第26話
八月五日、土曜日。
午後三時過ぎ、玲奈はアルバイトに向かうために自宅を出た。
学生の街であるため、駅に歩くまでに同世代の人間とすれ違うことは、珍しくない。だが、今日は浴衣姿の者が多かった。駅や電車でも同様だった。
南部に位置する繁華街で降りて、アルバイト先まで歩く。こちらは、心なしかいつもに比べ人気が少ないように感じた。
おとぎの国の道明寺領に到着後、準備を終えて午後五時に店が開く。
「今日はさっぱりですわー! 知ってましたけどー!」
開店十分後、ハリエットの叫び声が店内に響いた。
そう。いつもであれば、開店直後は客が誰かしら入店する。従業員しか居ない店内に、玲奈は初めて遭遇した。本当に開店したのか疑いたくなるほど、異常な空間だった。
ハリエットが不貞腐れた様子で、ソファーの客席に座った。
「いや……わかってたなら、休業にすればよかったじゃないですか」
「先輩にしては、珍しくまともなこと言いますね」
今日のシフトは玲奈と茉鈴だった。普段の土日であればもうひとり欲しいところだが、ハリエットがふたりと定めていた。
いや、三人目を募ったところで集まっていたのか、玲奈はわからない。今日は他の従業員達が断っていた可能性が考えられる。
玲奈としても、今日は客の入りが悪く、楽な日だと予想していた――文字通り誰も来ないとは、思わなかったが。
「今年はまあ、店の勢いありますから、ワンチャンと思ったのですけれど……」
ハリエットは座ったまま、玲奈と茉鈴を交互に見る。
女王と魔法使いのカップリングとして店に貢献しているようで、その評価が玲奈は嬉しい。だが、この惨状の責任を問われてもいるようで、素直に喜べなかった。
「そりゃ、世間様はわたし達より花火を観に行くでしょ」
「ですわよねー」
そう。今日は有名な花火大会の日だった。
おそらく、この地域で最も規模の大きいものだろう。北部のとある河沿いで開催される。
昨年、玲奈は学校の友人らに誘われて、河川敷の本会場まで一緒に行った。花火は確かに迫力があったが、人混みの方が印象に残っていた。終了後、帰宅するまでが特に困難だった。
「領主様も、行けばよかったじゃないですか。確か、エミリーちゃんに誘われてたでしょ?」
「わたくしは、その……強い光とか閃光手榴弾とかで、一撃でやられてしまいますので」
「何かの寄生体みたいな設定はやめましょうよ」
ハリエットは気まずそうに視線を外しながら、茉鈴の質問を躱していた。
英美里がハリエットを誘ったのを玲奈は初耳だが、懲りないなと思った。そして、ハリエットが適当に理由をつけて断ったことも察した。プールと同じく、花火を楽しむ姿も全く想像できない。
「それで……英美里は今日、どうしてるんですか?」
「確か、お友達と行くって言ってましたわ」
「玲奈こそ、行かなくてよかったの? どうせ、友達から誘われてたんでしょ? 私みたいになっちゃうよ?」
「うるさいですね! わたしの心配は結構です!」
玲奈は、今年も友人らから誘われていたが、アルバイトを理由に断った。本音としては、人混みが嫌なだけだ。
茉鈴の言う通り、ここ最近は友人らとの付き合いが悪いと自覚している。夏季休暇中に、何らかの方法で挽回しようとは考えている。
「ちゅーわけやから、あんたら今日はもう上がってええよ。一時間分はつけとくから……。今から花火行くなり遊ぶなり、たまには楽しい週末過ごし。そん代わり、来週は忙しいから頑張ってよ?」
冷めた表情のハリエットからそのように言われ、玲奈は茉鈴と顔を見合わせた。
今日は楽に稼ぎたいという魂胆だったが、駄々をこねたところで、この様子だとハリエットは許さないだろう。大人しく従うしかないと思った。
「わかりました。ちなみにですけど、領主様はどうするんですか?」
「今から臨時休業にするわけにもいかんから、ひとりで残っとくわ」
「そうですか。ご苦労さまです」
店の信頼を第一に考えているのだと、玲奈は理解した。もし客が訪れても、今夜はハリエットひとりで撒けそうだと思った。
「それじゃあ、お先でーす」
「お疲れさまです」
玲奈は茉鈴と頭を下げて、スタッフルームに入る。
疲労が全くなく、おかしな感じだが、ひとまず衣装を脱いだ。
「これからどうする?」
茉鈴が着替えながら訊ねてきた。
ハリエットの言葉が耳に残っているのだろう。玲奈の頭には不思議と『帰宅』の選択肢が無かった。きっと茉鈴も同じだと思った。
「ご飯……ていう時間でもないですしね」
時刻はまだ午後五時過ぎだった。何をするにも中途半端な時間帯だ。
「玲奈さえよければさ……花火観に行かない? 私、穴場知ってるんだよね」
茉鈴がぽつりと漏らす。
意外な提案だと、玲奈は感じた。花火を楽しむ人種ではないという印象を持っていた。
花火が打ち上がるのは、午後七時半からだと思い出した。穴場というのが、どこなのか分からない。だが、花火の観える範囲を考えると、今から向かえば間に合う距離だと思った。
「へぇ。いいですけど、帰り大丈夫そうですか? 混雑しません?」
せっかくアルバイトから開放されたので、花火を鑑賞したい気持ちは玲奈にある。しかし、その一点だけが心配だった。
「うん。全然余裕だよ。穴場だから」
「は、はぁ……」
茉鈴が笑顔で言うが、説得力が全く無いため、玲奈には信じられなかった。
かといって、本会場以外に花火を観る場所を知らなければ、花火以外の案も浮かばない。
