第15章『無理をしてでも』
第43話
八月二十八日、月曜日。
蓮見玲奈に告白するも振られた安良岡茉鈴は、図書館からアパートの自室へと、午後四時過ぎに帰宅した。
エアコンを動かし、蒸し暑い空気の籠もった部屋を見渡した。
昨晩は玲奈が料理を作ってくれた。一緒に酒を飲み、食事をした。そして、素肌を重ねた。
楽しいことだけではない。この部屋で時には涙を流し、辛いこともあった。だが、それらは全て、玲奈との思い出だった。
そう。思い出として途切れてしまった。これから先、続くことはない。もう、玲奈が来ることは無いのだから。
六畳の狭い部屋が、茉鈴は異様に広く感じた。
今日は牛乳ぐらいしか栄養を摂取していない。朝から何も食べていないが、空腹感どころか胃がキリキリと痛み、食欲が湧かなかった。精神面によるものだ。
茉鈴は何もする気になれなかった。ベッドで横になり――ようやく泣いた。
それから何時間泣いたのか、わからない。
茉鈴は頭痛に苛まれ、思考を放棄していた。涙を流しながら、ぼんやりとしていた時だった。
玄関の扉が、表から乱暴に叩かれた。
ブザーを鳴らすのではなく、そのような真似をする人間を、茉鈴はひとりしか知らない。
居留守のつもりで放置するが、扉を叩く音は鳴り止まない。
灯りが点いているからだと、天井を眺めて茉鈴は納得した。テレビや話し声が聞こえないことからも、読書しているとでも思っているのだろう。
茉鈴は仕方なく起き上がり、扉を開けた。
やはり、喜志菫が立っていた。
「はよ開けんか――って、泣いてたんか?」
菫に怒鳴られた方が、まだよかった。茉鈴は顔を見られた瞬間、大笑いされた。
どれだけひどい顔をしているのかと、恥ずかしくなる。近所迷惑を考え、菫を部屋に上げた。
「なに? どうしたん? また振られたんか?」
「そうだよ……。好きなだけ笑っていいから、もう放っておいてよ」
茉鈴はすぐ、再びベッドで横になった。下品に笑う菫に、背中を向けた。
だが、菫がベッドに腰を下ろし、マットのスプリングが軋んだ。
「な? うちの言うた通りやろ? お前はどう足掻いても、ひとりぼっちになるんや」
現実が振り下ろされる。
確かに、菫が何もせずとも、自滅するかたちとなった。今度は上手くいく手応えがあったからこそ、この結果は悔しかった。
茉鈴の中で、感情が爆発した。身体を起こすと、菫をベッドに押し倒した。
「キミに、
そして、菫を見下ろし、声を震わせた。
菫が悪くないことも、嘲笑う資格があることも、理解している。菫を責めることは出来ない。
それでも、茉鈴は今回の件を蔑まれ、腹を立てた。きっと、初めて菫に抗った。
この三ヶ月のことは、誰にも咎められたくない。自分を理解できる人間は、世界で蓮見玲奈ひとりだけだ。
「お前みたいな変わり者のこと、わかるわけないやろ。ちゅーか……お前の方こそ、他人を理解する気なんか、無いくせに」
菫はこの状態でも一切動じることなく、笑いながら茉鈴を見上げた。
姉である菖蒲とのことを言われたと、茉鈴はまず思った。彼女への理解不足であったことから、慰めることが出来なかった。
しかし、玲奈とのことを見透かされたような気がした。
結局のところ、どうして玲奈に拒まれたのか、未だにわからない。だが、少なからず――こちらから一方的に縋り付いた自覚はある。
この三ヶ月で玲奈のことを理解したつもりだったが、実際はどうであったのだろう。
茉鈴は唇を噛み、菫を睨みつけた。
「悪いけどな……あの女よりは、うちの方がまだ、お前のことわかってると思うで」
「違う! そんなことない!」
「そんなこと、あるんや……。お前は世界で一番可愛そうな奴やなぁ」
菫はまるで子供のように、無邪気に笑う。
適当な同情の言葉など、落ち込んでいる者に対し誰でも言えると、茉鈴は思う。
しかし、どれだけ細やかでも、慰めこそ――現在の茉鈴が最も欲しいものであった。
茉鈴は菫を睨んだまま、涙がさらに溢れた。
