第10章『白い花』
第28話
八月十日、木曜日。
玲奈は夏季休暇に入り、三週間が過ぎた。
計画の方は順調だった。基本的に、昼間はなるべく外国語能力測定試験の勉強と、交換留学の願書作成に時間を使用している。そして、夕方からはアルバイトだ。
この日も午後四時過ぎに、おとぎの国の道明寺領へと入った。
「お疲れさまです」
「おつかれー」
スタッフルームには、安良岡茉鈴が居た。まだ来て間もないのか、私服姿のままでパイプ椅子に座り、暑そうに水を飲んでいる。
玲奈も座り、鞄から茶の入ったペットボトルと汗拭きシートを取り出した。
買い物に、花火に、プールに――茉鈴とは一緒に遊んでいるが、いざふたりきりになると、何を話せばいいのかわからなかった。
茉鈴は夏季休暇を、アルバイト以外にどう過ごしているのだろうか。就職活動の準備は大丈夫なのだろうか。
強いて挙げればそれらの疑問はあるが、踏み込んだ質問になると思い、口には出来なかった。『友達』と言えど、慎重に距離感を測っていた。
「レイナ様ー、ちょっとよろしいかしら?」
扉が開き、ハリエットが姿を現す。
「貴方、十三日がリアルの誕生日なんでしょ? どうします?」
思いもしなかった質問が突然飛び出し、玲奈は驚いた。
混乱した頭でまず取った行動が、茉鈴の確認だった。
茉鈴は眠たげな垂れ目で、こちらを見ていた。『ハリエットに訊ねられた人物』としてか、それとも『質問内容』に対してか、意図が玲奈にはわからない。茉鈴と目が合うが、すぐに反らした。
どちらにせよ、誕生日が茉鈴に知られた。
これまで隠していたわけではない。言う機会が無かっただけだと、玲奈は自分に言い聞かせた。
そもそも、どうしてこの状況になったのだろう。どうしてハリエットが、誕生日を知っているのだろう。
思考は次に、その疑問へと移る。
そうだ――採用の際に提出した履歴書を、思い出した。それで知ったとしか考えられないが、些細な個人情報を把握しているハリエットに驚いた。
「どうしますと訊かれても……何をですか?」
かといって、従業員への愛情は感じられない。玲奈は質問の詳しい内容がわからないが、商売のひとつと考えているように思った。
「女王レイナとしての誕生日を、
玲奈は一応納得する。店主の独断で決めるよりは、従業員それぞれに選択権のある方がいい内容だ。
ここではレイナという源氏名に始まり、数々の
「同じでいいですよ」
しかし、それすらも設定するのはなんだか本当に水商売のようだと感じ、抵抗があった。
大体、誕生日の希望日など無い。別に設定するという感覚も、想像できない。設けたところで、簡単にぼろが出ると思った。
「誕生日がそうだとして――どうなるんですか?」
結局のところ、どうして演者として誕生日が必要なのだろう。どういう意図で、ハリエットが訊ねてきたのだろう。
玲奈はなんだか、嫌な予感がした。
「そんなの、決まってるでしょ? バースデーイベントですわー!」
ハリエットが目を輝かせている。
嫌な予感が的中し、玲奈は頭が痛くなった。
「やる必要あります? 別に、個人の売上を競ってるわけでもないですよね?」
指名制の水商売ならば、その手の行事が大きな武器になると、玲奈はどこかで聞いたことがある。
「単純に、お客さんを呼び込めますもの! 十三日は日曜日で、レイナ様は昼勤務! 今からでも告知すれば、多くの方がお祝いに来てくれますわ!」
玲奈はホワイトボードを眺める。当日の昼勤務は、ただの偶然だった。しかし、ハリエットにしてみれば都合が良いようだ。
二十歳という節目の誕生日だが、盆期間で新幹線が混むという理由で、帰省を月末にずらした。親には伝えている。
玲奈は、誰からも祝って貰えないと思っていたので――特に祝って欲しくもなかったので、このようなかたちになったのが意外だった。
実際にどのぐらいの客が訪れるのか、玲奈には見当がつかない。本当に大勢から祝われたなら確かに嬉しいが、ハリエットの商売道具扱いなのが、引っかかった。
「領主様……。賃上げを考えてくださってると思いますが、そろそろ如何でしょう? わたし、先輩と頑張ってますよね?」
だから、以前からの交渉の、締めくくりに入った。頷かせるなら、発言権のあるこの機会だと思った。
ハリエットからの要望通り、茉鈴と積極的に絡み、客席を湧かせている。現に、ふたりを目当てに訪れている客が居ることも、玲奈は自覚していた。
「ええよ。あんたらふたり、来月から時給百円アップな」
ハリエットが即頷き、玲奈としては意外だった。
だが、ハリエットの下卑た笑みから――その代わりバースデーイベント頼むで、と言われたような気がした。拒否は許されないことを悟った。
