第27話

 八月七日、月曜日。

 朝から空は青く色づき、強い陽射しが降り注いでいる。屋外プールを利用するにあたり、問題無いどころか絶好の日和だった。

 午前九時頃、玲奈は茉鈴のアパートを訪れた。茉鈴が起きて準備をしているのか不安ながらも、扉のブザーを押した。


「おはよう! それじゃあ、行こうか!」


 すぐに扉が開き、茉鈴が姿を見せた。珍しく気分が盛り上がっているだけでなく、膨らませたビニール浮き輪に身体を通していた。

 朝から蒸し暑い中、この時点で浮かれている姿を見せられ、玲奈は鬱陶しく感じた。


「とりあえず、その浮き輪畳んでください」

「えー」

「どう考えても、邪魔じゃないですか!」


 茉鈴に浮き輪を仕舞わせ、ふたりでアパートを出た。

 もしも現地で待ち合わせをしていれば、茉鈴は遅刻はしなかったにしろ――浮き輪を抱えたまま向かったことだろう。こうして迎えに来て良かったと、玲奈は思った。


「そういえば……英美里、来れなくなりました」

「え? どうして?」


 ふたりで電車に乗ったところで、茉鈴に事情を話した。

 先週の土曜日、玲奈は茉鈴と共にハリエットからアルバイトを帰された。実際ハリエットとしても暇だったらしいが、花火大会が終わり、午後九時を過ぎた頃――客が次々と訪れ、ひとりで回せなくなった。

 そこでハリエットが助けを呼んだのが、どうしてか英美里だった。英美里は花火大会から慌てて向かい、その日は浴衣姿で接客したらしい。

 忙しい土曜日を乗り切り、日曜日も働き、そして英美里は体調を崩した。今日は寝込んでいる。


「そんなことがあったんだ……」


 茉鈴が息を飲んだかのように驚く。玲奈としても、英美里からの電話で今朝知り、同じ気持ちだった。この土日はゆっくり過ごしたため、罪悪感がある。


「チケットは預かってきましたから、今日は英美里のためにも楽しみましょう」


 玲奈は携帯電話で、英美里から送られてきたQRコードの画面を見せた。

 日時指定のチケットを事前に購入しているため、三人全員がキャンセルしたところで一円も返ってこない。それに、チケット代に目を瞑ってこちらも自重したとしても、返って英美里に気を使わせる。だから、チケットを渡してきた英美里の意思を尊重するのが最善だと、玲奈は思った。


「そっか……。今日は玲奈とふたりなんだ」


 事情を把握した茉鈴が、ぽつりと漏らす。

 玲奈もまた、英美里の欠席を知った直後に気づいていた。

 プールを楽しみにしていたが、あくまで英美里も含め、三人で遊ぶことの想定だ。急に茉鈴とふたりきりになったことが、嫌ではない。だが、茉鈴から改めて事実を告げられると、なんだか落ち着かなかった。


「……嫌ですか?」

「まさか。そんなことないよ」


 玲奈は茉鈴を見上げると、微笑みを向けられた。

 英美里の手前、先ほどのように浮かれてはいないようだ。だが、何を考えているのかわからなかった。


 一時間ほど電車に揺られ、午前十時半頃に遊園地へ着いた。

 まだ盆休みではないせいか、玲奈の目には同年代の学生が多く見えた。そして、入場ゲートを超え、彼女達が向かう先は、プール方面だった。

 ひとまず、茉鈴と更衣室へ向かう。まだ開園間もないからか、ロッカーに余裕があった。隣り合ったふたつを使用した。

 玲奈は隣の茉鈴を意識するも、敢えて見ないことを心がけ、赤いホルタービキニに手早く着替えた。まとめ上げた髪が解けないことを確かめ、最後にウォータープルーフの日焼け止めを取り出した。


「先輩、着替えましたか?」


 ミルクタイプの日焼け止めを手に出しながら、ようやく隣を見た。

 やはり、水着売り場で思った通りだった。黒い花柄の水着が、カーキグレージュの髪色と合っている。そして、パレオまで巻いたゆったりとしたシルエットが、落ち着いた雰囲気を引き立たせた。


