第24話
七月三十日、日曜日。
午前十時過ぎ、玲奈はひとりで繁華街を歩いていた。
アルバイトまで、あと一時間ほどある。外国語能力測定試験の新しい参考書を購入するため、早めに自宅を出たのであった。
何を購入するのかは、事前に決めていた。書店に入り、目当ての参考書を見つけると、手に取りレジに向かう。
途中、レジ近くにある雑誌の棚で――何の雑誌かは知らないが、表紙の『蛙化現象』の文字が目に留まった。だが、その雑誌を取ることなく、会計を済ませた。
書店での用事を済ませても、まだ三十分ほど時間があり、玲奈は近くのカフェに入った。全国に展開している、有名なチェーン店だ。
どちらかというと、朝方になる時間帯のせいだろうか。店内は思っていたより空いていた。水出しアイスコーヒーの在庫もまだあったので、それを注文してふたり掛けの席にひとりで座った。
玲奈はガムシロップを垂らし、冷たいコーヒーを飲む。そして、購入したばかりの参考書のページを、ペラペラと捲る。だが、滞在可能時間が少ないため、勉強する気にはなれなかった。すぐに閉じた。
代わりに、携帯電話を取り出して『蛙化現象』をインターネット検索した。
雑誌の表紙にもあった通り、ここ最近になって若者世代に流行っている言葉だ。学校の友人らやSNSでも、よく耳にする。
どうして現在になって流行しているのかは、わからない。玲奈はその言葉を二、三年前ほど過去に初めて聞いた。
当時から『好意を寄せている相手に興味が失せた』という意味合いで認識している。だが、世間は『個人の特定行為を貶す言葉』として浸透している。実際のところはどうなのか、ふと気になったのであった。
「やっぱりね」
解説している記事がいくつかあった。玲奈はそれらを読むと、やはり認識している通りで間違いは無かった。
言葉の由来に関しても認識と相違無かったが、その現象が発生する原因までは詳しく知らなかった。
読んでみると、やはり主な原因は『恋愛に対する熱』のようだ。恋愛を楽しんでいる者にとっては、目的を果たせば確かに熱が冷めると、玲奈は納得する。
それは一年前、茉鈴に振られた原因として考えたことだった。
他にも、好意を寄せている人間がカエルに見える原因が、いくつか書かれていた。中でも玲奈が目を引いたのは、本人の『理想と現実のギャップ』と『恋愛に対して臆病だから』だった。
「へぇ……」
後者は熱が冷めることよりも自分勝手に感じ、それで振られた人は可愛そうだと玲奈は思った。
問題は、前者だ。これも、振られた側にしてみれば実に理不尽だった。例えば、歩いている時にふと躓いたり、喋っている時に噛んだり――そのような些細な失敗や格好悪い姿を現実で目の当たりにし、理想が崩れ『幻滅』することを言う。
おそらく、これが転じて世間の誤認に繋がっているのだろう。玲奈は解説に納得したうえで、既視感のようなものが湧き上がった。
思い返すと、先日の茉鈴だと理解した。体調を崩し弱りきった姿は余裕が無く、まさに理想から遠い姿だった。実際に白けた。
あの時は、考えなかったが――もしも一年前にその姿を見ていたなら、どうだっただろうか? 恋愛感情を抱いていただろうか?
玲奈は、きっと違ったと思う。
だから、一年前のことを改めて振り返った。
幻滅という概念だけではない。自分が茉鈴に対して『余裕』を求めているように、茉鈴から『気高さ』という理想を求められている。それらを知っている。
そう。必死に気持ちを伝えた姿に気高さは無く、茉鈴にとっての理想が崩れた。幻滅されたから、カエルになった。
まだその方が、茉鈴の熱が急に冷めたことよりも説得力があった。とはいえ、所詮は可能性の話に過ぎない。実際はどうであったのか、茉鈴本人しか知らない。
それに、現在は茉鈴に恋愛感情が無いので、玲奈としてはどうでもよかった。
ただ。もしも、その説が正しいのであれば――いかなる時も『気高さ』を損なわなければ、茉鈴と恋人としての交際が可能となる。
「ばっかみたい……」
だから何だと言うのだろう。そうだとしても、もう終わったことなのだ。
玲奈は携帯電話をテーブルに置くと、アイスコーヒーを飲み干した。
*
玲奈は午前十一時から、おとぎの国の道明寺領で『昼営業』のアルバイトをした。
午後四時になり、一度店を閉める。スタッフルームでハリエットとふたり、一息ついた。
「そういえば……安良岡さん、今日来るんですか?」
昨日見舞いに行った際、もし悪化すれば連絡するよう茉鈴に言ったが、連絡は無かった。
たとえ悪化せずとも、回復すればその旨を連絡するのが常識だと玲奈は思う。それすらも無いので、状況が把握できない。
自分は構わないにしても、店側にはどうなのか、気になった。
「欠席の連絡がありませんから、来るものと把握してますけどねー」