「さあさあ、特注ケーキを高値で買わせますわよー! 他にも何か、イベント限定メニューを考えないと!」
玲奈は上機嫌に去るハリエットに呆れるが、商魂の逞しさだけは関心した。一応はこちらの要望が通ったので、溜息は漏らさなかった。
「やったね、玲奈。時給百円アップだなんて、超嬉しいよ」
茉鈴もまた上機嫌に立ち上がり、衣装に着替え始めた。
スタッフルームで、再び茉鈴とふたりきりになった。
玲奈も立ち上がって、準備に掛かる。着替えながら――茉鈴をチラチラと見ていた。
茉鈴に誕生日を知られた。しかし、三日後に迫っているにも関わらず、触れられない。玲奈は敢えて避けていると思えるほど、不自然に感じた。
確かにこれまで告げる機会は無かったが、偶然にでも知ったのなら触れて欲しい。『友達』なら、おかしくないはずだ。
かといって、こちらから改めて訴えたくもない。玲奈は複雑な気持ちのまま、衣装に着替えた。
午後五時になり、店が開いた。
玲奈は平日であることを考えれば、混み具合はいつも通りだと感じていた。
やがて、午後八時を過ぎ、いつも通り混雑の頂点を迎える。とはいえ、平日は客席の七割ほどしか埋まらないが。
「これはレイナ様。生誕祭を三日後に控え、準備の方は如何ですか?」
店内の中心で茉鈴が大きな声を上げ、両手を仰ぎ客達の注目を集める。
「な……」
何事かと客席がざわめく中――茉鈴の、何の前触れも無い突然の行動に、玲奈も驚いた。
これは嫌が応でも告知をしないといけない流れだと察し、茉鈴の元へ渋々向かった。
「次の日曜日――十三日に、レイナ様が二十歳になります。午後一時より、生誕祭を開催します」
客席からの歓声と拍手に、店内が包まれる。中には、おめでとうございますという声も聞こえた。
玲奈は恥ずかしくなり、思わず俯いた。女王レイナとして気高く振る舞うことは、流石に出来なかった。
「え? 午後一時?」
玲奈は、客に聞こえない程度の小さな声を漏らす。
何か別のことを考えて気を紛らわせようとしたところ、茉鈴の何気ない発言に気づいた。開店前にハリエットから行事の開催を告げられたが、時間は初耳だった。おそらく、茉鈴の独断だろうが、主導で取り仕切ろうとしているのだと思った。こうして宣言した以上は、店側も従わざるを得なくなる。
そして、茉鈴の二十歳という言葉にも――年齢を覚えていてくれたのだと、玲奈は内心嬉しかった。
「当日、具体的に何をするのかは、まだ未定です。興味のある方は、とりあえず足をお運びください。
茉鈴が客席を見渡しながら、説明した。
常識も含め、当たり障りの無い内容だと玲奈は思った。店側としては多くに来て貰いたいところだろうが、無理強いしては印象が悪くなるだろう。
とはいえ、店内は大いに盛り上がっていた。皆、前向きに受け止めてくれたようだ。
「というわけです……。よろしければ、いらしてください」
玲奈は引きつった笑みを浮かべ、客席に頭を下げた。やはり、女王レイナとして振る舞うことは出来なかった。
途中、ハリエットと目が合うが、笑顔で親指を立てていた。このような情けない姿でも、告知としては成功のようだと玲奈は思った。
その後も玲奈は業務を続け、やがて午後十一時になった。茉鈴とスタッフルームに入った。
告知だけではなく、今日も茉鈴に振り回され、一段と疲れを感じた。賃上げに値する働きぶりだと、自賛した。
玲奈はパイプ椅子に座り、一息つく。だが、茉鈴は真っ先にホワイトボードへ向かい、イレーザーを手に取った。
おそらくハリエットの仕業だろうと、玲奈は思う。十三日に『レイナ様生誕祭』と可愛い字で書かれていた。
その日、茉鈴は夜のシフトだった。それをイレーザーで消すと、マーカーで昼間に書き直した。
「私も出ないと、マズいでしょ」
茉鈴が振り向き、玲奈に微笑む。
この行事を客達は好意的に受け止めているが、具体的に何を求めているのか、玲奈はわからない。ただ、普段からレイナとマーリンはカップリングとして見られているのは事実だ。『相方』が不在なのは確かによくないと、納得した。
しかし、あくまでも業務としてだ。茉鈴個人として、やはり誕生日に触れないのだと、玲奈は感じた。
「先輩からのプレゼント、期待してますからね」
だから、悪戯じみた笑みを浮かべ、それだけを告げた。業務と個人、どちらにも受け止められるように狙ったつもりだった。
「ハードルを上げられても困るけど……せっかくだし、準備しておくよ」
茉鈴は特に困る様子も無く、いつも通り柔らかく笑う。
どちらの意味なのか、玲奈にはわからない。だが、後者を期待した。
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