第14話

 七月五日、水曜日。

 この日、玲奈が受講する講義は二限目だけだった。その後、学生食堂で友人らと昼食を済ませ、午後からはひとりで学校の図書館に向かった。

 一部の友人らは、グループで試験勉強を行っている。しかし、玲奈はひとりの方が捗るので、表向きは申し訳なく参加を断った。

 また、程よい緊張感が持てるせいか、場所は自宅の賃貸マンションより図書館の方が捗った。

 勉強で図書館を使用するようになったのは、二年生に進級後――キャンパスが離れてからだった。キャンパスそれぞれに図書館が併設されているため、ここで『振られたセフレ』と遭遇することが無いからだ。


 静かな館内の、個席の学習机で試験勉強をすること、一時間。午後二時を過ぎた頃、玲奈は一度外に出て水を飲もうと、立ち上がった。

 普段なら、ペットボトルの飲料水と貴重品を持って席を離れる。だが、この日は机に広げた教材を全て仕舞い、鞄ごと持って外へ出た。

 そして、キャンパス間を走る連絡バスに乗り込んだ。向かう先は、昨年まで通っていたキャンパスだった。

 玲奈はバスに揺られながら、水を飲んで一息つく。


「たまにはいいわよね……」


 勉強の環境を、気分転換で変えるつもりだった。

 後先考えない衝動的な行動に、自分らしくないと玲奈は思う。しかし、それだけだ。ぼんやりと、窓の外を眺めていた。

 ある人物の顔が、脳裏に浮かぶ。つい先日、同じベッドで寝たことを――あの夜の確かな存在感を、思い出す。

 自分の中で何かが込み上げるのを感じるが、抑え込んだ。

 バスが到着し、午後三時頃に別の図書館へ入った。

 迷わず、昨年利用していた『定位置』に向かう。空いていたので、ひとまず鞄を置いた。

 そして、個席の学習机から、斜め向かいのグループ用の大きなテーブルを眺めるが――誰も居なかった。それだけが唯一違う景色であり、懐かしさは無かった。


「……」


 玲奈はそれを確かめると、着席して勉強を始めた。

 それから二時間は、あっという間に感じた。それだけ集中していた。

 午後五時を過ぎ、閉館の放送が館内に流れる。玲奈は席を立ち――結局、最後まで現れなかったのだと理解した。

 勉強がとても捗ったというのに、達成感も満足感も無かった。それどころか、遠くからの陽に照らされ、焦燥に似た物寂しさが込み上げる。

 ようやく梅雨が開けようとしているのか、今日は久々に終始晴れていた。この時間でも外はまだ明るく、蒸し暑い。

 今年の夏は特に暑くなりそうだと、玲奈は思った。いや、既に暑苦しく感じるのは、きっと髪型のせいだと気づいた。去年はばっさりと短く切り、まだ涼しかったのだ。

 その代わり、醜いカエルになったかのような、惨めな気持ちを抱えていた。


 玲奈は日傘を広げると、連絡バス乗り場ではなく、校外へのスーパーマーケットへ歩いた。昨年、近くの賃貸マンションで生活していた頃に、よく利用していた店だ。

 薄切りの豚ロース、レタスと貝割れ大根とミニトマト、そして醤油ドレッシングを購入した。

 それらを詰めたエコバッグを手に、向かった先は――古びた二階建てアパートだった。

