第17話

 七月十三日、木曜日。

 試験期間の終盤に差し掛かるが、玲奈が受講している科目で、残りは割と楽であった。また、既に終えている分も、手応えが良かった。

 午後四時半頃、玲奈は事前のシフト申請通り、アルバイトに向かった。


 茉鈴の顔は無かった。急な欠席ではなく――玲奈はスタッフルームのホワイトボードを眺めると、そもそもシフトが入っていない。冷静に考えれば、シフトが重なっていないことが特別珍しいことではないが、なんだか珍しく感じた。茉鈴から付き纏われているように、錯覚していたのであった。

 先日、昼夜のシフト入れ替えの際、ふたりきりのこの部屋でキスをされた。

 茉鈴のことを考えずに一方的に怒ったことを、玲奈は反省している。謝る気にはなれないが、次に顔を合わせた際は、少しでも明るく振る舞おうと――心構えていたのだ。

 少し残念な気がしながら、玲奈は真っ赤なドレスに着替えた。


 この日も客の入りは『平日の夜』といった具合だった。それほど忙しくはなく、玲奈としてはまだ穏やかに業務をこなしていた。この業務に慣れてきたこともあった。

 だが、ある客の登場で平穏は崩れる。


「いらっしゃいませ。おとぎの国の道明寺領へ、ようこそ」


 出入り口の扉が開き、玲奈は駆け寄った。

 現れたのは、長い黒髪の女性ひとりだった。フリル襟が印象的な、紫色の長袖ワンピースという格好よりも――気だるさと荒々しさが入り混じった独特の雰囲気を、玲奈は肌でヒリヒリと感じた。

 精神的に病んでいそうな人物を、ふたりと知らない。以前も客として訪れ、茉鈴が相手をしていた。

 深い紫色の花が、玲奈の頭に浮かんだ。

 そう。茉鈴から、スミレと呼ばれていた女性だった。

 玲奈は一気に嫌悪感が込み上げるが、表情には出さず、なんとか笑顔を作った。


「茉鈴おる? あー、ちゃうな……えーっと……マーリンやっけ?」


 スミレは開口一番、玲奈にそう訊ねた。

 茉鈴の源氏名を覚えていることに、玲奈は内心で驚く。思いもよらぬ、良い出だしだ。このままマーリンを呼んで引き継げたなら、どれほどよかっただろうか。


「すいません……。マーリンは今夜、現実世界に出払っています」

「は? 現実?」

「……お休みということです」


 このカフェのコンセプトを理解する気は無いのだと諦め、玲奈は小声で説明した。

 茉鈴が居ないとなり、スミレが不機嫌な様子を見せられることは覚悟した。そして、今夜はそのまま帰ることを願った。


「まあ、ええわ……。せっかく来たんやし、一杯だけ飲もか」


 しかし、玲奈の期待は虚しく、事態は悪い方へと向かった。


「かしこまりました。こちらへどうぞ」


 玲奈は作り笑顔で、スミレを店内へ通す。

 今はカウンター席もソファー席も、両方が空いていた。だが、カウンター席の正面にあるキッチンに立つ――メイドの格好をした春原英美里は、首を横に振りはしないが、拒否の視線をちらりと玲奈に向けた。

 玲奈はアイコンタクトに気づかない振りをして、カウンター席に連れて行きたかった。しかし、英美里と目が合ったので、それは通じない。後からハリエットに怒られるかもしれないが、仕方なくソファー席に案内した。


「マティーニちょうだい」


 スミレは席に座るとすぐ、メニュー表を見ることなく注文した。


「かしこまりました。マティーニですね……。少々お待ち下さい」


 この店独自のメニュー名では『かしこい王様』となる。だが、それで復唱すると皮肉になる可能性があるため、玲奈は敢えて使わなかった。

 いや。そもそも、この女性は二十歳以上なのだろうか?

 玲奈には以前から、そのような疑問があった。幼く見える原因のひとつに、服装がある。しかし、それを除いたとしても、玲奈の直感から自分より年上とは思えなかった。

 本来であれば、この場面でこそ年齢確認を行わないといけない。行わずに事後で二十歳未満と判明した場合、アルコールを提供した店側に責任が生じる。

 とはいえ――そうは理解しても、玲奈には到底できなかった。この女性の機嫌を損なうことを、何よりも恐れた。

 席を立ち去りキッチンへと向かうと、注文内容を英美里に伝えた。


「今日は災難だね」

「そうよ。まったく……今日に限って休むなんて、ありえないわ」


 どの客にも聞こえない小声で、玲奈は茉鈴への愚痴を漏らした。もっとも、茉鈴の悪意でこの状況になったわけではないだろうが。


「まあ、ここは領主様に頑張って貰おうよ」


 英美里はミキシンググラスをバースプーンで撹拌しながら、ソファー席を眺めた。

 玲奈も連れられると、ハリエットがにこやかにスミレへ会釈していた。ハリエットの内心は決して良くないだろうが、いつもと全く変わらない接客の様子に、玲奈は凄いと思った。

