第12章『カエルになる魔法』
第34話
八月二十四日、木曜日。
玲奈の学校は後期日程が十月から始まるため、八月から夏季休暇が約二ヶ月続く。その半分近くを終えようとしているが、九月からは前期の成績閲覧や後期の履修登録等、準備を行わないといけない。玲奈の気分としては、夏季休暇明けが間近に迫っているかのようだった。
勉学とアルバイトは、計画通りの進捗だった。それを基本とし、買い物や花火鑑賞にプール――旅行こそしなかったものの、割と充実した時間を過ごせたと、玲奈は思う。
ただ、ひとつ。先日の、茉鈴との一件が気がかりだった。
就職活動の相談で茉鈴のアパートを訪れたが、茉鈴が泣き崩れてしまったため、本来の目的が果たせなかった。
茉鈴の就職活動が心配だった。しかし、それ以上に――何かに怯えた、とても弱々しい茉鈴の姿が、今でも頭に張り付いていた。
玲奈は茉鈴に対して『余裕のある大人』の印象を、未だに持っている。
八月も終わりに差し掛かろうとしているが、まだ暑い日が続いていた。駅から出てアルバイト先まで歩くだけでも、汗が浮かぶ。
あの日の出来事は
午後四時過ぎ、おとぎの国の道明寺領へと到着した。
スタッフルームには、茉鈴が居た。
「玲奈、おつかれー」
「お、お疲れさまです……」
茉鈴から穏やかな笑みを向けられ、玲奈は少し戸惑った。
いや、これが現実なのだと認識した。いつも通り、余裕のある印象を受ける。
ひとまずパイプ椅子に座ろうとしたところ、近づいてきた茉鈴に、背後から抱きしめられた。
他に誰も居ないスタッフルームでのスキンシップは、珍しくない。しかし、玲奈はなんだか違和感を覚えた。
「玲奈……」
普段はふざけた延長だったが、今は違った。純粋に――まるで、心から求められているようだった。
大事にされているのを感じる。紛れもない、茉鈴からの愛情だ。
だが、何かが違う。玲奈の欲しいものは、きっとそれではない。
かといって、何が欲しいのか分からない。
ただ、茉鈴からの抱擁が、心地良くなかった。この部屋は冷房が効いているとはいえ、まだ汗が引かない中、暑苦しく不快だった。
「さあ、準備をしましょう」
玲奈は適当に理由をつけて、茉鈴から離れる。そしてパイプ椅子に座り、まずは鞄から汗拭きシートを取り出した。
理由がよくわからないまま戸惑っている自分に、何とも言えない気持ちになった。
午後五時になり、店が開く。
客に入りは、いつもと変わらなかった。
「はーい。魔法使いがご注文を伺うよー。ちょっと待ってね」
ヘラヘラした接客のマーリンもいつもと変わらないと、玲奈は感じていた。
ふと、出入り口の扉が開き、ひとりの客が入店した。手の空いていた玲奈が迎えようと、近づく。
「いらっしゃいませ。おとぎの国の道明寺領へ、ようこそ」
客の人影はひとつだった。
長い黒髪が、玲奈の目に留まった。そして、暗く重い――禍々しいとも言える独特の雰囲気が伝わり、背筋に寒気が走った。
たとえ接客業とはいえ、玲奈にはもはや笑顔を作ることが出来なかった。見開いた瞳と怯えた表情で、女性客を見据えた。
視覚では確認できないが、女性はおそらくショートパンツを履いているのだと、玲奈は察した。ウサギのイラストが描かれた黒い長袖Tシャツ一枚だけを着ているように見えた。丈が膝上まである、とても大きなものだ。
そして、長い袖からかろうじて見える手指には、爪に黒いマニキュアが塗られていた。
「久しぶりやな。えーっと……ごめん、あんた何て名前やっけ?」
本当に忘れたのか、それとも挑発しているのか、玲奈にはわからない。
女性客は――スミレは詫びる様子も無く、嘲笑っていた。
「ど、どうぞこちらへ。席へご案内致します」
玲奈は頭の中が、真っ白になっていた。
質問の回答として名乗る余裕は無く、反射的な対応として店内に通した。いや、逃げたい気持ちの表れでもあった。
入口から店内へ先導して――玲奈は、ゆったりとした衣装のシルエットとすれ違った。
「スミレちゃん……もうこのお店には来ちゃダメだって、言ったよね?」
茉鈴の声が聞こえ、玲奈は振り返った。珍しく、低い抑揚だった。
「知らんなぁ。ちゅーか、うちが何しようと勝手やないの? お前に口挟む権利ある?」
「あるよ。キミはここに来ちゃいけない。コンセプトを楽しむお客さんだけ、歓迎する」
「は? コンセプト?」
玲奈の目からは、柔らかいショートヘアと、ゆったりとしたローブの後ろ姿しか見えなかった。
茉鈴がどのような表情をしているのか、わからなかった。
「知るか! うちは客やで!? さっさと通せ!」
スミレは怒鳴り、すぐ側にあったレジテーブルを蹴るが――かろうじて力加減を抑えたのか、倒れるほどではなかった。
ひとりの女性客の暴力的な言動に、店内がざわめく。客席からの視線が一斉に出入口に向けられたのを、玲奈は背中越しに感じた。
