第45話

 八月三十一日、木曜日。

 アルバイトのシフトが入っていない今日、茉鈴は自宅で休日を過ごしていた。

 八月も終わろうとしているが、陽が暮れても暑さは相変わらずだった。おそらく来月いっぱい残暑が続き、エアコンが必要になるだろう。電気代が痛手だが、死活問題なので仕方ない。


 失恋して、三日目になる。あっという間に過ぎたと、茉鈴は感じていた。

 ハリエットと英美里から励まされ、落ち込んだ気分は幾分和らいだ。利用されていると知りながらも、あのふたりを味方だと捉えた。

 そして、明日のアルバイトで――蓮見玲奈と再会する。

 茉鈴は今その様子を考えただけで、怖かった。何を言われるのだろう。どのような目で見られるのだろう。そもそも、構ってくれるのだろうか。

 玲奈に、再び友達からやり直すよう手回しを行ったと、英美里が言っていた。茉鈴はそれを信じたいが、今すぐにでも逃げ出したい気持ちだった。本音では、恐怖からまだ会いたくない。

 食欲が無く、午後八時になろうとしているが、夕飯はまだだった。痛む胃を抑えながら、茉鈴はベッドで仰向けになった。


 ――もう玲奈ちゃん相手にカッコつけるの、やめてください。


 茉鈴はあの夜、英美里から言われたことが、耳から離れなかった。そうしなければいけないと意識する一方で、疑問もあったのだ。

 これまで、玲奈の理想に応えてきた。しかし、弱い姿を見せてしまい、蛙化した。だから、カエルになった現在――カエルのまま受け入れて貰えるとは、到底思えなかった。

 玲奈が夢見る乙女であるとは、茉鈴も思う。気高い女王が求めているのは、カエルではなく、胡散臭い魔法使いだ。

 本当に、無理をしなくてもいいのだろうか。

 否、無理をしなければ手に入らない。欲しいものに手を伸ばすならば、無理をしてでも対価を払う必要がある。


 そのように思っていると、扉を乱暴に叩く音が聞こえた。

 茉鈴は溜め息をついてベッドから起き上がる。そして、仕方なく扉を開けた。


「どーせ飯まだやろ? ご馳走買ってきたで」


 喜志菫が立っていた。

 無邪気な笑みを浮かべていた。珍しく上機嫌だと、茉鈴は思った。いや、どこか懐かしさを感じながら、菫を部屋に上げた。

 菫の持つビニール袋から、ジャンクフード特有の強い匂いがした。食欲の無い茉鈴にとって、胃がさらに気持ち悪くなりそうだった。


「よっしゃ、食べよか」


 菫は大手ハンバーガーショップで購入してきたようだ。テーブルに広げたのは――ハンバーガーふたつの他、おそらく最大サイズのフライドポテトに、チキンナゲットまである。さらに、コンビニの小袋から、ハイボールの缶をふたつ取り出した。

 茉鈴は経験したことが無いが、友人らとはしゃぐ時は、このようなものを用意するのだろうと思った。


「いや、食べないよ」

「ええから食えや。人間、何か食わんと生きていかれんで。うちはお前に死なれたら、困るんや」


 菫は座椅子に座ると、リモコンでテレビをつけた。

 今更ながら、まるで自分の部屋のように寛いでいると、茉鈴には見えた。

 死なれては困る。こうして食料を持参したことからも、菫から気遣いの意図が伝わった。

 だが、実際は万全の状態にしたうえで蔑みたいだけだと、理解していた。


「私は死なないよ。まだ死ぬ気は無い」


 茉鈴はその意図を否定する意味で、床に座ってテーブルのハンバーガーを手に取った。そして、吐き気を我慢しながら、無理やり食べた。


「もう泣かないって決めたんだ。私は強くなる」


 英美里の言葉に説得力があれど、正しいとは思えない。茉鈴は『無理をしてでも玲奈の理想を演じ続けること』を決意し、宣言した。そうまでして、あの気高い女王が欲しかった。

