第18話
スミレが店から居なくなった後も、玲奈は業務を続けた。
釈然としない気持ちは、すぐに消えると思っていた。だが、玲奈の中に留まり、次第に大きくなった。
業務への支障は無かった。女王レイナを演じることで、多少なりとも気が紛れていたのであった。
だから、午後十一時になり、スタッフルームで着替えた頃には――あるものへと変わり、重く圧し掛かっていた。
玲奈は店を出ると、まだ賑やかな繁華街を重い足取りで歩き、電車の駅へと向かった。
しかし、乗り込んだ電車は、いつもと違うものだった。自宅とは反対方向へ走るものだ。
無意識の行動だった。人気の少ない車内で、玲奈は項垂れていた。
やがて、目的の駅で降り、暗い夜道をしばらく歩いた。着いた先は――古びたアパートだった。
日付が変わろうとする時間帯に、玲奈は階段を上がった。廊下は最低限の灯りがついているが、二階の三室は全て消えていた。
それでも、一室のブザーを鳴らした。住人が不在という可能性は、頭に無かった。
しばらくして部屋の灯りがつき、扉が開いた。
「……え? 玲奈?」
全く驚いていないわけではないが、反応は極めて薄かった。
Tシャツとショーツ姿で――柔らかなショートヘアが乱れた安良岡茉鈴が、扉の隙間から顔を見せた。いつも通りの、眠たげな垂れ目だった。
「……」
玲奈は茉鈴を一度見上げた後、俯いた。
深夜に突然押しかけ、寝ているところを起こし、常識に欠ける行動をしている自覚はある。さらに、無言で用件を伝えないため、この場で怒鳴られ追い返されても無理がない。
「とりあえず、入りなよ」
だが、茉鈴に招き入れられた。
玲奈は部屋へ上がり、テーブルを正面に床へ座った。
「これ飲んで、落ち着こうか」
茉鈴が麦茶の入ったグラスをふたつ持って、座椅子に座った。
玲奈は、冷たい飲み物で喉を潤すと、ようやく頭の中が晴れたような気がした。
とはいえ、それも一瞬。込み上げた暗い気持ちに、再び覆い尽くされた。
その重いものを引きずって、夜中にわざわざ訪れた。ここに来れば楽になるだろうと思ったまでだ。それ以外に理由は無い。
だから、何を話せばいいのか――茉鈴に何を求めているのか、玲奈自身わからなかった。
「お疲れさま……。バイトで何かあった?」
茉鈴は苛立つことなく訊ねる。かといって、心配している様子もない。
格好と時間帯から、アルバイト帰りであると予想できるのだと、玲奈は理解した。
そうだ。ここまで気分が沈んだ原因をまずは報告しなければいけないと、この時初めて気づいた。
「今日……スミレって子が、店に来ました」
その名前を出した途端、茉鈴の眠たげな瞳が見開いた。
「ごめん……」
玲奈は、茉鈴の申し訳なさそうな表情を、初めて見たような気がした。なんだか新鮮だった。
だが、それよりも――どうして謝罪しているのだろうと、ふと思う。
いや、解せない点は他にもある。そもそも、スミレという女性が茉鈴を目当てに店を訪れているのは明白だ。
「先輩とあの子、何があったんですか?」
スミレが茉鈴に固執する理由が知りたかった。
ふたりはどういう関係なんですか――本来であれば、この質問が自然だろう。敢えて外したわけではない。知りたくないわけではないと、玲奈は自分に言い聞かせた。
「昔……ちょっとね」
しかし、茉鈴は言葉を濁し、ばつが悪そうに苦笑した。
明らかに、追求を免れようとしている。話したくないという拒絶の意思が、玲奈に伝わった。
玲奈としても、無理に聞き出すつもりはなかった。ふたりに何かしらの揉め事があったのは事実だ。今は、それだけで充分だ。
もしかすれば、スミレの言う通り、茉鈴が極悪非道な加害者なのかもしれない。流すつもりが、その可能性がふと玲奈の頭に浮かんだ。
そして――玲奈の瞳から、涙が溢れた。
スミレのことを思い返している内、恐怖心が込み上げたのであった。両手で顔を覆い、俯いた。
「あの子に何かされた!?」
珍しく茉鈴の焦る声が聞こえるが、玲奈は首を横に振った。五分ほどの会話は『何かされた』に含まれない。
「怖かっただけです……」
無理をしてスミレからの誘いを受けた。それ以前に、彼女の放つ暗く攻撃的な雰囲気が苦手だったのだ。接客業として元も子もないが、玲奈は客で唯一、スミレを生理的に受け付けなかった。
特に、何を考えているのかわからない不気味な笑みは、思い出しただけで背筋が凍える。
克服は出来なかった。可能ならば、もう二度と相手をしたくない。
「わかった。私が玲奈を守るよ。あの子を玲奈に近づけないようにする」
茉鈴が落ち着いた声で宣言する。
「出来もしないこと、言わないでくださいよ」
「出来るよ。だって、私は魔法使いだもん」
「何ですか、それ……」
至って真剣な様子の茉鈴に、玲奈は泣きながらも小さく笑った。和ませようと茉鈴なりに冗談のつもりなのか、それとも本気なのか、玲奈にはわからない。
少しだけ気分を誤魔化せたが、完全には傾かなかった。ボロボロと涙が溢れ、玲奈は最早どうして泣いているのか、自分でもわからなくなってきた。加速した感情が、嗚咽を漏らすまでにひとり突っ走る。
ふと、斜め向かいで座椅子に座っていた影が、背後に移ったのを感じた。
そして、玲奈は背後から茉鈴に抱きしめられた。
力強くではない。そっと包み込むような、優しい抱擁だった。
「やめてください……。わたし、汗くさいです」
