第23話

 七月二十八日、金曜日。

 午後四時過ぎ。この日も玲奈は、おとぎの国の道明寺領へアルバイトに向かった。


「お疲れさまです」

「あっ、玲奈ちゃん。お疲れー」


 スタッフルームに入ると、パイプ椅子に座った春原英美里の姿があった。玲奈は視線を壁のホワイトボードに移した。


「あれ? 英美里、今日オフじゃなかったっけ?」


 そのように記憶していたからだった。夏季休暇で曜日感覚が薄れ気味であるため、或いは自分の出勤日が間違っているのではないかと疑った。

 だが、ホワイトボードのシフト表を眺めると、玲奈の記憶に間違いはなかった。やはり、今日のシフトは英美里が本来入っていない。


「領主様から言われて、急遽だよ。なんかね、安良岡さん風邪ひいたんだって」


 英美里は不機嫌そうに立ち上がり、着替えの準備に移った。


「え? マジで?」


 玲奈は後になって気づくが――茉鈴の怠ける言い訳である可能性は、この時一切浮かばなかった。あの女性でも風邪をひくのだと、素直に驚いた。

 そう。常に飄々とした態度で余裕を見ていたからこそ、何に対しても『失敗』や『敗北』が無い印象を持っていた。


「まあ……身体冷やして寝たんでしょうね」

「あー。確かに、安良岡さんならありそう」


 とはいえ、茉鈴のだらしない生活から、風邪をひく可能性は充分にあると思った。ある意味で、彼女らしいとさえ感じる。

 玲奈は呆れながらもロッカーに荷物を置いたところ、扉が開きハリエットが姿を現した。


「さあさあ、どうしましょう!」


 ハリエットは慌てた様子で、ホワイトボードの前に立った。


「夏風邪って、長引いて治りが遅いですわよね? マーリンが日曜も休むと、大ピンチですわー!」


 玲奈はもう一度、ホワイトボードを眺めた。

 三十日の夜に、茉鈴がシフトに入っている。確かに、このままではその枠も病欠になる可能性がある。

 玲奈はその日、昼間のシフトなので、夜も続けるのは体力面で避けたい。英美里の方は昼夜どちらも元々入っていないので、何か予定があるのかもしれないと思った。


「ああー! どうしましょう! 困りましたわー!」


 ハリエットはホワイトボードの茉鈴の欄を手で大袈裟に叩きながら、玲奈と英美里を交互に、わざとらしく見た。

 英美里は鬱陶しそうな半眼を向けている。玲奈としてもなるべく目を合わせたくないが、このままでは埒が明かないので、痺れを切らせた。


「わかりました。明日の昼、せんぱ……安良岡さんの様子見てきます。栄養取らせて、なるべく連れてきます」


 しかし、自分を犠牲にするつもりは無い。玲奈なりに最善の案を出したつもりだ。


「あらー。レイナ様、それは助かりますわー。是非ともお願い致します」


 ハリエットは満面の笑みを浮かべると、スタッフルームを去っていった。

 玲奈はまるで言質を取られたかのように感じた。だが、絶対に連れてくる、或いは代わりに自分が入ると保証はしていない。それを確かめると面倒になりそうだと思い、敢えて触れなかった。


「玲奈ちゃん、グッジョブ。エナドリと鎮痛剤を飲ませたら、大体の病気は治るよ」

「ある意味間違ってないけど、たぶん間違ってるわ、それ……」


 親指を立てる英美里の発言にも呆れた。

 場を収めるためとはいえ、損な役目を買ってしまったと、玲奈は今になって少し後悔した。



   *



 七月二十九日、土曜日。

 午前十時過ぎに玲奈は自宅を出て、駅へと向かった。

 電車に揺られること、約十分。四駅を渡り、降りた。

 そして、途中スーパーマーケットとドラッグストアで買い物をして、茉鈴のアパートへ向かった。暑い中、重い荷物を抱え、午前十一時前に着いた。


 玲奈はアパートの階段を上がると、事前に連絡を取っていないことに気づいた。おそらく、メッセージアプリのやり取りは、以前デパートへ行った時が最後だろう。

 誰に対しても、このような態度を取るわけではない。茉鈴にだけ、過去よりこの習慣が根付いていたのであった――たとえ、風邪で寝込んでいようとも。

 大体、店には連絡するくせに、わたしに助けを呼ばないのが悪い。玲奈はそのように苛立ちながら、ブザーを鳴らした。

 だが、扉からは何の反応も無い。

 部屋の間取りの、扉の反対側――窓側から、エアコンの室外機の音が聞こえるが、この部屋のものかは定かで無い。

 とはいえ、在室している根拠と呼べるものは、それぐらいしかなかった。


「先輩、生きてますか? お見舞いに来ましたよ」


 玲奈は古びた扉を強くノックしながら、呼びかけた。

 しばらくすると部屋で何かが動く音が聞こえ、扉が開いた。


「お見舞いは嬉しいんだけど……もうちょっと静かにしてくれないかな?」


 扉の隙間から、げっそりとした顔の茉鈴が覗かせた。柔らかな髪は、かつてないほどに広がっている。

 間違いなく体調を崩し、寝込んでいると、一目でわかった。余裕など無い――初めて見る弱々しい様子に、玲奈は驚いて扉を開けた。


「先輩、マジで死にそうになってるじゃないですか! ご飯、ちゃんと食べてます!?」

「うん……。カップラーメンなら……」

「風邪の時に、消化に悪いもの食べちゃダメでしょ! キッチン借りますからね!」


 すぐに料理へ移りたいところだったが、ひとまず茉鈴の肩を支えてベッドに運んだ。シャワーを浴びることが出来ないので仕方ないが、汗の匂いがした。

 エアコンの効いた部屋で、茉鈴はいつも通りTシャツとショーツの格好だった。

 直接の冷風は避けたい。玲奈はパジャマを探すが見当たらないので、代わりにスウェットの上下を着せた。そして、購入してきたスポーツドリンクを飲ませ、冷却シートを額に貼った。