「どう? どこか変なところ、ない?」

「ありません。に、似合ってます……」


 小声で付け足し、日焼け止めを首筋から順に塗っていった。


「玲奈もさ、すっごい似合ってるよ」


 茉鈴も自前の日焼け止めを塗りながら、何気なく漏らした。

 そう言われ、玲奈は嬉しかった。素直に言うことが、なんだか年上らしい余裕を感じさせた。

 茉鈴の目には、具体的にはどう映っているんだろうと思う。

 この水着を選んだのは、茉鈴だ。やはり、想像通りなのだろうか。


「ありがとうございます……。あの、背中塗って貰えませんか?」

「いいよ」


 一部位だけを残し、日焼け止めを茉鈴に手渡した。


「玲奈って、肌綺麗だよね」


 その声と共に、茉鈴の温かな手のひらを背中で感じた。

 玲奈は、人並みには肌の手入れを行っているつもりだ。念入りというわけでもないので、嬉しいが、世辞に聞こえた。


「先輩こそ、綺麗ですよ」


 茉鈴が塗り終わると、交代して日焼け止めを受け取る。

 首筋、肩、背中、腹回り――見える範囲の素肌に、シミはほとんど無い。生活習慣が悪い割にどうしてこうなるのか、疑問だ。

 玲奈はドキドキしながらも、茉鈴の背中を存分に触れた。手を滑らせ、脇から身体の前方に進めたい欲を我慢しながら、満遍なく塗った。

 茉鈴に日焼け止めを返す。そして、携帯電話を防水ケースに入れ、首から下げた。

 割と露出の多い水着なので、薄手のパーカーを持参したが、出さなかった。いざ着てしまうと、思っていたより恥ずかしくなかった。それに――露出の差はあるが、同じく水着姿の茉鈴が側に居るのも、心強かった。


 準備を終えて、更衣室を出る。

 空は晴れ、陽射しが強い。水面に反射した細かな光が、視界に入る。喧騒が耳に触れ、塩素の匂いが僅かに鼻につく。

 ナイトプールではなく、明るいプールはいつ以来だろうと、玲奈は思った。


「先輩! どれから行きます!?」


 前方には幼い子供向けの浅いプール、その向こうに丘が広がり、ウォータースライダーが見える。そして、丘の反対側には、大きな流れるプールがあった。

 下調べ通りの配置だが、玲奈は実物を見ると気分が昂った。すぐにでも、どれかに駆け出したいほどだ。


「とりあえず、先にこれ膨らませる」


 一方で、茉鈴は浮き輪に口で空気を入れていた。

 大変な作業だと玲奈は理解しているが、もたついているように見えた。

 このままでは苛立ちそうなので、どこが空いているのか周囲を見渡した。まだ思っていたより混雑していないが、これから客が増えると思う。そうなれば、待ち時間の少ない内にウォータースライダーを楽しむのが効率的だ。しかし、一番の楽しみをすぐに消化していいものなのか、躊躇した。