玲奈はハリエットから、ぎろりと見られる。見舞いに行ったのにどうなっているのかと、問い詰められているかのようだった。
「確かにしんどそうでしたけど、熱は三七度五分でしたし、ちゃんと看病しましたし、大丈夫ですよ……たぶん」
慌てて弁解するが、現状がわからない以上、断言までは出来なかった。悪化して連絡できないほど寝込んでいる可能性も、考えられる。
ハリエットには責任は取らないと事前に言ったつもりだが、伝わっているのか怪しくなった。
それもこれも茉鈴が悪いと玲奈は思っていると、扉が開いた。
「ちわーっす。お疲れさまでーす」
のんびりした挨拶で入ってきたのは、暗いカーキグレージュの柔らかなショートヘアの女性、安良岡茉鈴だった。
玲奈の目からは、元気というわけではないが、昨日のようにやつれているようにも見えない。いつも通り、小さな笑みを浮かべていた。
「まあまあ、マーリン様。病み上がりのところ申し訳ありませんが、本日はよろしくお願い致しますねー」
「はーい。ご迷惑かけて、すいませんでした。頑張りまーす」
予定通り来ただけで、満足なのだろう。にこやかな表情で、ハリエットが部屋を後にした。
「先輩……本当に大丈夫なんですか?」
こうして茉鈴が来たことで玲奈も一応安心するが、体調面の不安を完全には拭えなかった。
昨日アルバイトのことを念押ししたので、茉鈴なりに気にかけ、無理をしているのかもしれない。
「うん。まだ百パー本調子ってわけじゃないけど、元気になったよ。バイトも大丈夫」
柔らかな笑みを浮かべる茉鈴を、玲奈は信じるしかなかった。現に、無理をしている様子は無い。
「ここで油断したらぶり返すんですから、気をつけてくださいね」
ようやく安心し、玲奈はパイプ椅子から立ち上がってロッカーを開けた。
緊張感が抜けたからだろうか。今日の疲労が、今になって圧し掛かったような気がした。今夜はゆっくり休もうと思った。
「昨日は、ありがとうね。いろいろ用意してくれて、助かったよ」
「ていうか、先輩の風邪への対応が酷すぎるんですよ。毎回ああなんですか?」
「いやー。そもそも私、滅多に風邪ひかないというか……。ほら……バカは風邪ひかない、ってやつ?」
玲奈は私服に、茉鈴は衣装にそれぞれ着替えながら話した。
茉鈴の言い分に、玲奈は納得する。だからこそ、疑問が浮かぶ。
「それなのに、どうして風邪ひいたんですか?」
「たぶん……水のシャワー浴びて、ろくに拭かないで半裸で寝たからかな。流石の私も、無謀だったわー」
「何チャレンジですか、それ……」
バカは風邪ひかないというより、バカな行動をしていると玲奈は思ったが、口にはしなかった。代わりに、呆れた半眼を向けた。
私服に着替え終えると、簡単に髪を束ね、帰宅準備が完了した。
「玲奈が風邪をひいたら、次は私が看病してあげるよ」
「大丈夫ですよ。わたし、体調管理は出来てますから」
「えー。なんか、つまらなくない?」
「つまらないって何ですか。健康第一です」
茉鈴もローブに着替え終え、鏡を見ながら身なりを整えていた。
玲奈はそれを横目に、立ち去ろうとした。
「そうだ。お礼に、ご飯奢らせてよ。焼肉なんて、どう? まだ暑くなるんだし、スタミナつけないと」
「え……。そりゃ、嬉しいですけど……本当にいいんですか? 焼肉で」
意外な提案に玲奈は驚き、立ち止まった。
店による程度の差はあれど、焼肉の外食に対し贅沢な印象を持っている。嬉しさよりも、金銭面で大丈夫なのかと心配だが――アルバイトの給料が出たばかりだと、思い出した。
「うん。ちょうど、私も食べたいしね」
本心なのか、それとも心配を気遣ってなのか、玲奈にはわからない。
「それじゃあ、連れて行ってください。約束ですからね」
だが、どちらにせよ気楽に受けた。
玲奈は、今度こそ店を出た。
涼しい所から移ったこともあり、外の蒸し暑さに堪えた。それでも、玲奈は浮かれ気味だった。
茉鈴から焼肉に誘われたことだけではない。何を食べたいのか訊ねることなく、無難な贅沢料理を初手で出す誘い方は――素直に評価した。経験上、同年代の場合はそこで滞ることが多い。
だから、茉鈴に対し『大人』を感じた。そして、一連の態度に『余裕』を感じた。まさに、玲奈が抱いている理想の姿そのものだ。友達として居たい存在だ。
昨日の弱々しい姿は何だったのかと思う。冗談のようだったそれは、もはや玲奈の頭から消え去っていた。
世の中には、好意を抱いた相手の些細な態度で幻滅する者が居るように――蔑んでいた相手の些細な態度で好感を抱くことを、玲奈は知らない。
(第08章『理想の姿』 完)
次回 第09章『夏を楽しむ』
玲奈は英美里と茉鈴と共に、プールに行く計画を立てる。
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