人と別れて、シスターに連れられて教会へ向かう。
「あ、しまった」
石畳の坂道を上りながら、足を止める。
勇者の石碑に触りそびれたことに気づいた。
ああまで言った手前、今は戻りづらい。
明日、改めて石碑に触ろう。
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