 玲奈はそのように思考を巡らせていたところ――視線を感じ、我に返った。

 振り返ると、浮き輪の空気口を咥えたままの茉鈴が、こちらをぼんやりと眺めていた。空気を送る動作が完全に止まっているように、玲奈には見えた。


「……どうしたんですか?」

「ごめん……。普通に見惚れてた。明るい所だと、めっちゃ綺麗だから……」


 茉鈴は浮き輪から口を離して、ぽつりと漏らす。

 それを聞き、玲奈は急に恥ずかしくなった。やはりパーカーを持ってくるべきだったと、後悔した。

 頭はひどく困惑するが、茉鈴の台詞を聞き逃していなかった。


「明るい所だと……って、どういう意味ですか?」


 おそらく『改めて思った』という意味合いだろうが、ある状況を限定しているとも言えなくはない。

 玲奈は、半眼を茉鈴に投げかけた。


「ち、違うよ! 玲奈はいつでも綺麗だって!」

「えいっ」


 珍しく慌てる茉鈴に、玲奈は抗議の意味で、携帯電話で茉鈴の写真を撮った。

 茉鈴は咄嗟に胸元を隠そうとするが、シャッター音の後だった。手放した浮き輪が、床に落ちた。


「ちょっと! なに撮ってんの!? 私、スマホ置いてきたし! 玲奈のこと撮りたいよ!」


 浮き輪を拾い上げて喚く茉鈴を、玲奈は器用だと少し呆れた。

 仕方なく茉鈴の隣まで近づくと、携帯電話を掲げ、インカメラでツーショット写真を撮った。


「また後で、英美里に送りましょう。……先輩、ポカンとして間抜けな顔ですけど」

「え? それ消してよ。もう一回撮ろう」

「ダメですよ。これも立派な、夏の思い出です」


 玲奈は、焦る茉鈴に悪戯じみた笑みを向けた。

 茉鈴が気づいているのかわからないが、これが初めてのツーショット写真だと玲奈は認識していた。言葉通り、大切な思い出として持っておきたかった。


 茉鈴が浮き輪を膨らませると、まずは流れるプールへと向かった。

 この種のプールは狭い印象を玲奈は持っていたが、意外と広かった。混雑具合からも『芋洗い』にはならなかった。


「さあ、どうぞ女王様」

「ありがとうございます……」


 まるでアルバイト時のように、芝居がかった態度で茉鈴から浮き輪を手渡された。

 玲奈は、浮き輪に座って流される姿を思い浮かべるが、ひとまず水に浸かりたかった。それに、茉鈴と一緒に使用したい。

 ゆっくりプールに入ると、浮き輪の中に入ることなく、外周から掴まった。立てるほどの水深だが、足を水面に伸ばした。


「ほら。先輩もどうぞ」


 茉鈴を招き、ふたりでひとつの浮き輪にしがみついた。ちょうど、向かい合うかたちだ。


「わー。気持ちいいねー。極楽だよ」


 足を動かすことなく、穏やかな速さの水流に乗っていた。プカプカと浮いて流されるのは非現実な体験であり、涼しいことからも――玲奈は、とても気持ちよかった。

 茉鈴がとても気の抜けた表情をしているが、きっと自分も同じだと思った。


「ほんと……何時間でも居られそうですね」

「あはは。それだと、ふやけちゃうよ」


 十分ほどをかけて、一周回った。玲奈の体感では、一時間だった。それほどまでに、穏やかな時間だった。

 ふと、茉鈴が浮き輪を離した。移動した先は、玲奈の背後だった。

 玲奈を包み込むように、背後から浮き輪に掴んだ。

 しかし、浮き輪の一方向に体重が掛かると――バランスが崩れ、ふたりで沈んだ。


「ちょっと、何してるんですか!」

「いやー。ごめんごめん」


 玲奈は濡れた髪をかき上げながら、同じく頭から水に浸かった茉鈴を見る。

 普段は広がっている茉鈴の癖毛が、水で縮まっているのを初めて見た。玲奈が笑うと茉鈴も連れられ、ふたりで笑いあった。


 流れるプールを満喫した頃には、午前十一時半になっていた。

 訪れた時より混みだしていた。ウォータースライダーよりも、食事の混雑を避けたいため、少し早いが昼食にした。

 売店で、玲奈はカレーライスを、茉鈴はラーメンを購入した。玲奈にとっては不味い料理だったが、プール近くの屋外休憩所という場所のせいか、美味しかった。


 食後、再度流れるプールで身体を冷まし、ふたつある有料ウォータースライダーのひとつに並んだ。

 時刻は午前十二時半。周りが昼食時のせいか、十五分ほどの待ち時間で済んだ。


「ふたり用の浮き輪も、あるみたいですね」


 浮き輪に座って滑る方式であり、基本はひとりずつだ。しかし、ふたり同時に滑ることも可能だった。