「わかりました。行きましょう」
仕方なく、玲奈は頷いた。
茉鈴と一緒に店を出て、駅から電車に乗る。北部に向かうにつれ、車内は混みだした。
本会場の最寄り駅で乗客のほとんどが一斉に降りたが、連れられなかった。茉鈴の案内で降りたのは、さらに三駅先だった。茉鈴のアパートやキャンパスが所在する駅へは、七駅離れている。
「ここが穴場」
駅から五分ほど歩き、茉鈴が指さした先にあったのは――大きなパチンコ屋だった。
いや、一階がパチンコ屋のようだ。二階にはボーリング場とゲームセンターとカラオケを兼ね備えていることを、玲奈は看板で理解した。
「え? マジですか?」
一応は『総合アミューズメント施設』になるのだろう。何にせよ、柄の悪い所だと玲奈は感じた。
確かに、花火鑑賞には全く結びつかない所だ。そもそも、ここでどのように花火を鑑賞するのかと疑問だった。
「花火って……パチンコとかゲームとかの、演出のこと言ってませんよね?」
「ごめん、何のこと? 毎年この日はね、駐車場の屋上を開放してるんだよ」
時刻は午後六時過ぎ。玲奈は若干の不安を持ちながらも、茉鈴の案内で立体駐車場のエレベーターを上がる。そして、屋上へ出た。
「わぁ……」
良くない印象が、玲奈の中で一転した。
事前に茉鈴の説明を聞いていなければ、駐車場だとは思わなかった。空の見晴らしが良い、広々としたアスファルトの地には、パイプ椅子とテーブルが並んでいた。隅の方には屋台も少し並び、まるで縁日のようだった。香ばしい匂いが漂っていた。
時間のせいか、客席に対してまだ人気は少なかった。
「ね? 穴場でしょ?」
「すいません。正直、舐めてました」
ふたり掛けのテーブル席を、ひとまず座って確保する。
花火の上がる方向を玲奈は知らないが、周りに遮蔽物が無く、良く観えそうだと思った。大きさや迫力は、本会場より間違いなく劣るだろう。その分混雑を回避できるなら、御の字だ。
「先輩、パチンコするんですか?」
確かに穴場だが、茉鈴がどのようにここを見つけたのか、玲奈は気になった。パチンコのついでに知ったというなら、まだ納得できる。茉鈴に対しては、パチンコを打っていてもおかしくない印象を持っていた。
「興味はあるけど、ビンボーだから出来ないよ。穴場を探してたらここがあったから、去年来た……ぼっちで」
「そ、そうですか……」
茉鈴が小さく笑いながら言う。
特に自虐には聞こえないが、安易に想像でき、かつ居た堪れないため、玲奈は苦笑して誤魔化した。
「ていうか、花火観るんですね」
「せっかく近くであるんだし……大してお金のかからない娯楽だからね」
花火に興味が無いという印象を持っていたが、そう聞いて玲奈は妙に納得した。もしも誘いを断っていたとしても、茉鈴はひとりで来ていただろうと思った。
「お腹空いた? 先に食べる?」
「うーん……わたしは、始まってからでいいです」
「了解。悪いけど、私は先にちょっと飲むね。……あっ、玲奈も飲む?」
「わたし、まだ未成年です」
「ああ、そうなんだ」
あと一週間ほどで二十歳を迎えることを、どうしてか言えないまま、茉鈴が席を立つのを見送った。
やがて、茉鈴はプラスチックコップの生ビールと、ペットボトルの烏龍茶を手に、戻ってきた。
乾杯後、玲奈は烏龍茶を飲む。蒸し暑く、祭りの雰囲気のせいか、よく冷えたそれがとても美味しかった。茉鈴も、ビールを美味しそうに飲んでいた。
空が徐々に暗くなるにつれ、この会場も混み、いつの間にか満席になっていた。とはいえ、充分に移動できるだけの密度であり、手洗いに行くのも苦労はしないだろう。
午後七時十五分頃、焼きそばと唐揚げ――茉鈴の二杯目のビールも用意し、ふたりでひと足早く食事を始めた。やはり雰囲気のせいで、ジャンクフードでも玲奈はとても美味しかった。
しばらくすると、暗がりの空に光が舞い、轟音が腹に響いた。
「わぁ。しっかり観えますね」
玲奈にとっては、予想外の見応えだった。意外と大きく、迫力もあった。
「でしょ? いやー、夏の風物詩って感じ」
食事を済ませた後、茉鈴はビールを片手に満足そうだった。
玲奈には酒の美味しさがわからない。だから、そのように嗜む茉鈴が大人に見えた。
酒の代わりにイチゴのかき氷を、玲奈は購入した。冷たく甘いそれを食べながら、夜空の花火を眺めた。
小さなテーブルを挟んで、すぐ側に茉鈴が居る。賑やかな空間だが、茉鈴の存在を近くに感じていた。
綺麗な花火の鑑賞に、言葉は交わらない。ふたり黙って、眺めた。
玲奈はかつての、茉鈴の部屋を思い出す。何もせずとも、何も喋らずとも、ただ側に居るだけで心地良かった。
今はそれに近かった。
「ねぇ、先輩……就活始めなくても、いいんですか?」
だが、今は『友達』だ。義務感のようなものが芽生え、玲奈は何気に口にした。
「えー。その話、今する?」
「ふふ……」
茉鈴の声色に、焦りや不快感は無い。棒読みのように受け流され、玲奈はおかしく笑った。
止まることなく、夜空に光の華が咲く。夜空から重い音が降り注ぐ。
玲奈はとても満足だった。
突然アルバイトの予定が消え、このような穴場に連れてきて貰ったこともある。
茉鈴と一緒に鑑賞することが心地良いのか、楽しいのか――或いは両方なのか、玲奈はわからなかった。
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