そして、腹が音を立てた。このような状態にも関わらず、恥ずかしさも込み上げる。
無数の感情が入り混じり、茉鈴本人も混乱した。ただ、泣いた。
「なんや、腹減ってるんか。ちょっと待っとけ」
菫がベッドから起き上がった。押し倒した茉鈴はもはや拘束する気がなく、素直に退いた。
その言葉を残し、菫が部屋を出た。
茉鈴は泣きながら時計を見ると、午後八時だった。いつの間にか胃痛が和らぎ、空腹感が込み上げていた。
菫を待つこと、約二十分。ようやく涙が落ち着いた頃、菫がコンビニのビニール袋を手に戻ってきた。
香ばしい匂いが、茉鈴の鼻をくすぐった。
「帰ったで。ほな、ご飯にしよか」
菫がビニール袋をテーブルに広げた。
ホットスナックとして販売されているフライドチキンと、インスタントラーメンが、それぞれふたつずつあった。
「ラーメン、どっちがええ?」
醤油味とカレー味のふたつだった。茉鈴としては、どちらでもよかった。
「それじゃあ、醤油で……」
「なんや。夏に食べるカレー味の旨さがわからんとは……アホやなぁ」
「アホでもバカでもいいよ。私には、そういうこだわり無いから」
「お前、人生損してるわー。外で食べてみ? トブで」
そのように力説しながら、菫はヤカンで湯を湧かした。
菫がどの程度真剣なのか――気遣っているつもりなのかすら、茉鈴にはわからない。自由気ままな行動に感じ、多少なりとも気が紛れた。
「お前はいっつも、落ち込み方が下手すぎやねん。落ち込むんか腹空かすんか、どっちかにせえよ」
「う、うるさいなぁ」
質素な夕飯をふたりで食べるも、茉鈴は菫から説教された。
茉鈴にとって菫がどのような存在なのか、よくわからなかった。
好きか嫌いかの単純な二択なら、間違いなく後者になる。それでも、菖蒲の一件で強く恨まれているため、こちらからは拒めない。何とも言えない、奇妙な存在だった。
だが今は、かつての――妹のような存在だと感じ、なんだか懐かしかった。
「言うとくけど……勘違いすんなよ? こんなもん、優しさでも何でもないからな?」
茉鈴に自覚は無いが、少しでも和やかな雰囲気を出したのかもしれない。菫から釘を刺された。
「お前はアホでぼっちやから、誰かにちょっとでも優しくされたらコロッといくんやろ?」
「そんなことないよ」
「あの女にも、そんな『勘違い』したんとちゃうか?」
「……」
おかしそうに笑う菫の言葉に、茉鈴は思う節があった。
玲奈ならきっと、弱い自分を受け止めてくれると信じ、気持ちを伝えたのであった。
それに至った根拠はある。格好悪い姿を何度か見られてなお、その度に肯定してくれた。
だが、その根拠こそが――そもそも『勘違い』だったのなら、前提が覆ることになる。
玲奈は本当に肯定していたのだろうか? 格好悪い姿に、どう思ったのだろうか? そのような疑問が浮かぶが、真相はわからなかった。
「けど、まあ……アホやけど正直すぎるんは、ええと思うで」
菫はラーメンのスープまでを飲み干し、空になった容器をテーブルに置いた。
「わからんかったらわからん方が、まだマシや。あの時、お前が中途半端に慰めてたら……うちはぶん殴ってたと思う」
菖蒲のことを言っているのだと、茉鈴は察した。
無力な自分は、ひどく落ち込んだ菖蒲をどう慰めていいのか、わからなかった。だから、何も出来なかった。
あのような結果を多少なりとも肯定されたことが、茉鈴は意外だった。
いや、これは玲奈にも挙げられなかった――菫から見た長所と短所だ。菫なりに理解しているのだと、驚いた。
「それぐらいクソ正直やから……イジリ甲斐があるんやけどな」
そして、菫は歪んだ笑みを浮かべた。
菫の言葉に納得する部分はあるが、菫がどのような存在なのか、やはり茉鈴はわからなかった。しかし、菫と話して多少は頭を働かせたからか、落ち込んだ気分は少し和らいだ。
代わりに、菫と玲奈の両名に対し、複雑な心境だった。
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