第44話
八月二十九日、火曜日。
午後三時を過ぎ、茉鈴は憂鬱な気分を引きずりながらも、アルバイトに向かった。
昨日、蓮見玲奈に失恋したばかりだ。本音では、その相手と顔を合わせたくない。
しかし、このような自分を雇ってくれた店に、迷惑をかけたくもない。既に申請しているシフトの分は最後までこなし、退職するつもりだった。もう少しだけ、頑張ろうと思った。
午後四時過ぎ、店へと到着する。キリキリと痛む胃を抑え、扉を開けた。
「お疲れさまです」
スタッフルームには、まだ誰も居なかった。
茉鈴はふとホワイトボードを眺め――胸を撫で下ろした。
「マーリン様、ご機嫌麗しゅう……。レイナ様でしたら、以前から仰られてた通り、帰省されていますわ」
部屋にハリエットが入ってきた。背後から落ち着いた声と共に、茉鈴は肩に手を置かれた。
そう。玲奈の次のシフトは、九月一日の金曜日だった。ハリエットの言葉を信じるなら、昨日今日で急に帰省が決まったわけでも無さそうだ。
茉鈴としては、命拾いした気分だった。
「あらー。どうしましたの? なんだかホッとされてますけど……」
「……玲奈とのこと、知ってるんですよね?」
ハリエットのわざとらしい台詞から、そうとしか思えなかった。
昨日の出来事が誰からどのように伝わったのか、わからない。この早さから、玲奈がアルバイトを退職すると申し出た可能性が考えられる。
何にせよ、茉鈴に隠す気は無かった。退職の理由として、話すつもりだった。
「そのことですけど……お仕事終わってから、朝までお時間あるかしら? 火曜ですし、パーッと飲みに行きますわよ!」
茉鈴が振り返ると、笑顔のハリエットから意外な提案を受けた。おそらく、慰めるつもりだろう。
退職願いを申し出れば、すぐにでも受け入れてくれると思っていた。その程度の扱いだと思っていた。だから、このような人間を気にかけてくれることが、申し訳なく――そして、嬉しかった。
「ありがとうございます。火曜だからって言われても、ワケわかりませんけど……」
本音では面倒だと思うが、せっかくの好意を無下には出来なかった。
「わかりましたわー。それでは、本日も頑張ってくださいね!」
ハリエットから励まされ、落ち込んでいた気分が少しは楽になった。
そのことがあってか、アルバイトに支障は無かった。むしろ『魔法使いマーリン』を演じることで、気が紛れた。
ただ、客からレイナが居ないことに触れられる度に、心が少し痛んだ。公務休暇中だと、答えておいた。
普段は終電の都合上、茉鈴は午後十一時で上がっていた。午後十二時の閉店まで残ったのは、初めてだった。
一足先に着替え、店の前で待っていた。
「お待たせしました、安良岡さん」
「ほな、行こかー」
春原英美里と共に――彼女より小柄な人物が現れた。
背丈とペールオレンジに染めたベリーショートヘアから、茉鈴の第一印象は『少年』だった。だが、リネンのフレアスカートを履いていることから、おそらく女性だと判断した。そして、髪色から連想できるのは、ひとりしか居なかった。
「は、はい」
縦ロールの奇抜な髪型はウィッグだったのだと、どうでもいい情報を茉鈴は知る。しかし、触れるべきではないと察した。
ハリエットと英美里に連れられ、歩いた。
平日のこの時間帯でも、繁華街は明るかった。特に、飲食店――というより居酒屋やバーは、まだ営業しているところが多い。かつて、玲奈と終電を逃したことが懐かしかった。
ハリエットの提案で、適当にあった全国チェーン店の居酒屋に入った。テーブル席に通されると、とりあえず生ビールを三つ注文した。
「お疲れさまです!」
「ぷはー。仕事終わりの一杯は、たまらんなぁ」
「あ、ありがとうございます……」
明るく乾杯して酒を飲み始めるふたりに、茉鈴も戸惑いながら一口飲んだ。この時間でも外は暑かったため、冷たく冷えたビールが、とても美味しかった。
しかし、気分は浮かばない。仕事終わりとして楽しく飲めたなら、どれほど良かっただろう。茉鈴は不安げな目で、ふたりを見た。
「それで、昨日なんですけど……」
「玲奈に振られたんやろ? すまんな。ちょーっと耳にしたんや」
やはり外野に知られていたと、茉鈴は理解した。
ハリエットの表情は明るいが、面白がっているわけではないのが幸いだった。
「そういうことなら、話が早いです。振られたのは事実ですので……キリのいいところで、バイトを辞めようと思います。今まで、ありがとうございました」
茉鈴は単刀直入に、自分の考えを話した。店で改まるよりは――常識に欠けるかもしれないが、このような席の方が話しやすかった。
