第20話
七月十八日、火曜日。
玲奈は午前十時四十分に目的の駅で電車を降り、アルバイトの同僚らとの待ち合わせ場所に向かった。
アルバイト先はこの地域の南部にあたるが、買い物の場所に選んだのは北部だった。学校も自宅も、北部寄りに位置する。玲奈の中では、賑やかな南部に対し、落ち着いた北部といった印象だった。
おそらくこの地域で最も大きい電車の駅であるここは、二棟のビルと融合し、複合商業施設として機能している。
世間は平日にも関わらず、駅はとても混雑していた。駅を含め建物の広さと綺麗さ、そして駅を中心に街が開発されていることから――この一帯は首都に引けを取らないほど栄えていると、玲奈は以前より感じていた。どちらかというと、南部より北部の方が居心地は良かった。
玲奈はエスカレーターを上り、ビルの五階を繋いでいる広場に着く。待ち合わせ場所として有名なここは、既に大勢の人が居た。
金色と銀色、ふたつの時計が広場の両端に立っている。事前の打ち合わせ通り、金色の時計の下で、春原英美里を見つけた。
半袖の白いカットソーに黒いキャミワンピースを重ね、頭にはカンカン帽が載っていた。実に夏らしい格好だが、玲奈はなんだか違和感を覚える。
「英美里、お待たせ」
「あっ、玲奈ちゃん? ごめん……私服姿だと、誰だか一瞬わからなかったや」
苦笑する英美里にそう言われ、玲奈は違和感の正体を理解した。
「わたしもよ。あれ? って思ったわ」
アルバイトで私服姿を全く見ないわけではないが、ほとんどがメイド服姿だ。自分だけではなく、英美里もまた――演者としての格好が、互いに馴染んでいたようだった。
ちなみに、玲奈の格好はライトグリーンの半袖ニットと、黒いスラックスだった。髪は団子状にまとめている。
「さて……あとは、安良岡さんだね」
英美里はリュックから水の入ったペットボトルを取り出し、金の時計を眺めた。玲奈も連れられると、時刻は午前十時五十分だった。
まだ、残るひとりの茉鈴が現れない。
「普通なら、もうそろそろ来てもいいはずよね……。普通なら」
「まあ、十一時までは待とうよ」
確かに、責めるにしても約束の時間を過ぎてからだと玲奈も思った。
仕方なくふたりで待つが――午前十一時どころか、さらに十分を過ぎても、茉鈴は現れなかった。
「うーん。安良岡さん、何かトラブってるのかな?」
「まだ起きてすらないんじゃない?」
「うわー。ありそー」
茉鈴がアルバイトに遅刻したことは、不思議なことに、少なくとも玲奈の知る限りは無い。それでも、だらしない印象は払拭されない。
「玲奈ちゃん、連絡先知ってる?」
「しらな――そういえば、知ってたわ」
玲奈は反射的に否定しようとしたが、ふと思い出し、ハンドバッグから携帯電話を取り出した。五十音順に並んだ電話帳の下部に、安良岡茉鈴の氏名があった。
いや、まだ残っていた。最近ではなく、一年前に登録したものだ。別れた後も、削除する手間すら惜しかった。
結局のところ、メッセージアプリも含め、携帯電話でのやり取りはこれまで一度も無い。だから気まずいが、英美里も居る手前、背に腹を代えられなかった。仕方なく発信ボタンを押し、携帯電話を耳に宛てた。
しかし、三十秒ほどコールが聞こえるも、繋がらない。
苛立った玲奈は、次にメッセージアプリを開いた。
『今どこなんですか? 待ち合わせの時間、もう過ぎてるんですけど』
これが茉鈴への、初めてのメッセージだった。
学校の友達らには、可愛い絵文字を使用する。だが、茉鈴相手には口調すら考えず、実に素っ気ない内容だった。
『ごめん、寝過ごした。今電車で、場所が――』
すぐに返事があり、玲奈は呆れながら携帯電話の画面を英美里に見せた。
「これだと、あと十五分ぐらいで着くかな」
「まったく……。遅れるなら遅れるで、もっと早く連絡よこしなさいよ! ほんと、信じられない!」
「まあまあ。玲奈ちゃん、落ち着いて。連絡ついただけでも、よかったじゃん」
英美里からなだめられるが、玲奈は腹の虫が収まらなかった。まるで、舐められているかのようだった。今日を楽しみにしていただけに、なお腹立たしい。
仕方なく、ふたりで待ち続ける。しかし、連絡がついてから十五分どころか三十分経っても、茉鈴は現れなかった。代わりに、玲奈の携帯電話に電話の着信があった。
