第30話
「さて――よかったら、私の部屋に寄ってく?」
すぐ側にホテルがあるのに、どうして自宅なのだろう。今すぐにでも、やりたくないのだろうか。
玲奈はそう思うが、湧きあがる性欲の前には、些細な疑問だった。場所がどこでも、少し遅くなろうとも、構わなかった。
「はい。行きます」
茉鈴を見上げて、頷いた。
その後、茉鈴と駅まで歩き、コインロッカーの荷物を手に電車に乗った。茉鈴の賃貸アパートに着いた頃には、午後八時半だった。
玲奈の予想に反し、性欲は少し萎えていた。
茉鈴が部屋の扉を開け、灯りをつけた。
部屋は蒸し暑い空気が籠もっていた。その中で、テーブルに立方体の小さなクリアケースが置かれていた。テーブルにはよく缶ビールが置かれているので、約二本分の大きさに玲奈は見えた。
クリアケースの中には、アレンジメントされたいくつかの白い花が入っていた。
玲奈はこれまで何度か茉鈴の部屋を訪れたが、初めて見るものだった。部屋の小物としては、茉鈴の印象にとても似合わないと思う。珍しいため、目がいった。
茉鈴が直ぐにリモコンでエアコンの電源を入れ、そして――テーブルのクリアケースを持ち上げた。
「誕生日、おめでとう……玲奈」
玲奈は茉鈴から、柔らかな笑みと共に誕生日プレゼントを手渡された。
受け取ると同時に、瞳の奥が熱くなった。込み上げるものを抑えられず、クリアケースを抱えて俯いた。
「ええ!? そんなに嫌だった!?」
正面から慌てる声が聞こえ、玲奈は首を横に振った。
どうして涙が溢れたのか、最初はわからなかった。だが、それほどまでに嬉しかったのだと、すぐに理解した。
「違います……。どうして今まで言ってくれなかったんですか。焼肉だけでも、充分なお祝いだったのに……」
これまで、まるで腫れ物のように避けられていたことが嫌だった。
どれだけ大勢の客から祝われても、満たされない。たったひとりから、たった一言が欲しかった。
「あー……。看病のお礼だったものを、誕生日プレゼントにすり替えるのは、なんか悪いかなって……」
困った様子の言い訳に、玲奈は一応納得する。茉鈴なりに、考えがあったようだ。
互いに言葉に出さず、そのようにすれ違っていたのだと理解した。
「ばか……」
あまりにバカらしくなり、つい笑った。茉鈴も連れられて、苦笑した。
「それ、トルコキキョウっていう花だよ。大きいでしょ?」
玲奈は俯いたまま、抱えていたクリアケースに目を落とした。
茉鈴の言葉通り、よく見ると確かに大輪だった。白い花が、豪華に咲き誇っていた。
「中でも、白色の特に大きい品種を――レイナホワイトって言うみたい」
花弁の形状はフリルを彷彿とさせ、気品がある。
豪華さと気高さを兼ね揃えたこの花は、まさに『
「キミには派手な赤色も似合うけど……私は白色の方が似合うと思うよ」
玲奈は茉鈴を見上げた。優しく微笑んでいた。
白という色は玲奈に純潔を、ぼんやりと連想させた。
しかし、それだけだった。
焼肉と誕生日プレゼントの計画を立ててくれたことが、素直に嬉しかった。さり気ない付き添いでそれらが順次明かされ、驚いた。余裕のある大人の女性としての言動であり、理想に沿ったかたちだった。
喜ばせたいという茉鈴の気持ちが伝わる。これほどまでに想われているのだと、愛情を噛み締め?。
かつては、茉鈴に抱いた独占欲を、恋心と解釈した。
今も、独占欲が全く無いわけではない。ただ純粋に、茉鈴からの愛情をより求めた。
これからも、理想の女性として側に居て欲しい。これからも、大切にされたい。そのような願望が、込み上げていた。
一年前とは違う恋心を抱いたのだと、玲奈は理解した。
気持ちが加速する。口からこぼれそうになる。だが、過去の痛みを思い出し――なんとか堪えた。
「ありがとうございます……茉鈴」
玲奈は感謝の言葉ではなく、承諾したつもりで頭を下げた。
茉鈴から何を求められているのか、嫌というほど理解している。この白い花が、まさにそうだ。
女王としての豪華さも気高さも純潔さも、自分には備わっていない。まさに皮肉だ。
だが、それが茉鈴の理想ならば応えよう。だから、今度こそは愛されたい。ただの『友達』ではなく、いつかはその先の関係へ進みたい。
玲奈は決意するように、クリアケースを抱きしめた。
それでも、今は――
「お願いします……。わたしのこと、抱きしめてくれませんか?」