それに動じることなく、スミレは鋭い目つきで茉鈴を睨んでいた。
まるで獰猛な獣のようだと玲奈は思い、恐怖した。自分ではとても、手に負えそうにない。対峙したならば、きっと泣いているだろう。
玲奈の目からは、やはり茉鈴の表情が見えなかった。ただ、いつもは猫背気味の背中が今は真っ直ぐ伸び、なんだか逞しかった。
しかし、茉鈴の握りこぶしが小さく震えているのを、玲奈は見逃さなかった。
「あらー。何事ですかー?」
店内からハリエットが、わざとらしい様子で出入口に姿を現した。
声の様子から、全く怖気ていないように玲奈は感じた。
「わたくし、この領地の主ですわ。他のお客様のご迷惑ですので、ひとまず今日のところはお引き取りくださいまし――これは『警告』です」
玲奈の知る限り、この店に出入禁止扱いの客は居ない。
ハリエットがスミレに出入禁止を宣告するにしても、一度の暴動では事由として弱い。それに、玲奈の目から茉鈴の言動が感情的であったため、先に店側から挑発したとも受け取られかねない。
だから、店主がこの場を『警告』で収めるのは妥当だと、玲奈は思った。次に暴動を起こせば、問答無用で宣告可能だ。
「――くっ」
スミレはハリエットを睨みつけると、踵を返して素直に店を出た。
玲奈としては、この場で更に逆上して、正式に出入禁止となることが理想だった。スミレのことを、意外と冷静な人物だと思った。
「ピュアな気持ちでいらっしゃるなら、いつでも歓迎致しますわー」
スミレに聞こえたのかはわからないが、ハリエットが挑発的に言い放ち、この場はひとまず収まった。
玲奈は思い返すと、確かにスミレが以前入店した際、魔法使いマーリンではなく安良岡茉鈴を貶していた。茉鈴も言っていた通り、それはコンセプトカフェの常識で『マナー違反』となる。些細だが、入店を拒む事由に該当するのだと、玲奈は納得した。
スミレが出ていった後、茉鈴が玲奈に振り返り、弱々しくも微笑んだ。
そして、足がふらつき体勢が崩れそうになったところを――玲奈は慌てて正面から受け止め、支えた。
「私、頑張ったよ……」
「ええ。最高の働きです」
茉鈴の小さな声が少し震えていたのを、玲奈は聞き逃さなかった。
彼女なりに無理をしてスミレと対峙したことは、明白だった。緊張が解けた今、このままでは茉鈴が泣き崩れると察した。
玲奈としては存分に泣かせてあげたいところだが、客の手前、許可できなかった。茉鈴を抱きしめると、涙を堪えるよう背中を擦った。
茉鈴の勇姿か玲奈の介抱――或いはどちらともなのか、玲奈にはわからない。客席からの拍手に、店内は包まれた。
玲奈もまた、茉鈴を心から讃えた。
茉鈴が落ち着いたところで業務を再開した。
その後は特に何もなく、やがて午後十一時を迎えた。玲奈は茉鈴と共に、スタッフルームに入った。
密室でふたりきりになるや否や、玲奈は茉鈴に背後から抱きしめられた。
ローブの両腕に包まれる。互いにまだ衣装姿のため、まるで業務中のようだと錯覚した。
だが――業務中には決して伝わらなかった、茉鈴の怯えを感じた。
「私、言ったよね? 玲奈を守るって……」
耳元で囁かれ、玲奈は思い出した。
以前スミレの相手をした日、深夜にも関わらずアルバイト帰りに茉鈴のアパートを訪れた。その際、スミレに対して茉鈴から言われたことだ。
あの時は冗談なのか本気なのか、わからなかった。だが、茉鈴としては大切な約束だったようだ。
「私、これからも玲奈を守るから……玲奈のこと、大事にするから……」
その台詞と共に、玲奈は強く抱きしめられるが――なんだか、違和感があった。
まず、声の抑揚だ。その台詞はまるで、茉鈴が自分自身に言い聞かせているようだった。
それだけではない。だが、玲奈は違和感の正体がわからなかった。
「ありがとうございます」
とはいえ、どうでもよかった。
自らの発言に責任を持ち、無理をしてまで大切にされていることが――愛されていることが、純粋に嬉しかった。
事実、もしも茉鈴と今日のシフトが重なっていなければ、スミレを相手にどうなっていただろう。玲奈は怖くて、とても考えられない。
結果的には、茉鈴の言動で、スミレを出入禁止の一歩手前まで追い込むことが出来た。これならば、割と安心だ。
玲奈は振り返り、茉鈴の頬に触れた。そして、そっと唇を重ねた。
茉鈴から愛されていることが、嬉しいはずだった。茉鈴もきっと、同じはずだと思った。
なのに、どうしてこの抱擁も、表情も――茉鈴は何に怯えているのだろう。
そのせいで、玲奈はどうでもいいはずの違和感が払拭できず、胸の片隅に小さく残っていた。
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