「ちょっと、今どこなんですか!?」
『ごめん。なんちゃらの広場だっけ? それ、どこ? ていうか、ここどこ? 迷うよねー』
玲奈はヘラヘラした茉鈴の声から、詫びる気持ちが一切伝わらなかった。
複雑な構造ではないが広い建物であるため、確かに初見では迷うと思う。現に、自分も過去に初めて訪れた時は、迷いそうだった記憶がある。
だからこそ――これに限らず、知らない土地での待ち合わせする場合は、事前に地理を念入りに調べておく。そして、早めの到着を心掛ける。それが玲奈にとっての『常識』であり、他者にも強要したいほどだった。
「迷いませんよ! いいですか!? そこから動かないでください! 周りに何見えるかだけ、教えてください!」
玲奈は茉鈴から視覚情報を聞き出し、英美里と広場から下りた。
茉鈴と合流したのは、それから十分後、地下で駅と繋がっているデパートの出入口前だった。
「いやー、ごめんごめん。ここ、ほとんど来ないからさー」
やはりヘラヘラしている茉鈴に、玲奈は怒るつもりだったが、茉鈴の姿を見て――口が閉じた。
「あれー。安良岡さん、今日めっちゃ可愛いじゃないですか。ていうか、そんな格好もするんですね」
英美里が感想を代弁したかのように聞こえた。
茉鈴の格好は、白色のTシャツの上からベージュのフード付きパーカーを羽織り、チャコールのフレアスカートを履いていた。
普段はパンツスタイルが多い――いや、それどころか、玲奈は茉鈴のスカート姿を初めて見たような気がした。服装の色も全体的に明るく、とても新鮮だった。それでいて違和感も無い。ゆったりとしたシルエットが、茉鈴の柔らかな雰囲気に合っていると思った。
「久しぶりのお出かけだからねぇ」
「それで遅刻して、どうするんですか!」
とはいえ、英美里のように面と向かって言うのは恥ずかしいため、玲奈は誤魔化すように怒った。
「うーん。もうこんな時間だし、先にランチにしようか」
英美里の提案に時間を確認すると、正午になろうとしていた。
予定では午前十一時過ぎから買い物に向かい、午後一時頃――混雑する時間帯を避け、休憩も兼ねて昼食にするはずだった。しかし、英美里と一時間近く茉鈴を待った今、玲奈も買い物という気分になれなかった。
「そうね……。並んでもいいから、先にランチにしましょ」
「何か食べたいやつある? 近くの筒みたいなビルに、リゾート気分味わえるいい感じのお店あったんだけど……ビルの工事で閉店しちゃった」
「わたしは、特には……」
この一帯は、飲食店の数が把握し切れないほど多い。食べたいものがある店にたどり着けるだろうが、玲奈はそもそもそれが浮かばない。心身ともに疲れているため、考える気にもならなかった。せめて、選択肢が欲しい。
玲奈の目から、英美里も同じ様子だった。誰かが挙げるのを待っていた。
「私、冷たいうどん食べたいなー」
この空気を読んでのことなのか、玲奈にはわからない。茉鈴が手を挙げて、進言した。
「うどんかー。暑いし、いいんじゃないかな。確か上に、お店あったよ」
英美里は乗り気だった。
玲奈としても、反対ではない。三人中ふたりが肯定しているので、何にしても折れるしかなかった。
「ええ。そこに行きましょう」
「りょうかい」
英美里の案内で、店へと向かった。
すぐ側にある入り口から、デパートに入る。最上階である十階はダイニングフロアのようで、時間帯から多くの客で賑わっていた。
その中で、目当ての店があった。
「え? 大丈夫?」
珍しく、茉鈴が不安そうな声をあげた。金銭的な心配をしているのだと、玲奈は察した。
店頭のショーケースに並んだメニューサンプルは、確かにうどんや蕎麦が多い。だが、名物はうどん鍋らしく、店構えはまるで料亭のようだった。
他の店に比べ待ち客が少ないことからも、手を出しにくい価格帯を玲奈に連想させる。
「あたしも初めてですけど、ランチタイムならたぶん大丈夫でしょ。ていうか、試験勉強のお礼でご馳走するんで、心配しないでください」
「いや……嬉しいんだけど、無理しないでよ?」
「よかったじゃないですか。先輩が普段食べられないぐらいの、美味しいやつ食べられますよ」
