第33話
八月二十一日、月曜日。
おとぎの国の道明寺領が定休日の今日、玲奈は午前十一時半頃に、茉鈴のアパートへ足を運んだ。
「いらっしゃい。ランチ作るよ。素麺と炒飯、どっちがいい?」
出迎えた茉鈴は、いつも通り――Tシャツとショーツだけの格好で、化粧もしていない。
「それじゃあ、素麺でお願いします」
玲奈は駅から蒸し暑い中を歩いてきたので、涼める料理を選んだ。茹でるだけで構わないため、料理の腕が問われない方、という意味も含まれている。
この部屋に青ネギやきざみ海苔はなく、薬味と呼べるものは生姜チューブだけだった。
めんつゆにそれを垂らし、ふたりで食べた。玲奈は不味くもなければ美味しくもなく、腹が膨れただけだった。
今日は就職活動の相談で訪れた。茉鈴からは一応、その礼で昼食を振舞われたかたちだった。質素な料理でも、文句は言わなかった。
食後、茉鈴は後片付けをし、ホットコーヒーを淹れた。ふたつのマグカップと共に、ミルクキャンディの袋をテーブルに置いた。
玲奈はミルクキャンディを口に入れ、インスタントの不味いコーヒーを流し込んだ。
「さて。茉鈴の長所ですけど……自分では、何だと思います?」
テーブルを挟んで向き合ったところで、訊ねた。
「うーん……。誰にも無害なところ?」
「それが社会の何に役立つんですか!?」
玲奈は間違ってはいないと思ったが、おそらく自己PRで全く活かせない内容だ。
自身を客観視できないのか、それともふざけているのか、或いは両方なのか――玲奈はただ、呆れた。
「いいですか? 出版業界に求められる能力は、コミュ力らしいです」
調べたことを口にする。自分のことを無造作に描くより、業界の求める被写体に合わせるべきだと考えた。
本の企画や編集の場合、多くの人間が関わることになるため、それをまとめるための能力が必要となるらしい。
玲奈はどこか腑に落ちないが、一応は納得した。
「私にコミュ力かぁ……」
茉鈴は遠くを見るような目を、虚空に向けた。
学校での交友関係が無いに等しいことを玲奈は知っているので、絶望するのは無理がないと察した。
「コミュ力と友達の数に相関性があるかもしれませんけど、それだけじゃないですよ」
玲奈は普段の茉鈴を見ていると、確かにコミュニケーション能力があるとは思えない。だが、無いとも思えない。
「茉鈴は誰とも話せるじゃないですか。現に、バイトでトラブったこと無いですよね?」
アルバイトでの接客の様子から、少なくとも茉鈴に苦手な人種が存在しないように見えた。どのような客にでも、いつも適当な調子で接している――人によっては、失礼に感じるかもしれないが。
玲奈には大なり小なり苦手な客がいることから、側に居てそのように感じていた。
つまり、茉鈴は友好関係が少なくとも、誰にも別け隔てなく接することが出来る。社会が求めているのは、前者より後者だと玲奈は思う。
そのように考えると、求められる能力を茉鈴は持っていることになる。
しかし、何も知らない初対面の人間相手に有ると言ったところで、説得させることは困難だ。あくまでも、玲奈の目からの観測に過ぎない。
成功体験を含め、何か具体的な経験談が欲しいところだが――
「え? ほんと? 私に、コミュ力あるの?」
茉鈴本人は、きょとんとしていた。
まるで、意外だと驚いているように、玲奈には見えた。
「たぶん茉鈴は、どこの職場でも対人で困ることは無いですから……第三者を説得するだけの、具体的なエピソードを考えましょう」
「へぇ。私、そうなんだ……」
よほど嬉しいのか、うっとりしている茉鈴は、人の話を聞いている様子ではない。
玲奈としては、実に鬱陶しかった。
「ねぇねぇ。私の長所、他に何があるの?」
話を進めようとしたが、目を輝かせた茉鈴から訊ねられた。
このままでは、具体例を探すことから脱線してしまう。玲奈は溜め息をつきたいほど、げんなりした。
だが、少し考えた。
茉鈴が自身を客観視できていない、或いは消極的に捉えているのは明白だ。だからいっそ、この際褒めて自己肯定感を与えると、茉鈴から良い案が浮かぶかもしれない。根本を変えるべきだと思った。
「茉鈴はカッコいいですよ。いつも落ち着いていて、余裕があって……何に対しても動じないところは、素敵です」
玲奈は恥ずかしいながらも、普段自分が感じていることを口にした。
昨年からの『理想像』だが、こうして伝えることは初めてだった。
「適当だったり少し変わってたり、マイナス面もちょっとはありますけど……スペック高いんですから、もっと自信持ってください」
励ます意味で、最後に微笑んでみせる。
いつの間にか、茉鈴はどこか不安げな表情で聞いていた。そして、俯くことなく――涙が頬を伝い、流れ落ちた。
「ええ!? ご、ごめんなさい!」
茉鈴が泣き出し、玲奈は慌てる。ひとまず謝罪した。
