第15話

「ホテルに泊まった夜……どうして何もしてこなかったんですか?」


 テーブルにふたつのマグカップを置いた茉鈴を、玲奈は見上げた。

 茉鈴は座椅子に座る。玲奈が置いたミルクキャンディの袋からひとつ取り出し、口に入れた。


「だって、そういう約束だったじゃん」


 踏み込んだことを訊ねた自覚は、玲奈にある。だが、茉鈴は動揺することも苦笑することも無かった。

 回答自体は、何らおかしい内容ではなかった。終電を逃した状況で、事前に取り決めを交わして足を運んだ。茉鈴はそれを守ったまでだ。

 訊ね方が悪かったと、玲奈は思う。知りたいのは――茉鈴が実際のところ『ホテル』をどのような用途で考えていたのか、だ。


「そういうキミこそ……どうして何もしてこなかったの?」


 再度訊ねようとしたが、茉鈴から訊ねられた。

 玲奈は一瞬、内容が理解できなかった。だが、頭に思い浮かぶのは、シャワーを終えて戻った時の、茉鈴の寝顔だった。


「ちょっと待ってください。……起きてたんですか?」


 冷静に考えれば、茉鈴が別の事を訊ねている可能性は充分にある。

 いや、何かをしようにも、機会が無かった――寝込みを襲う以外は。だから、それを指しているのだと玲奈は思った。

 茉鈴が寝た振りをしていたと思うと、どうしてか焦った。結局のところ、あの夜は何もしていない。玲奈の記憶にある限り、後ろめたい言動は無かったはずだ。それなのに、無性に恥ずかしくなった。


「眠かったから、すぐに寝ちゃったよ。でも、目が覚めたら、キミも普通に寝てたんだもん……可愛い寝顔でさ」


 茉鈴が小さく微笑む。

 玲奈は無防備な寝顔を見られたのだと思い、恥ずかしさに拍車が掛かった。今すぐ、この場から逃げ出したいぐらいだ。


「え? そこ、恥ずかしがるところ? もう、裸だって散々見てるんだよ?」

「そういうこと、言わないでください!」


 赤面しているのだろうか。茉鈴にからかわれ、玲奈は慌てて制止した。

 茉鈴の表情から笑みが消える。だが、制止に従ったとは思えない。笑顔でなくとも――眠たげな垂れ目は穏やかで、とても落ち着いているように見えたのだ。


「さて……。いい加減、はっきりさせとこうか」


 茉鈴なりに真剣な様子なのだと、玲奈は察した。恥ずかしさは消えて無くなり、茉鈴と改めて向き合う。


「キミは一体、何がしたいわけ? 悪いんだけど、私には一ミリも理解できないよ」


 その疑問を抱くのは当然だ。

 身体だけの関係だったのに、恋人になって欲しいと告白するが振られ、一切の繋がりを断った。それから一年後、アルバイトの同僚となった。他人でいようと提案した。しかし、アルバイト上でだけ距離を詰めようとするどころか、こうして自宅にまで押しかけている。試験の相談とはただの口実だと、気づかれているだろう。

 これまでを振り返ると、無茶苦茶な言動だと玲奈も思う。相手をする側が怒っても無理はない。

 しかし、幸いにも茉鈴から怒りは感じられなかった。純粋な疑問として、首を傾げているようだ。


「わたしは……」


 玲奈は頭の中を整理する。

 先ほど話した『ホテル』の一夜で、性欲が疼いたから、この部屋を訪れた。嫌いだと宣言しておきながら、実に勝手な行動だ。

 一年振りにこの部屋を訪れ、やはり心地良かった。だが、一年前とは違った。

 ただ身体を重ねるだけではない。ただ側に居るだけではない。一緒に食事をして、くだらない会話をして、楽しかった。

 そのような関係を、茉鈴に望む。言うならば――


「わたしは先輩と、お友達になりたいです」


 玲奈は正直に話した。

 真っ直ぐ見つめるが、茉鈴はどこか深刻そうに、小さく苦笑した。


「……え? ちょっと待って。私達、友達じゃなかったの? ファミレスで、私言ったよね?」


 ――それってつまり、私と友達になってくれる、ってこと?