 菫を憎み、抗ったわけではない。証人は誰でもよかったのだ。


「は? 何言うてんの? 無理やろ」


 菫は視線をテレビから動かさなかった。

 実に適当な相槌だった。声に笑いが含まれているのは、宣言に対してなのか、それともテレビになのか、茉鈴にはわからない。

 ただ、どれだけ侮られても構わなかった。決意を固く持った。


「無理じゃないよ。私は変わる。菫ちゃんには悪いけど……もう、失いたくないんだ」


 喜志菖蒲を簡単に見放したことは、どれだけ謝罪しても許されないと茉鈴は思う。

 罪悪感は消えない。まして、別の女性のために今さら変わろうなど、都合の良い話だ。

 それでも、茉鈴は過去を清算して、前へ進みたかった。


「……」


 ようやく菫がテレビから視線を外し、茉鈴へ向けた。無言で茉鈴を睨みつけた。

 テレビの雑音が茉鈴の耳に触れる。菫からの圧に目を逸らしたかったが、茉鈴もまた菫を見つめた。


「ええんちゃうの? うちには無理やと思うけど」


 菫に痺れを切らした様子は無い。だが、再びテレビに視線を戻し、素っ気なく漏らした。


「お前は根っからの臆病者や。土壇場で、また逃げるに決まっとる」

「違わない! もう逃げないよ!」

「そないなこと、誰かて言える。でもな……人間、そんな簡単に変わらんで」


 まだ十代の少女だというのに、妙に達観した物言いだと茉鈴は感じた。

 過去に一度、菫の言った通りになったからだ。悔しいが――こちらを理解したうえでの予言だった。


 菫は自分にとって何なのだろうと、茉鈴は今一度考える。

 一言で表すなら『被害者の妹』だ。恨まれて当然だった。

 そんな彼女が、どうしてかこの部屋を頻繁に訪れ、怠惰に過ごしていた。

 言葉を交わすことは、ほとんど無かった。茉鈴は菫の存在が苦手だったが、罪悪感から追い出せなかった。結果的には、この部屋で同じ時間を共有していた。

 そう。自分もまた菫と同じく、学校に通うことはほとんど無かった。怠惰に過ごしていただけだと、茉鈴は振り返った。周りに興味が持てず、ただ時間を貪るだけの――共通点があったのだった。

 どうして菫に理解されているのか、わからなかった。たった二年の付き合いだけでは、納得できなかった。


「菫ちゃんだって、変われるよ。私と一緒に頑張ろう」


 茉鈴は菫に優しく微笑んだ。

 この少女と『似た者同士』だったのだと、ようやく理解した。

 きっと――あの時、喜志菖蒲から逃げた『臆病者』は、自分だけではなかった。


「は? 何言うてんの? 気持ちわるー」


 菫は食べ終えたハンバーガーの包み紙を丸め、茉鈴に投げた。

 顔に当たるが、茉鈴は笑顔を崩さなかった。

 このような態度に出たからか、菫が溜め息をつき、立ち上がった。そして、玄関の扉に向かおうとしたところを――茉鈴は腕を掴んだ。


「触んな! 気分悪いわ! 死ね、アホ!」


 だが、力強く振り解かれ、さらに暴言まで浴びせられた。

 その後すぐ、菫は部屋を出た。玄関の扉が、乱暴に閉められた。

 ひとりきりになった茉鈴は、食欲が湧いてきた。気持ちの整理がついたからであった。テーブルに残された、大量のフライドポテトに手をつけた。


 この二年、菫に対し罪悪感があった。本来は菖蒲に向けるはずだったものが、被害者である菫に向いたまでだった。

 しかし、今は菫本人への罪悪感へと変わった。二年前、家庭教師として菫を導くはずが、同じ臆病者へと辿らせてしまったのだ。

 今になって、茉鈴は重く圧し掛かるのを感じるが――まずは自分からだと思った。


 臆病者から変わりたい。強くなりたい。しかし、具体的にどうすればいいのだろうか。

 茉鈴は漠然と考えるよりも、失敗を振り返った。玲奈に弱い姿を見せたのは、まずは体調を崩した時だった。

 そして、次に就職活動を相談した時だった。

 それがそもそもの発端だったと、茉鈴は思う。卒業後の進路はおろか、自分のことすら分からなかったからこそ、玲奈に涙を見せたのだった。


「とりあえず、そこからか……」


 フライドポテトを摘みながら、茉鈴は呟いた。



   *



 九月一日、金曜日。

 午後四時前――いつもより少し早い時間に、茉鈴はおとぎの国の道明寺領へと入った。


「お、お疲れさまです」

「さあさあ。女王様の到着を待ちましょうか」

「マーリン様、ファイトですよ!」


 今朝からずっと緊張していたが、ハリエットと英美里の顔を見て、少し安心した。

 三人でスタッフルームに移り、テーブルを囲んで座った。

 茉鈴は胃痛を抑えながら、その時を待った。


「お疲れさまです。お土産買ってきましたよ――って、あれ?」


 やがて、店内から声が聞こえた。店内に誰も居ないことに、不思議がっているようだった。

 スタッフルームの扉が開き、ひとりの女性が姿を表した。

 コーラルベージュの長い髪が綺麗だと、茉鈴は思った。髪色のせいか、色白の顔でも血色が良いように見えた。

 そして、凛とした雰囲気は、まさに女王に相応しい。

 女性は狭い部屋に従業員三人が固まっていることに驚いた後、茉鈴に半眼を向けた。

 茉鈴は目が合うが、決して逸らさなかった。


「お久しぶりです……先輩」


 会いたくなかった――しかし会いたかった蓮見玲奈から、白けた表情で見下された。



(第15章『無理をしてでも』 完)


次回 第16章『女王との再会』

茉鈴は玲奈と、今後について話す。

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