一日が終わりに差し掛かろうとしているにも関わらず、まだシャワーを浴びていない。それに、茉鈴の顔がちょうど後頭部に位置するため、恥ずかしかった。
だが、力づくで振り解く気にはならなかった。申し訳ないと思いながらも――不思議と落ち着いたのだ。
「そんなことないよ。キミは綺麗だ」
耳元で囁かれる。
先ほどから、声の抑揚は一定だった。皮肉や冗談に捉えることが出来る。しかし、玲奈は茉鈴の本心に聞こえた。
だからこそ、さらに涙が溢れる。
おそらく、茉鈴は汗を流した身体のことを言っているのだろう。だが、玲奈は人間としてのことまで言われているような気がした。
そう。後ろめたさがあったのだ。
迷惑など考えず、夜中に突然押し掛けた。情緒不安定に取り乱した。そして、無言で茉鈴を求めた。
怒られないと、予感はあった。案の定、受け入れてくれた。茉鈴を都合よく利用しているだけだ。
どのようなかたちでも構わない。ただ、慰めて欲しかった。相手にしてみれば、面倒この上ないだろう。
どうしようもない最低の人間だと、玲奈は自覚していた。
一時間ほど前まで、アルバイトでドレスを着て、女王の格好をしていた。
だが、女王を名乗る資格は無い。どれだけ着飾っても、決して高貴な人間には成れない。綺麗な人間ではないのだ。
だから、そのように言われることが、辛かった。
「先輩は……どうして、わたしに優しくしてくれるんですか?」
玲奈は振り返ることなく、茉鈴の腕の中でぽつりと漏らした。
予感はあった。先日のスタッフルームでのキスといい、今の抱擁といい――きっと、身体が目当てなのだろう。離れないように、適度に『餌』を与えられている感覚だった。
それを確かめたかった。正直に話して欲しかった。
「うーん……。友達だから、かなぁ」
しかし、茉鈴はどこか照れくさそうに答えた。
以前、この部屋でふたりの関係について話し、確かに『友達』と成った。性交の他、食事や遊び等の一般的な意味合いも含まれる、奇妙なかたちだ。
茉鈴の口振りは、まさにそれを指していた。仲良くしたいという純粋な気持ちが伝わった。
「たぶんだけど……友達がヘコんでたら、慰めるもんじゃない?」
「どうして『たぶん』なんですか……。先輩、友達いないんですか?」
「まあ、多くはないね……昔っから」
玲奈は笑う。この優しさが『友情』とするならば、一応は納得した。
そのうえで、ひとつだけ引っかかる。いや、後ろめたい気持ちが、後ろ向きに考えさせた。
「先輩から優しくして貰っても……わたしは何も返せないかもしれません」
背後に体重をかけ、茉鈴と共に床へ倒れた。振り返り、寝転がったまま茉鈴と向き合った。
泣き顔を見られるのは恥ずかしいが、玲奈は茉鈴の垂れ目をじっと見つめた。
「これも、たぶんだけど……友達って、損得勘定で動くもんじゃないと思う。だから、気にしないで」
茉鈴のこの主張も、一応は納得できるが――なんだか腑に落ちない。
「ていうか、私は玲奈から返して貰ってるどころか……いっぱい貰ってるよ」
「何をですか?」
「うーん……。いろいろ」
嘘を誤魔化しているのか、それとも言葉を濁しているのか、玲奈にはわからない。
しかし、茉鈴から柔らかな笑みを向けられ、涙を拭われると、どちらでもよくなってきた。観念して、笑って見せた。
「さあ、シャワー浴びておいで」
立ち上がった茉鈴から、玲奈は腕を引き上げられた。
詳しい時刻はわからないが、もう電車が動いていないのは間違いないため、今夜はここに一泊となる。
久々に泣き、とても疲れた。これから素肌を重ねる空気ではない。ぼんやりした頭で、バスタオルや着替えを用意している茉鈴を眺めた。
「明日も試験あるんでしょ? 何限から?」
そう訊ねられ、記憶を探る。明日の試験は二限目のみだ。今さら追い込まなくとも、割と簡単に高得点を取得できる見込みの科目だった。
だが、今は――
「ひとつぐらい落としても、別にいいですよ……」
思考が上手く働かず、どうでもよかった。単位の数なら充分だ。今から明日の
「それはダメだ。私が無理やりにでも連れて行くから、試験はちゃんと受けて……。留学したいんでしょ?」
落ち着いた――拒否を許さない、張りのある声だった。垂れ目も、眠たげではなかった。
これほどまでに真剣な表情の茉鈴を、玲奈は初めて見た。怒られたとすら感じ、驚いた。
お陰で、目が覚めた。交換留学の選抜には成績が審査されるため、単位は可能な限り取得しないといけない。捨ててもいい科目など、無いのであった。
「わかりました……。二限に間に合うように、ここを出ます」
「うん。頑張っておいで。完璧にこなさないといけないよね」
にこやかな茉鈴から、バスタオルを受け取った。
さっきのは、何だったんだろう。玲奈は茉鈴の変化に驚いたが、それ以外に何かが引っかかる。
叱ることも友達としての優しさならば、それまでた。だが、それだけではないような気がした。
違和感の正体がわからないまま、ユニットバスへと向かった。その際、茉鈴から背中に言葉を投げかけられた。
「だって――キミは、気高い
(第06章『優しくされる理由』 完)
次回 第07章『初デートは突然に』
玲奈は、英美里と茉鈴と買い物に出かける。
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