決意したことなので、後悔は無かった。むしろ、伝えてすっきりした。
向かいの席に並んで座っているハリエットと英美里のふたりは、残念そうに顔を見合わせた。
「そう言うんとちゃうかと思ってたけど……店の経営者としては、引き留めたい。無理してでも、考え直してくれへんやろうか?」
「玲奈ちゃんのこと、諦めていいんですか!? 一回振られたからって、何ですか!」
片方は冷静であり、もう片方は感情的だ。
ふたりがそれぞれの主張を口にし、茉鈴は混乱した。
「わかりましたから。話聞くんで、順番に喋ってください」
ふたりの意見を順に聞いた。どちらの話も、結局は店の売上に結びつく内容だった。
要するに、稼ぎ頭であるレイナとマーリンにはアルバイトを続けて欲しい。そのために、玲奈と仲良くして欲しい。
この期に及んでまで利用されることに、茉鈴は癪だった。
「玲奈にはもう、振られたんですよ……」
大体、復縁できるとは思えない。
諦めたと言えば、嘘になる。出来ることならば――もう一度『友達』からでも、やり直したい。
しかし、昨日の手応えとしては、叶わぬ願いだった。
「そうですけど、諦めないでください! 玲奈ちゃんは、友達としてもう一度付き合ってもいいって、言ってました! バイトもまだ続けます!」
「え?」
英美里の言葉に、茉鈴は驚く。
話を詳しく聞いたところ、英美里は昨晩、玲奈からやけ酒に付き合わされたらしい。そして、かろうじてアルバイトに繋ぎ止めたようだ。
玲奈も利用されているのだと茉鈴は呆れるが、結果的には少し希望が持てた。
「どうもな、あんたは蛙化したみたいなんや」
「蛙化?」
「蛙化現象って、知りません? 最近の流行語ですけど」
「たぶん、初めて聞いたよ。そんなおかしな言葉が流行ってんの?」
流行に疎い茉鈴は携帯電話を取り出し、インターネット検索をした。
片思いだった相手と両思いになった途端に熱が冷める現象だと、言葉の意味を知る。確かに、昨日の玲奈にそれが当てはまる可能性はあると思った。
そして、その現象が起きる原因は『理想と現実のギャップ』と『恋愛に対して臆病』のふたつらしい。
茉鈴はどちらも理不尽だと感じたが――後者に一年前を思い出した。玲奈から告白された際、これが理由で拒んだのであった。自分も体験したことだと、理解した。
「いいですか? 玲奈ちゃんは、夢見る乙女なんです。安良岡さんは、カッコよくなければダメなんです」
「それは……前から私も、薄々は思ってた」
玲奈からどのような理想を求められているのか、理解はしていた。それでも、弱い自分を受け入れてくれると信じて告白したが――結果は蛙化した。
茉鈴は、振られた理由が腑に落ちた。玲奈に弱さを見せてはいけなかったのだ。
「最近、様子がおかしかったけど、何かあったんか?」
「ええ。ちょっといろいろ……」
玲奈に就職活動の相談をしてから気持ちが戸惑っていたと、茉鈴は自覚している。周りの目からも顕著だったようだ。
「あの客か? あんたの元カノか?」
「確かに、あの子ともいろいろありましたけど……元カノじゃないです」
ハリエットの言う特定の客は、喜志菫しか思い浮かばなかった。彼女との関係はややこしいので、とりあえず否定しておいた。菫の居ないこの場でも、罪悪感からストーカーとは呼べなかった。
「とにかく……もう玲奈ちゃん相手にカッコつけるの、やめてください」
「え? そうなの?」
英美里の言葉が、茉鈴は意外だった。
てっきり『次こそカッコ悪いところを見せないでください』と予想していた。
「当たり前じゃないですか。二十四時間、毎日、いつでも――カッコつけられる完璧超人なんて、居るわけないですよ。いつかは必ずボロが出ます」
「そうやで。お互いにダサい部分も引っくるめて、分かり合うんや」
「は、はぁ……」
確かに、原因が明白である以上、的を得た対策だと茉鈴は思う。
だが、どこか腑に落ちなかった。当事者のひとりとして、なんだか違和感があった。
「ええか? うちらはなるべくフォローするから、とにかく今度は無理しなや」
利用する者とされる者で、結果的に利害は一致していた。どれだけ癪でも、このふたりは心強い味方だ。頼らざるを得ない。
玲奈とやり直したい気持ちを、茉鈴は持っている。それにあたりやるべきことは、単純明快だ。
しかし、正体のわからない違和感が纏わりつくだけでなく――そもそも、自分にそれが出来るのか、不安だった。
昨日振られたばかりであり、まだ臆病だからだろうかと、茉鈴は思う。
「はい……。頑張ります」
そして、小さく頷いた。
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