「私、後ろね」


 茉鈴は嬉しそうに、それだけの返事をした。

 係員にふたり乗りを申請すると、大きな細長い浮き輪を出してくれた。ゆとりのある大きさであり、ふたり並んで座っても密着するほどではなかった。

 準備ができたところで、係員に押される。


「キャー!」

「うわー。すごいねー」


 玲奈の思っていた以上に速さが出て、あっという間に終着点へと落ちた。詳しい内容はまるで理解出来なかった。

 茉鈴は終始落ち着いていたが、ふたりでスリルを共有できたことが、玲奈は嬉しかった。


 もうひとつのウォータースライダーへは、三十分並んだ。

 これも同じく、ふたり乗りの浮き輪で滑った。

 渓谷をモチーフにしたそれは、先ほどのに比べ速さは出ないが、揺れが大きかった。玲奈としては、こちらのほうが面白かった。

 目当てだったふたつのウォータースライダーを楽しみ、とても満足した。


 次に向かったのは、丘にある小さなプールだった。

 といっても、これで施設内のプールを全て利用したことになる。時刻はまだ午後一時半だが、つまり最後だ。

 丘の縁にあるそこは、片側のプールサイドは無く、代わりに下方向を見下ろせた。まるで展望台のようなプールだった。


「たぶん、夕方なら綺麗なんでしょうね」


 下に位置する流れるプールやウォータースライダーのレールだけでなく、遊園地周辺の街並みまで眺めることが出来た。今が真っ昼間のせいか、玲奈としては景色は今ひとつだった。

 ここは施設内の穴場になるのだろう。他のプールに比べ、人気は少なかった。頭上には併設されている遊園地のジェットコースターが通り、奇妙な空間でもあった。


「ねぇ。抱きしめてもいい?」


 玲奈の耳元で、茉鈴が囁く。


「……確認じゃなくて、事後報告じゃないですか」


 許可を出すより先に、玲奈は背後から、茉鈴に抱きしめられていた。

 人気は少ないが、周りからは女性の友人同士でじゃれ合っているように見えているのだろうと思った。


「なんか……今日は妙に、くっついてません?」


 思い返すと、背後から抱きしめられることが多いように感じた。きっと、茉鈴の意図した行動なのだろうと思った。


「だって、キミが綺麗だから……。離したくないよ……」


 背後に居る茉鈴の表情は、玲奈にはわからない。だが、呟くような小さい声ながらも、何かを押し殺しているように聞こえた。

 一度は離したくせに――そう思った途端、首筋に、そっとキスをされた。

 要するに、水着姿に欲情しているのだと、玲奈は理解した。

 茉鈴がそのような感情を抱いていること。茉鈴に抱きしめられていること。それらは悪くないどころか、素直に嬉しい。

 しかし、この水着は茉鈴が選んだものだ。

 そう考えると、玲奈は複雑な心境になる。なんだか、理想を押し付けられているようにも感じた。


 いや――それは自分も同じだ。

 茉鈴の水着姿を、今日は目に焼き付けた。茉鈴に似合うと思い選んだものは、即ち『理想』だ。

 玲奈は、まるでプールに沈むかのように、思考がどんどん深く沈みそうだと感じる。

 だが、冷たい水の中でも感じる――背後から包み込む柔らかな感触が、引き止めた。


 ぬるい風が吹き、水面が揺れる。

 明るい空の下で、言葉は要らない。茉鈴の抱擁が心地良かった。プールという不確かな世界で、この時がずっと続けばいいとさえ思えた。

 玲奈は手を動かし、自分の胸元にある茉鈴の腕に置いた。


 どれぐらいそのようにしていたのか、わからない。

 止まった時間で、玲奈もまた性欲が込み上げた。茉鈴の腕を掴むと、引っ張ってプールを出た。

 プールの縁、その下にベンチがいくつか並んでいた。上からは見えず、正面は展望台のようになっているため、死角に近い。プールの壁で影になっている。

 玲奈は隅のベンチに、茉鈴と並んで座った。

 そして、手を重ねた後――そっとキスをした。やはり、言葉は要らなかった。


 更衣室でシャワーを浴び、水着から着替えた。

 時刻は午後二時半。まだ陽の高いこの時間帯に、玲奈は込み上げるものを抑えながら、ふたりで茉鈴のアパートへと向かった。

 きっと茉鈴も同じだと、感じていた。



(第09章『夏を楽しむ』 完)


次回 第10章『白い花』

玲奈は二十歳の誕生日を迎える。

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