 とはいえ、スミレの気だるそうな態度も、やはり変わらない。つまり、機嫌が良くなることも、悪くなることも無い。茉鈴が居なくとも、ひとまず何とかなりそうだと感じた。

 英美里がミキシンググラスから透明な液体をショートグラスに注いだ後、オリーブを沈めてマティーニが完成した。


「それじゃあ――これお願いします、レイナ様」

「ええ。ありがとう」


 玲奈はグラスをトレイに載せ、ソファー席へと運んだ。

 ハリエットとどのような話をしているのか、わからない。スミレの隣に座るハリエットは、口元を手で隠し、上品に笑っていた。


「お待たせしました。こちら……マティーニとなります」


 店主が居る手前、どちらのメニュー名を使うか悩むが、客側を尊重した。

 玲奈はグラスをスミレの前に置き、そのまま立ち去るはずだった。


「あんた、もうええわ。ありがとうな。ちょっと……女王様と喋らせてくれへん?」


 スミレは隣に座るハリエットに言った後、玲奈を見上げた。

 赤い目元が微かに動いた。不気味な笑みを向けられた。

 玲奈は一瞬躊躇い、ハリエットに横目を送る。ハリエットから、不安げに見上げられるが――玲奈は小さく頷いた。

 まさに、衝動的とも言える。どうしてこのような行動に出たのか、玲奈自身わからなかった。

 実際のところは、このままでは埒が明かないと観念したのであった。スミレと顔を合わせるのは、これが最後とも限らない。今後来店した際も、茉鈴やハリエットに助けを乞うのは嫌だ。逃げるような真似は嫌だ。いわば、苦手意識を克服しようとしたまでだった。


「では、わたくしはこれぐらいにして……レイナ様、よろしくお願いしますわ」


 立ち上がったハリエットから、去り際に肩をぽんと叩かれた。あまり令嬢らしくない行動だと玲奈は感じたが、その分心強かった。

 五分も相手をすれば充分だと思った。それに、もし何かあった場合、ハリエットの支援も期待できる。玲奈は小さく一呼吸ついて、スミレの隣に座った。

 スミレはマティーニのグラスを持つと、アルコール度数が高いにも関わらず、一口で半分ほどを飲んだ。そして、細い脚を組んだ。

 玲奈は、居心地の悪い圧を感じる。これまで他にも高圧的な客は居たが、比にならなかった。だが、ここで退いてはいけないと自分に言い聞かせた。


「改めまして、はじめまして。レイナと申します」


 この店では、気品ある女王なのだから――玲奈は、凛々しい笑みを浮かべて挨拶した。


「へぇ。レイナさん……か。あんたとマーリンは、どんな関係なん?」

「あの方は、王宮魔法使い……わたしの側近です」


 あくまで演者として、設定を口にする。女王を演じるのは今でも恥ずかしいが、余計なことを考えずに済むという点では楽だった。


「なるほど。側近ちゅうぐらいやったら、あいつのこと詳しいんやろうなぁ」


 玲奈は、隣に座る茉鈴から顔を覗き込まれた――嘲笑う表情で。

 とぼけた質問は、明らかな挑発だ。『魔法使いマーリン』ではなく『安良岡茉鈴』を指している。そして、こちらが彼女のことを詳しくないと見透かされている。

 焦り、そして怒りが玲奈の中で入り混じるが、堪えた。


「ええ……。それはもう、誰よりも詳しいですよ」


 マーリンの数少ない設定を把握しているという意味では、嘘ではない。しかし、玲奈は虚勢ブラフの意図で、なるべく涼しい表情を作って頷いた。

 その態度に、スミレは動じなかった。玲奈の顔を覗き込むのをやめて、ソファーに浅く座った。


「あいつはクズや。とんでもない極悪人やで」


 背後に大きくもたれかかり、天井を仰いだ。

 ぽつりと漏らした言葉に、玲奈は一瞬共感した。だが、極悪人は言い過ぎのように感じた。


「うちの大切なもんを、メチャクチャにしていきよった……」


 淡々とした口調は、まるで他人事のようだった。だから、玲奈は茉鈴が加害者であると、今ひとつ信じられなかった。

 首を起こしたスミレから、視線を向けられた。


「せやから、うちはあのアホを絶対に許さへん」


 玲奈は、背筋に悪寒が走るのを感じた。

 言葉だけでは、強い恨みに聞こえる。しかし、スミレの昂った声と――不気味な笑みは、まるで何かを楽しんでいるようだった。

 少なくとも、憎悪や怒りとは別物に感じた。実際どのような感情なのか、玲奈には到底理解できない。狂気じみたそれを、理解したくない。

 茉鈴とスミレの間に何か揉め事があったのは間違いない。だが、詳しくわからない今、スミレの態度からも、まだ同情はできなかった。


「でしたら……わたしからも、きつく叱っておきます。申し訳ありません……」


 だから、そのような相槌がこの場では無難だと判断した。スミレに詳細を求めたところで、彼女の視点から『事実』が伝わるとは思えなかった。

 スミレは小さく笑うと、マティーニの残りを飲み干した。


「あんたが謝ってもなぁ……。まあ、せいぜい気をつけや」


 そして席を立ち、玲奈の肩を叩いた。

 玲奈は、警告とも気遣いとも捉えられなかった。挑発したかと思いきや、被害者じみた告白をして――スミレの意図が、最後までわからなかった。

 この日は結局、それからすぐにスミレは会計を済ませ、店を後にした。


「ありがとうございました。またのお越しを、お待ちしております」


 玲奈にとって、結果的には『何事もなく終わった』と言える。

 しかし、スミレに対しまだ苦手であり――わからない部分がさらに増えたため、釈然としない気持ちで見送った。

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