玲奈も内心では少し不安だったが、表情には出さないようにした。
十分ほど待ち、店内に案内された。喧騒に包まれ、それなりに賑わってはいるが、清楚感のある落ち着いた雰囲気だった。
仕切りがあるだけの、半個室の四人がけテーブル席に通される。玲奈はようやくランチメニューを見るが、英美里の言っていた通り、一般的な飲食店の価格帯で安心した。
「この中だと、好きなの選んでいいですよ」
「それじゃあ、天ざるうどん」
「うーん。あたしも天ざるの、蕎麦で。玲奈ちゃんは?」
「湯葉うどんかな……」
「おっ。玲奈は渋いのいくねぇ」
過去から名前を聞いたことはあるが、食べたことは一度も無かった。店の雰囲気も相まって、玲奈の興味を引いたのであった。
注文後しばらくして料理が運ばれ、三人で食べた。
玲奈が初めて食べた湯葉うどんは、とても美味しかった。柔らかいがもちもちした麺に、柚子の香りが漂うあんかけの出汁、そしてたっぷりの湯葉と山菜が合う。途中で山椒を加え、味の変化も楽しんだ。温かい麺料理だったが、満足した。
「ご馳走様。ありがとう、エミリー。たぶん、今年食べた中で一番豪華で美味しかったよ」
「ええ? 安良岡さん、普段何食べてるんですか?」
「そこは引かないであげて」
三人全員が満足のいく食事が出来たようだった。
食後、差し出された茶を飲んで一服した。
「さて。お腹膨らんだところで、水着見に行こうか」
「え? 水着買いに来たの?」
「逆に、先輩は何しに来たんですか?」
「あー……すいません。そういえば、買い物としか言ってませんでしたね」
英美里の言う通りだとしても、目的のよくわからないまま付いて来た茉鈴を、玲奈はどうかと思った。
「水着買うってことは、どこか泳ぎに行くの?」
「はい。海かプールに行こうって話を、玲奈ちゃんとしていて……。てことで、安良岡さんも今日一緒に買って、強制参加ですよ!」
「いいねー。行こ行こ」
「ちょっと! 先輩!」
冷静に考えれば、今日の買い物に茉鈴も加わった時点で、こうなることは予想できたはずだ。しかし、玲奈は予期せぬ方向に話が進んだような気がして、思わず口を挟んだ。
水着は購入するが、英美里の誘いを断るつもりだ。それなのに、茉鈴までも加わると二対一の『少数派』になるため、断り難くなる。
この状況で茉鈴を止める方法を、玲奈は考えた。
そもそも、三年生の夏季休暇にアルバイトに明け暮れるだけでなく、遊ぶ余裕もあるのだろうかと、ふと思う。いくら卒業の単位に余裕があるとはいえ、卒業後の進路、就職活動の準備に差し掛かっているはずだ。
それも余裕なのかと疑問を持った時――テーブルに置いていた英美里の携帯電話が震えた。
「もしもし? どうしたんですか、領主様」
どうやらハリエットからの電話だと、玲奈は理解した。
「え? パソコンが青い画面になって、動かなくなった? いやいや……電気屋さんに言った方が、よくないですか? あたし、機械系は全然苦手なんですけど」
呆れる口調で話す英美里の言葉から、およその状況を理解する。
確かに、どうしてまず英美里に連絡するのかと、玲奈も疑問だった。
その後もしばらく会話が続き、英美里が携帯電話を置いた。
「ごめんね、おふたりさん。あたし、領主様の所に行くことになっちゃった。あの人、あたしが居ないとなーんにも出来ないから……」
困った様子で話す割に、英美里の表情はどこか誇らしげだった。
ハリエットが英美里に泣きつく印象は無いが、アルバイト外のことまでは知らないので、玲奈は何とも言えない。ただ、本当に令嬢と従者のような関係だと思った。
「そ、そう……。それなら仕方ないわね」
残念ながら、英美里を引き止める理由が見つからなかった。
英美里はテーブルに三千五百円を置くと、席を立った。
「気をつけて行ってきてねー。領主様によろしくー」
「はーい。あっ、そうそう……どんな水着買ったのか、教えてね」
押さえるところをしっかり押さえるんだなと、玲奈は思った。
英美里が笑顔で手を振って去り、茉鈴とふたり取り残された。
事前にどれだけ冷静に考えても、この状況になることはきっと予想出来なかった。
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