 茉鈴を落ち着かせたところで、狭いキッチンで料理を始める。

 とはいえ、うどんを茹で卵を落としただけの――簡単な月見うどんだ。消化に良く最低限の栄養も摂れることから、玲奈は体調を崩した際は、過去よりよく食べていた。


「さあ。これ食べて、薬飲んでください」


 丼をテーブルに置くと、茉鈴がベッドから起き上がり、座椅子に座った。

 テーブル周りに、処方された薬の袋が見当たらない。病院に行っていないと――そもそも行く手段が無いのだと、玲奈は理解した。


「ありがとう……。ねぇ、玲奈も一緒に食べようよ」

「一食分しか買ってきてませんよ。ていうか、わたしは今から御粥を作りますから、晩に食べてください」

「ふーん……。わかった」


 玲奈は鍋を洗いながら、茉鈴の様子がなんだか珍しく感じた。茉鈴に甘えられたことなど、おそらく初めてだ。

 しかし、気に留めることなく料理を続けた。自宅から持参した米に水を大量に注ぎ、鍋に蓋をして火にかけた。

 その間に、購入してきた荷物を整理した。先ほど出したスポーツドリンクと、パウチのゼリー、梅干し、バナナを冷蔵庫に仕舞った。


「先輩、熱何度あるんですか?」

「体温計無いから、わかんない」


 その回答は、玲奈の想定通りだった。鞄から自前の体温計を取り出し、茉鈴に手渡した。


「治ってからでいいんで、返してください」

「ありがとう。測ってみるよ」


 いつの間にか、茉鈴はうどんの丼を空にしていた。

 食欲があることに、玲奈は少し安心した。グラスに再び水を注ぎ、風邪薬の準備をした。


「三十七度五分だって……」

「言うほど熱無いですね。安心しました」

「いや……たぶんこれ死んでもおかしくないから、もっと労ろう?」


 玲奈は、茉鈴の様子から三十八度超えを覚悟し、病院に連れていくタクシーを手配しようかと考えたほどだ。

 だから、拍子抜けた。茉鈴がどのぐらいの頻度で体調を崩しているのか、わからない。だが、普段元気な者が崩した場合、本人は落差が大きく感じる。おそらく、その補正もあるのだろうと思った。


「何言ってるんですか。このまま安静にしてれば明日には元気になりますから、バイト休まないでくださいね」

「ちょ……もしかして、そのために看病に来た感じ?」

「そうですよ。明日、先輩抜けたら普通に困るんですから」

「えー。なんか、超ブラックじゃない? 玲奈も、鬼厳しくない?」

「これでも、最高に優しくしてるつもりですけど……」


 安心した玲奈は、悪戯じみた笑みを浮かべる。

 茉鈴もふざけた会話に付き合うが、顔はまだげっそりとしていた。程度の差はあれ、体調を崩していることに代わりは無いのだと玲奈は実感した。


 鍋に火をかけること、四十分。粥が炊けた頃には、玲奈は食事の片付けを終えていた。茉鈴の身体を軽く拭き、ベッドに寝かせていた。

 最後に、冷蔵庫に入っている物の説明をして、部屋の灯りを消した。


「大丈夫だと思いますけど……もし悪化したら、遠慮なく連絡してください。それじゃあ、おやすみなさい」


 茉鈴にタオルケットをかけ、部屋を出ようとする。

 だが、ベッドで横になったままの茉鈴から、腕を掴まれた。


「ごめん……。寝るまででいいから、側に居てくれない?」


 こちらを見上げる垂れ目は、とても不安げだった。まさに、藁をも掴むように懇願している。

 薬を服用したから、眠りにつくまで時間はかからないだろう。それに、ひとり暮らしで体調を崩すと、妙に心細くなる。玲奈はそのように納得し、床に座った。


「ここに居ますから、心配しないでください」

「ありがとう……。ごめんね、無理言って」


 謝罪しながら目を閉じる茉鈴を、玲奈はぼんやりと眺めた。

 枕の隣にまで伸びた茉鈴の手に、片手を握られていた。


「バイトのためかもしれないけど……玲奈が来てくれて、超嬉しかったよ」

「まあ、ほら……わたし達、友達ですし……」


 このような状況では流石に悪態をつく気にはなれなかったので、適当に相槌を打ったつもりだった。


「そっか……。玲奈が友達で、本当によかった……」


 茉鈴の手から、力が抜ける。続いて小さな寝息が聞こえてきたことからも、その台詞が寝言のように聞こえた。

 玲奈は茉鈴の腕をタオルケットに仕舞い、立ち上がった。今度こそ部屋を出た。

 扉を施錠すると、扉のポストに鍵を落とした。


 時刻は正午過ぎだった。玲奈は蒸し暑い中、日傘をさして駅まで歩きながら、どこで昼食にしようかと考えた。

 だが、思考はそちらに傾かなかった。

 玲奈の頭にあるものは、とても弱々しい茉鈴の顔だった。

 いつもは、だらしないが余裕のある雰囲気だった。しかし、今日は余裕が無いどころか、助けを乞われた。

 風邪で体調を崩したことは、理解できる。だが、仕方ないとは割り切れなかった。

 それほどまでに、茉鈴へ抱く『理想』は明白であり、当然でもあった。

 だから、今日見たものには、とても驚いた。頭の中の印象から遠く離れ、残念だった。

 そう――白け、蔑むほどに。

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