茉鈴を見据える。
玲奈自身は気づいていないが、涙を浮かべながらも、拒否を許さぬ凛々しい眼差しだった。
「……」
茉鈴に、正面から無言で抱きしめられた。頭をそっと撫でられた。
これまで通り、包み込むような優しい抱擁だった。だが、玲奈はこれまで以上に心地良かった。
そして、誰にも涙を拭われなかった。
エアコンが効いてきた頃、玲奈は座椅子で、背後から茉鈴に抱きしめられたまま座った。
もう涙は止まったが、頭がぼんやりした。暑苦しさや自らの汗の不快さは、不思議と無かった。
「それ、ドライフラワーだから長持ちするよ」
膝を立て、クリアケースを抱えていると、背後の茉鈴からそう説明された。
「具体的には、どのぐらいなんですか?」
「さあ……。何年も保つんじゃないの?」
「それ、たぶんブリザードフラワーですよ。ていうか、本当にドライフラワーなんですよね?」
「え……。そう言われると、なんか怪しくなってきたなぁ」
適当だなと思い、玲奈は小さく笑った。
長く保つに越したことはない。何にせよ今週や再来週に枯れることはなさそうだと思った。
「部屋に飾って、大切にしますね」
「ありがとう。ねぇ……私、見に行ってもいい?」
浮かれた茉鈴の声は、決して疑っているものではない。純粋に、期待している。
そういえば、これまで一度も茉鈴を自宅の賃貸マンションに招いたことがなかったと、玲奈は気づいた。
意図的に避けていたわけではない。会いたい時は、いつも玲奈から――この部屋を訪れていたまでだ。一度も逆の機会がなかったとも言える。
「えー。それはちょっと……」
玲奈は悪戯っぽく笑い、茶化した。
部屋が散らかっているわけではない。むしろ、綺麗に整理していると自分では思う。
「けど、まあ……いつかは来てください」
たとえば夜中でも、突然でも――本当に会いたいと求めてきたら、素直に応じよう。ただ、遊びに来るような感覚では、なんだか部屋に上げたくなかった。
玲奈は振り返り、微笑んだ。
「楽しみにしてるよ」
茉鈴も微笑んだところで、玲奈は改めて茉鈴へもたれ掛かった。
だが、幼い子供のように甘えず、茉鈴の胸元をなぞる自分の人差し指を眺めた。
「本当にありがとうございました。最高の、二十歳の誕生日でした」
改めて感謝した。
今日はアルバイトしか予定が入っていなかった。外食か惣菜か少し豪華な夕飯で、ひとりで誕生日を祝うはずだった。
このように満たされるとは思いもしなかった。
「まだ終わらないよ」
茉鈴が立ち上がり、小さな冷蔵庫に向かった。
「とりあえず……飲み直そうか」
時刻はまだ午後九時過ぎだった。玲奈は夕食後、若干の酩酊を自覚していたが、今ではすっかり落ち着いていた。
とはいえ、これ以上のアルコール摂取が身体に良くないと思う。今は影響が無くとも、明日に響く可能性がある。
「いいですね」
だが、明日はアルバイト以外に予定が無い。せっかく合法的に飲酒が解禁になったのだから――今日ぐらいは多少、羽目を外したかった。
「って、買い置き無いや。ちょっとコンビニ行ってくるから、先にシャワー浴びて待ってて」
「わたしも行きます」
玲奈も立ち上がり、茉鈴と部屋を出た。
蒸し暑い夜道を、ふたり並んで歩く。コンビニまでは、五分ほどで着く距離だ。
面倒な買い物のはずだが、玲奈はどうしてか浮かれていた。
「えっと……お酒とお菓子と……あと、明日の朝ご飯も買おうか。あれ? 牛乳はあったかな?」
「わたし、アイス食べたいです。ていうか、ケーキも買ってください、茉鈴」
「絶対に太るやつだけど……いいよ。今日はとことん付き合う」
「そうです! 女王の命令は絶対なんですからね!」
「ちょっと。玲奈さん、もう酔ってんの?」
確かに、今になって酔いが回ってきたと思えるぐらい、玲奈は気分が良かった。
これほど楽しい日は、一年に一度なのかもしれない。
それでも構わない。特別な日を、心ゆくまで満喫したかった。どれだけの我侭も、茉鈴ならきっと付き合ってくれると信じていた。
夜道にふたりの笑い声が響き渡る。
しかし――ふたりが手を繋ぐことはなかった。
(第10章『白い花』 完)
次回 第11章『伝えられない気持ち』
玲奈は茉鈴の就職活動の相談に乗る。
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