第08章『理想の姿』
第22話
七月二十六日、水曜日。
時刻が午後五時に迫る頃、玲奈は駅からアルバイト先まで早歩きで向かっていた。
日中は勉強に時間を使い、その後少しだけのつもりで昼寝をしたところ――大幅に寝過ごしたのであった。
起きた時には、本来自宅を出る時間を過ぎていた。慌てて準備をして、飛び出した。
遅刻する可能性があることを、店側にはもう伝えている。この状況でも落ち着かなければいけないことを、頭では理解している。
しかし、かろうじて走るのは抑えているが――どうしても足早になっていた。焦る気持ちが込み上げるばかりだ。
玲奈はこれまで、アルバイトだけでなく、ありとあらゆる場面で遅刻の経験が滅多に無い。いくら自分らしくはないにしろ、遅刻すれば世間から『無能』と捉えられる。
その危機感だけではない。先日、水着の買い物に出かけた際、遅刻した茉鈴を散々貶した。だからこそ、この立場では逃げ出したいぐらい恥ずかしい。
暗い思考で頭が覆われ、玲奈は自分のことが情けなくなった。それでも夏の夕刻は蒸し暑く、急いで向かおうと足を動かすと、額に汗が浮かんだ。
やがて、おとぎの国の道明寺領に到着した。
時刻は午後四時五十五分。開店五分前のため、正面の扉には数名の客が開店を待っていた。玲奈は裏口から店に入った。ハリエットから言われたわけではないが、私服姿を見られるのは嫌だと思ったのだ。
「すいません! 遅れました!」
玲奈は開口一番、まずは謝罪する。
店内には満面の笑みを浮かべたハリエットと、どこか脱力気味に――安心したような表情の茉鈴が居た。
「あらー、レイナ様。珍しく、随分と慌てた様子で……。開幕はとりあえずふたりでいけますから、ちゃーんと身なりを整えて、いらしてくださいね」
「は、はい……」
ハリエットは落ち着いた様子だが、方言でないせいか、玲奈は冷ややか態度に感じた。彼女なりに怒っているように見えた。
ひとまず、スタッフルームに移った。パイプ椅子に座り、水を飲みながら、束ねた髪の毛を解いた。
なんとか開店に間に合ったとはいえ、汗が浮かび髪が乱れたこの状態では、開店から接客業に取り掛かれない。着替えも含め、準備に十五分は要する。つまり、事実上の遅刻だ。
「はぁ……」
玲奈は溜め息を漏らすと、鞄から汗拭きシートを取り出した。
自分の情けなさに呆れ、気分はとても沈んだ。
しばらくして準備を終えるが、やはりまだ浮かばない。
とはいえ、接客業なのだからこのままでは客に失礼だ。玲奈は強引に気分を切り替え、店内に出たつもりだった。
「おや、女王様……本日も、ご機嫌麗しゅうございますか?」
「え、ええ……」
さっそく魔法使いマーリンに絡まれ、玲奈は相槌を打った。ぎこちない笑みを浮かべていることに、玲奈本人は気づいていない。
近づいた茉鈴に、正面から抱きしめられた。まだ店内に客数は少ないが、黄色い歓声が上がった。
玲奈は突然のことに驚き、思わず茉鈴を突き放しそうになる。だが、茉鈴の抱きしめる力が強いため、行動に移る前に諦めた。
「泣きそうな
客に聞こえないほどの小声で、茉鈴が耳元で囁く。
切り替えたつもりだったが、よほどひどい表情なのだと、玲奈は理解する。茉鈴から、隠す意味で抱きしめられたのだった。
現に、気分が沈んでいるせいか、茉鈴に助けられた悔しさや恥ずかしさは湧かない。素直に委ねることにした。
「女王様は、幼い頃から朝が苦手ですからねぇ。ほら、ご自慢の美しい髪の毛が、まだ乱れていますよ。私めのチェックは、とても厳しいのです」
確かに店に着いた時は髪が乱れていたが、念入りに整えたのだから、そのようなことはない。表情と違い、髪の毛にはまだ自信があった。
しかし、茉鈴の意図を理解した。茉鈴に抱きしめられたまま、優しい手付きで頭を撫でられた。
どうやら茉鈴は、寝起きという状況を想定して、髪の毛を――頭を撫でているつもりのようだ。この茶番でなら、客から怪しまれないだろう。上手く考えたと、玲奈は思った。
力強い抱擁だったが、次第に優しい力加減に変わっていく。頭を撫でられていることもあり、玲奈はとても落ち着いた。
「侍女の手入れが不充分だったようですね。言い聞かせておきます」
このままでは感極まって泣き出す恐れがあるため――まだ顔を上げられないが、玲奈は茶番に付き合った。ちなみに、この店で女王レイナの侍女にあたる演者は居ない。
「女王様の髪の毛は、私が魔法を使わずとも、これほどまでに美しいですからね。手入れは念入りに行いましょう」
気分が和らぎ少しの余裕が生まれたところで、玲奈は疑問に思う。
その台詞は、果たしてマーリンとしてのものだろうか? 茉鈴としての一意見に聞こえたが、この場では訊ねられない。
以前から――いや、昨年出会った当初からそうだ。茉鈴にロングヘアを気に入られている節があった。きっと、そういう嗜好なのだと思っていた。
ロングヘアの女性など、世の中には沢山いる。自分に限らず、きっと彼女達も茉鈴の目に適うのだろう。
玲奈はそう考えた時、ふとスミレの不気味な笑みが脳裏に浮かんだ。
彼女も、黒く綺麗なロングヘアだった。そして、茉鈴と過去に何らかの揉め事があった。