 時刻は午後六時前。夕陽が眩しかった。

 一年振りに訪れてたが、何も変わっていないように見えた。やはり、女子大生が暮らす所とは、とても思えない。

 玲奈は屋外の階段で二階へと上がり、一室のブザーを鳴らす。


「はーい。……うわっ!」


 扉を開けた安良岡茉鈴が、大袈裟に驚いた。

 茉鈴のそのような反応を、余裕の無い表情を、玲奈はおそらく初めて目の当たりにした。玲奈自身、ビクリと驚いた。


「えーっと……いきなり、どうしたの?」


 落ち着いたのか、苦笑する茉鈴から訊ねられた。

 玲奈はエコバッグを掲げて見せた。


「……ご飯一回、って言いましたよね?」

「え?」

「晩ご飯食べさてあげますから、共通科目で去年何が出題したのか、教えてください!」


 あくまでも、口実に過ぎなかった。

 どうしても茉鈴に会いたいがために訪れたことを、本人にはとても言えない。


「は、はい」


 慌てて扉を開けた茉鈴から、玲奈はようやく部屋の中へ上げられた。

 テレビ、テーブル、座椅子、そしてベッド。化粧品や教材が床に散らばり、エアコンはうるさく動き――一年前と何も変わっていなかった。

 部屋に入れるのを渋ったのは、もしかすると誰か『先客』が居るからだと、疑った。だが、六畳ほどの狭い部屋には、他には誰も居なかった。


「あれ? 今日、私バイト休みだって知ってた?」


 Tシャツとショーツだけの格好をした茉鈴が、振り返る。


「いいえ。知りませんでした」

「いや……もしも私居なかったら、どうしてたの?」

「その時は、その時です」


 冷静に考えれば、茉鈴が部屋に居る確証は無かった。それどころか、アルバイトに行っている可能性があったことに、今気づいた。

 一年前は、いつ訪れても必ず居た。強いて言えばそれが理由だが、やはり本人には言えなかった。

 そもそも、このような会話も――いや、あの頃は会話自体が無かった。言葉を交わさずとも、側に居るだけで良かったのだ。

 だから現在、この部屋で何気なく喋っていることに、玲奈は違和感があった。


「へぇ。キミはもっと冷静で落ち着いてると思ってたから……なんか意外だよ」


 茉鈴が座椅子に座る。

 皮肉や嫌味にも、幻滅にも、玲奈は聞こえなかった。何の意図も無い、ただの相槌に過ぎない。


「わたしのこと、何も知らないくせに……」


 だが、玲奈は俯き、茉鈴に聞こえない程度の小声を漏らした。


「え? なに?」

「何でもないです! キッチン借りますからね!」


 玲奈は強引に話を切り上げると、ヘアゴムで長い髪を束ねた。

 とても狭いキッチンで、鍋――小さなアルミ製のものがひとつあった――に水を汲み、コンロの火にかけた。沸くまでの間、エコバッグから食材を取り出し、シンクで野菜を洗った。


「いやー、助かったよ。ちょうどお腹空いてきてさー、晩どうしようか考えてたんだよね。……ちなみに、何作ってんの?」

「冷しゃぶサラダです」


 アルバイトの際、勉強を教えて貰うなら『ご飯一回』としか茉鈴から聞いていない。スーパーマーケットの惣菜や飲食店の持ち帰り品で充分だが、玲奈なりに茉鈴の健康面を少し気遣ったまでだ。