 確かにそのように言われ、確かに頷いた。

 思えば、あの時は納得しないまま軽々しく受け入れたのだった。茉鈴がそう感じるのは当然であり、実に無責任な言動だった。

 だが、今は違う。


「い、今からちゃんとしたお友達です! ていうか、わたしそれっぽい態度を全然取ってなかったんですから、疑問に思ってください!」

「いやー。キミはどの友達にも、あんな感じなのかと……」

「そんなわけないでしょ!」


 茉鈴がどこまで本気で言っているのか、わからない。玲奈は調子が狂いそうになり、呆れた。

 そんな玲奈に、茉鈴が小さく微笑みかける。


「それじゃあ……念のため、確かめてもいいかな? キミの言う『友達』って、どういう意味?」


 こういうところはしっかり詰めてくるんだと、玲奈は思った。

 確かに、これは適当に済ませてはいけない。ふたりの間で、今度こそ擦り合わせを行うべきだ。

 そう理解するが、こちらに言わせることが――茉鈴にそのような意図があるのかわからないが、なんだか卑怯に感じた。


「一緒にご飯食べたり、一緒に遊んだり……そういうこと、したいです」


 玲奈は俯き気味で、歯切れが悪く漏らす。

 決して嘘ではない。望んだものを、正直に挙げたに過ぎない。

 それはきっと、一般的な『友達』の像だろう。茉鈴が思い描いていたものも、これに近いはずだ。


「……それだけ?」


 茉鈴は穏やかな笑みを浮かべたままだった。表情は微動だにしない。

 だが、玲奈には薄笑いのように見えた。そして、茉鈴の意図を理解した。

 やはり、こちらに言わせようとしているのだ。卑怯であり、腹立たしくあり――嬉しくもあった。

 確かに、玲奈の求める『友達』は、先ほど挙げただけではない。一般的な像とは、少し異なる。


 玲奈は答える代わりに立ち上がり、髪の毛を束ねていたヘアゴムを外した。

 座椅子に座る茉鈴に近づくと、抱きついた。その勢いで床に押し倒し、茉鈴の唇に自分のものを重ねた。

 テレビとエアコン、ふたつの雑音が耳に触れる中で、一年振りに柔らかな感触を味わった。

 床で横になったまま、茉鈴に抱きついていた。玲奈は顔を離した。


「普通、友達じゃキスはしないよね?」


 自分の乱れた髪の毛の間から見える――茉鈴の眠たげな垂れ目は、全く驚いていない。

 まるで、想定通りに事が運んでいるかのような余裕が、玲奈に見受けられた。

 茉鈴が着ているTシャツは、何度も洗濯をするほど使い古したのか、伸びているようだった。よれた襟から、乳房が僅かに覗かせていた。


「するんですよ……わたし達は」


 玲奈は自分の髪の毛をかき上げ、茉鈴の垂れ目を見つめた。

 確かに世間一般的な『友達』ではないが、間違いなく互いの望みは一致している。そう確信しているにも関わらず、ひどく臆病になっているのが、自分でもわかった。熱いものが瞳の奥から込み上げ、今にでも溢れそうだ。

 そう。一年前は自らの愚かさから、腕の中にあるものを失ったのだから。


「なるほど……。そっちも込みで『友達』なわけだ?」


 この不安な気持ちは、茉鈴に伝わっているだろう。だが、特別な優しさは返らなかった。

 玲奈の前に『壁』が立ちはだかる。ここを超えれば再び失うと、嫌でもわかる。

 それを理解したうえで、玲奈は頷いた。


「はい。それでいいですか?」


 茉鈴は、つまらない理由で癖毛のショートヘアを維持していた。アルバイト上だけでも『友達』になると言った時は、子供のように無邪気に喜んでいた。

 それなのに、懇願するのはこちら側だった。玲奈は良くも悪くも、茉鈴の余裕を感じた。

 かつても――そして現在も、これに惹かれる。掴みどころの無い飄々とした大人であって欲しい。落ち着いた、大人の態度を見せて欲しい。玲奈は茉鈴に、それらを求める。


 ふと、頭に手を置かれる。頭ではなく、髪の毛を撫でられているのだと理解する。

 これが茉鈴からの返事だった。受け入れられたのだった。

 もう一度、キスをする。次は舌を絡ませる。ミルクキャンディの甘い味がした。

 そして、互いの衣服に手が伸びた。床からベッドに移るのは、もう少し後になる。


 一年前とは少し違うが『友達セフレ』というかたちに、再び収まった。

 今日この部屋に訪れた目的を果たしたという意味では、玲奈はひとまず満足だった。

 それだけでよかった。


 再び、恋心が芽生えないだろうか?

 一年前はどうして振られたのだろうか?

 茉鈴は一体、何を考えているんだろうか?


 疑問や不安が生まれるが、玲奈は敢えて見ない振りをした。

 茉鈴と取り決めを交わしたわけではないが、一年前に触れないことは暗黙の了解だ。

 今度こそ、踏み込んではいけない。一定の距離を保ち、互いに都合の良い存在でなければならない。そのために、余計なことを考えてはいけない。

 いや、一年振りの心地良い快楽に包まれた今、玲奈にそのような余裕は無かった。


「嬉しいよ、玲奈……。私達、仲良くしようね」


 行為をひとしきり終えた後、玲奈はベッドで茉鈴に頭を撫でられた。柔らかい笑顔に包まれていた。

 茉鈴は口にしていないが『今度は』と聞こえたような気がした。


「はい……」


 玲奈は、ぼんやりと頷いた。



(第05章『一年振りのキス』 完)


次回 第06章『優しくされる理由』

玲奈はアルバイトで、ひとりの女性客の相手をする。

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