そのつもりは毛頭無いが――適当だったり少し変わってたり――貶されたと捉えられる可能性がある言葉を発したのは事実だ。
いや、これが本当に原因だろうか。玲奈はどうも解せない。茉鈴にとって泣くほど嫌な『地雷』を、何も知らずに踏んだのかもしれない。
「ごめん、違うの……。玲奈にそう言われて、嬉しかっただけ……」
茉鈴は涙を流したまま微笑み、首を横に振った。
泣くほど嬉しい。茉鈴が嘘をついているようには思えないが、玲奈は解せなかった。
褒めるとはいえ、実に些細なことだ。これしきで感動するなど、あり得るのだろうか。
それに、茉鈴の泣く姿を玲奈は初めて見た。玲奈の
だから、驚き――戸惑った。
「茉鈴……」
きっと、一度開いた栓が閉められないどころか、加速度的に溢れているのだろう。茉鈴は俯き、嗚咽を漏らしていた。
なんだ、この弱い生き物は。以前、茉鈴が風邪で体調を崩した時よりも、玲奈は白けていた。現在は恋心を抱いているからこそ、この無様な姿に胸が苦しい。
それでも、あの時は心身ともに持ち直した。支えれば元に戻ることを知っているため、幻滅しなかった。
玲奈は膝で立つと茉鈴に近づき、肩をそっと抱きしめた。
「私、本当にカッコいい? 今だって、誰がどう見ても最高にダサいよね?」
茉鈴は顔を上げることなく、自棄の声で訊ねた。
いくら戸惑っているとはいえ、玲奈は言葉の意味を理解できた。
しかし、即否定できなかった。確かにそうだと、心中で肯定したのであった。
「……そんなことないです。茉鈴はカッコいいですよ」
少しの間を置き――まるで自分に言い聞かせるように、玲奈は答えた。
いつもの適当で、飄々としていて、静かな余裕のある茉鈴を思い浮かべた。印象を大切にした。
だから、一刻も早くその姿に戻って欲しい。その願いも込められていた。
「玲奈は私を必要としてくれる? 私、玲奈の側に居てもいい?」
顔を上げた茉鈴から、潤んだ瞳を向けられた。縋るように、懇願された。
茉鈴は何かに怯えていた。
何に対してなのか、どうして怯えているのか、玲奈にはまるで分からなかった。ただ、目を合わせていると、恐怖心が伝わってきそうであった。
「そんなの、いいに決まってるじゃないですか!」
玲奈はそれを払拭するかのように、目線を外すことなく、反射的に頷いた。
だって、わたしは茉鈴のことが好きなんですから――そう付け足すと、より説得力が増すと理解できる。実際、口から滑り落ちそうになっていた。
一年前の辛い経験が、抑止した。
就職活動の相談から、どうしてこのような状況になったのか、玲奈はわからない。ただ、この茉鈴の様子から、今気持ちを告白すればほぼ間違いなく受け入れて貰えると、確信に近い予感がある。
それでも、切ない気持ちを押し殺した。確信ではない以上、もう二度とあのような辛さを味わいたくなかった。
気持ちは伝えられない。
怯えているのは自分もだと、玲奈はふと思う。恋愛に対し臆病になっている自分に、嫌気がさした。
そして、一度立ち止まると――理想から大きく離れた茉鈴の姿に、やはり白けた。
「ありがとう……」
膝立ちの胸に、座ったままの茉鈴がもたれ掛かってきた。
「私、玲奈のために頑張るね……」
茉鈴は落ち着き、安らかな表情を浮かべていた。とても居心地が良さそうだった。
「だから、玲奈――」
玲奈は茉鈴に、カットソーの襟元を強く握られた。
言葉の先は要らなかった。茉鈴が何を求めているのか、嫌でも理解していた。
誕生日にこの部屋で貰った、白い花の贈物が頭に浮かぶ。気高さ、美しさ、そして純潔さの象徴だ。
そう。茉鈴はきっと、理想の姿を演じる。だから、こちらの理想に応えて欲しい。『互いに都合の良い存在で居よう』という提案だと、玲奈は捉えた。
「はい」
玲奈は頷くが、萎えた気分に不安が押し寄せていた。
いや、冷静だった。
きっと最初から、互いに理想を求めていた。しかし、ここまで表面化したのは初めてだった。
果たして、このまま都合の良い『友達』で居られるだろうか。言うならば、緊迫状態だ。少しでも間違えば、一気に崩れ去るような――ふたりの関係はとても危うい状態にあるように、玲奈は感じた。
不安について考えれば考えるほど、茉鈴への気持ちがわからなくなる。本当に、これは恋心なのだろうか。それすらも不確かだ。ただ『理想』という一点だけで、かろうじて保っていた。
「わたしも、茉鈴のために頑張ります……」
もう、思考が働かなかった。自分の発言すら、理解できなかった。
玲奈もまた、胸元の温もりに縋るように抱きしめた。カーキグレージュの柔らかな髪を、そっと撫でた。
(第11章『伝えられない気持ち』 完)
次回 第12章『カエルになる魔法』
おとぎの国の道明寺領に、スミレが訪れる。
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