「うーん……。折角なら、お米食べたかったなぁ。ほら、生姜焼きなんてさ、お茶碗二杯はいけるよね」

「知りませんよ! リクエストあるなら、もっと早くに言ってください!」

「えー。いつの間に、リクエスト受け付けてたの?」


 背後からのにこやかな声を適当にあしらいながら、玲奈は切れ味の悪い包丁で野菜を切った。

 不健康な食生活を送っていると白米のすすむ料理が食べたくなるのだと、一応は参考になる――今後に活かせるのかは、わからないが。

 ふたつの皿に野菜を盛ると、沸いた鍋で豚肉を茹でようとした。


「ちょっと! どうして、みりん無いんですか!?」


 豚肉の臭みを取るため、湯にみりんを入れようとするが、どこにも見当たらない。確認できる調味料は、塩と砂糖、チューブの生姜とにんにく程度だ。


「いやー。使わないからねぇ。そうだ――ビールならあるよ」

「代わりになるわけないでしょ!」


 料理をしない女性の部屋にみりんが無いことも、参考になった。玲奈は仕方なく、豚肉をそのまま茹でた。

 小さな冷蔵庫には、缶ビールと缶チューハイ、麦茶の入った水冷筒等、飲み物しかない。冷凍庫には氷が大量にあり、茹でた豚肉を氷水に通すことは苦労しなかった。


「ていうか……お米食べたいって言う割には、お米どこにもありませんよね?」

「パックご飯の買い置きなら、棚にあるよ。レンジでチンするやつ」

「それコスパ最悪なんで、安い炊飯器とお米買った方が全然いいですよ」

「へー、そうなんだ」


 玲奈は料理が得意というわけではないが、なるべく自炊を行っている。だらしないひとり暮らしを送りたくないまでだ。だから、茉鈴のだらしなさを改めて目の当たりにして、呆れた。

 野菜の上に豚肉を載せ、最後に醤油ドレッシングをかける。冷しゃぶサラダが完成した。


「わぁ。生姜焼きには絶対に勝てないって思ってたけど、意外と美味しそうだね」

「失礼なこと言ってないで、食べてください」


 ふたつの皿の他、麦茶を注いだグラスまでも玲奈が準備し、狭いテーブルに並べた。玲奈は座り、ふたりで食事を始めた。


「うん。さっぱりして、超美味しいよ。ありがとう」


 満足そうな声の通り、茉鈴は勢いよく食べた。

 玲奈はさほど空腹ではないため、自分の皿から半分ほどを譲った。それも茉鈴がぺろりと平らげ、料理した甲斐があったと思った。


「ふー……。ごちそうさま。久しぶりに、まともな食事した感じ」

「おそまつさまでした」


 玲奈も食べ終えると、茉鈴が食器をキッチンへと運んだ。

 水道の音が、玲奈の耳に届く。後片付けは茉鈴が行うのだと玲奈は理解し、座ったままテーブルでぼんやりとした。

 時刻は午後六時四十分。テレビに情報番組が映っていたが、まともに観る気にはなれなかった。


「ちょっとは自炊したらどうですか? 特に、野菜はちゃんと食べた方がいいですよ」

「面倒だから、玲奈が毎日作ってよ」

「なんで、そうなるんですか……。嫌ですよ」


 玲奈はいきなり茉鈴の部屋に押しかけ、一緒に食事、そして他愛もない会話をした。

 一年前とは全く違う。現在の茉鈴は、アルバイトの同僚であり、かつ一応は学校の先輩にあたる。

 いや、今日のやり取りを最も適切に言い表すなら『友達』だと、玲奈は思った。あの夜、ファミリーレストランで茉鈴からそのように言われたが、釈然としなかった。だが、今になってようやく、しっくりときた。かつての『セフレ』からこのように様変わりしたことが、不思議だった。

 アルバイト先に客として現れたことも、同僚になったことも、嫌だったのに――いつの間にか、適応していた。

 そして、性欲が込み上げだ結果、こうして訪れた。だが、今はとても落ち着いていた。否、ぼんやりしていた。

 ふと、コーヒーの匂いが漂ってきた。茉鈴が準備をしているのだと理解した。

 不味いブラックコーヒーを思い出す。懐かしくもある。


「ここに来る前、図書館で勉強してたんですけど……先輩、居ませんでしたよね。どうしてですか?」


 玲奈はテレビを眺めたまま、キッチンの茉鈴に訊ねた。


「キミが来なくなってから、私も行かなくなった」


 茉鈴がテーブルに、ふたつのマグカップを置いた。黒い液体から、湯気が上っている。

 玲奈は自分の鞄から、封の開いたミルクキャンディの袋を取り出し、テーブルに置いた。

 そして、座ったまま茉鈴を見上げた。


「ホテルに泊まった夜……どうして何もしてこなかったんですか?」

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