それらの事実が、玲奈を悪い予感に導いた。かつて、ばっさり短く切った時の気持ちを思い出した。
「貴方という人は、昔っからそのようなフェティシズムを持って……髪が長ければ、誰だっていいんでしょ?」
玲奈は茉鈴の胸から離れた。台詞の意図通り、悪戯じみた笑みを浮かべている自覚があった。
このような言動は女王レイナに相応しくないとも自覚していたが、まだかろうじて許される範囲だと思った。
突然の出来事に茉鈴の垂れ目はきょとんとし、客席も少しざわめく。女王様のジェラシーや、と誰かが漏らしたのが聞こえた。
ここでようやく、玲奈はおかしな空気を作ったことを理解した。その手前、どうにか収めないといけなかった。
「いえ。誰でもいいだなんて……そういうわけではありませんよ」
しかし、茉鈴が小さく微笑んだ。
「仰る通り、私は髪が長く綺麗なお方が好みです。ですが、似合っていなければ、そうは思いません」
茉鈴は手に持っていた杖を床に置くと、片膝をついて玲奈を見上げた。
このような真似をされたことは初めてなので、随分仰々しいと玲奈は内心で驚いた。
「レイナ様……貴方は、髪だけではありません。とても気高く美しいから、私はこんなにも惹かれるのです」
茉鈴の芝居掛かった態度での告白に、店内が沸く。茶番としては上出来だと、玲奈は思った。
いや、まるで他人事のように聞こえた。『蓮見玲奈』ではなく『女王レイナ』として敬われたのだと理解する。
そう。自分は気高くもなければ美しくもない人間であると、自覚しているのだから。今日にしろ、アルバイトに遅刻した。
それでも、玲奈にはなんだか違和感があった。
――キミは、気高い
いつかの夜、泣き疲れた頭でぼんやりと聞いた、茉鈴の台詞を思い出す。
あの時も、正体のわからない違和感を覚えた。言葉では言い表せないが、今感じているものと全く同じなのだ。
玲奈はひどく困惑する。しかし、どのように返事をするのか、客席から一斉に向けられた期待の視線に邪魔をされた。
「わたしの魅力を、そんなありきたりな言葉で並べるだなんて……まだまだですね、魔法使い。皆さんにもっと伝えられるように、これからも精進なさい」
本音をそのように言い表し、手を差し伸べた。『魔法使いマーリン』ではなく『安良岡茉鈴』に向けた言葉だが、汲み取って貰えるとは思わなかった。
「はい。そのためにも、これからも貴方に仕えます……レイナ様」
茉鈴が手を取り頭を下げると、店内は黄色い歓声に包まれた。
しかし、玲奈は釈然としなかった。
その後も、玲奈は業務を続けた。
遅刻で沈んだ気分は、茉鈴との茶番で、ある疑問に置き換えられた。だが、余計なことを考えず業務に専念し、あっという間に午後十一時を迎えた。
「お疲れさまです、先輩」
「うん。お疲れー」
茉鈴とふたり、スタッフルームに入る。
ふたりとも着替えるより先に、まずはパイプ椅子に座って水を飲んだ。
一息ついたところで、玲奈に先ほどの疑問が浮かび上がった。
「あの、先輩――」
わたしに何を求めているんですか?
そう訊ねようとしたが、いざ口を開くと踏み留まった。
「今日は、ありがとうございました」
代わりに、当たり障りのない言葉を選んだつもりだった。
「え? あー、最初のやつ? 遅刻なんて玲奈らしくないから、気をつけなよ。まあ、私が言えた義理じゃないんだけどね」
わたしらしくないって、どういうことですか? わたしらしさって、そもそも何ですか?
玲奈の疑問はそれらに派生するが、やはり訊ねられなかった。そこに踏み込むのは『友達』の範疇外だと察した。
「今からウチ来る? 慰めてあげようか?」
「もう要りませんよ……。ていうか、明日は朝から友達と出かけるんで」
ヘラヘラと誘う茉鈴に、玲奈は嘘をついた。友人と会う予定など、無かった。
このまま茉鈴に飲まれてしまうのが、嫌だったのだ。
「そっか……。残念」
茉鈴はそう漏らすと、立ち上がった。
玲奈も立ち上がり、着替えた。
店を出て、ふたりで駅まで歩く。
玲奈はそこで別れ、別々の電車に乗った。
終電間際の時間帯は、いつも人気が少ない。広い座席の真ん中に座り、玲奈はようやくひとりきりになったような気がした。
落ち着いたところで、先ほどの疑問を掘り起こすが――もう結論は出ていた。
どういうわけか、茉鈴から髪型を含め気高さを求められていると、玲奈は確信した。
だから、投げやりな態度を取ることも、人前で弱さを見せることも、茉鈴に許されなかった。
そのような人間ではなく、また成れないことを、玲奈自身がよく知っている。勝手な理想を押し付けれても困ると思った。
そう、理想だ。実物はさて置き、都合の良い姿を求めることを、理想と呼ぶ。
どうしてそのような理想を抱かれているのかは、わからない。しかし、それを追求することはなかった。
思考は別の疑問を呼び起こした。否、自分にも当てはまる節があったのだ。
玲奈は、余裕のある大人の姿を茉鈴に求めていた。
実際の茉鈴がどうであるのか、玲奈は知らない。自分の視点で観測した姿に過ぎない。
だから――それもまた、ただの『理想』なのだと、ふと思った。
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