第05章『一年振りのキス』

第13話

 七月四日、火曜日。

 暦は七月になるが、まだ梅雨は明けず、鬱陶しい天気が続いていた。この日も、朝から雨が降っていた。

 蒸し暑く、玲奈は何もせずとも汗が浮かぶ。


「お疲れさまです」

「あらー、レイナ様。本日も、よろしくお願いしますわー」


 午後四時過ぎ、玲奈はアルバイトのため、おとぎの国の道明寺領を訪れた。

 今日のシフトは他に誰が居るのか、確認していない。だが、どうやら一番乗りのようで、まだハリエットしか居なかった。

 外からエアコンの効いた店内に入ると、汗が引く。火照った身体が冷やされ、気持ちいい。

 玲奈が着る女王の赤いドレスは、生地がまだ薄いため、店内では暑さがそれほど気にならない。しかし、ハリエットの黄色いドレスは凝ったデザインかつボリュームがあるため、玲奈は見ているだけで暑かった。それでも汗をかかないハリエットから、真似したくないプロ意識を感じた。

 玲奈はスタッフルームのパイプ椅子に座り、水を一口飲んだ。着替えと清掃――準備までは、まだ時間がある。鞄から、クリアファイルを取り出した。その中には、玲奈にとって大事な書類が入っている。


「玲奈ちゃん、やっほー」

「お疲れさま、英美里」


 書類をぼんやり眺めていると、春原英美里が姿を見せた。


「試験、もうすぐだよね。あたしも、そろそろ勉強始めないとなぁ」


 英美里はロッカーに荷物を置き、苦笑した。

 暑い季節になり、一般的な大学で前期の期末試験が迫っている。玲奈は約二週間後となる。

 だから、空き時間に試験勉強をしていると思われたのだろう。だが、それは勘違いであり、玲奈は勉強のためのレジュメを眺めているのではない。


「試験も近いんだけど……これ、交換留学の書類よ」


 そう。七月に入り、学校指定の交換留学の応募が始まった。これに選ばれたなら、来年度に短期海外留学へ行く運びとなる。

 希望先にもよるが、倍率は毎年高いようで、簡単には選ばれない。玲奈にとって、おそらく大学生活で最も大きな行事となるだろう。

 選抜には、十月に行われる筆記試験と面接も含まれる。そして、それらと同等の比重を占めるのが、今回提出する願書だ。


「志望動機が超重要だから、よーく考えないと」


 留学したい理由だけではない。学びたい内容と、それをどう活かしたいかまでを伝え、学校側を説得しなければいけない。

 とはいえ、玲奈は正直に、外資系金融企業で働きたい旨を書くつもりだ。どのように話をまとめるかで、悩んでいた。


「へぇ。大変そうだね。あたしには絶対無理」

「ほんと、頭がパンクしそうになるわよ……。けどまあ、時間あるから、とりあえずは目先の試験から」


 願書の受付は九月までだった。学校側の意図通り、玲奈は期末試験終了後の夏季休暇に準備するつもりだ。


「玲奈ちゃんも、この時期はシフト減るよね」


 玲奈はクリアファイルを仕舞い、英美里と壁のホワイトボード――アルバイトのシフト表を眺めた。

 この店は、二週間先までの出勤希望日を従業員がホワイトボードに記入する。それをハリエットが調整し、最終的に決定する流れだ。

 玲奈は基本的に週三日勤務だが、試験のため今週は二日、来週は一日のみだ。英美里の欄を見ると、同じ程度だった。

 この店に、従業員は玲奈を含め九人居る。玲奈は全員を知らないが、露骨に減っているのは玲奈と英美里のみだった。この店では、大学生のアルバイトが少数派なのだと思った。


「安良岡さんは、余裕なんだね」


 そう。どういうことか茉鈴も『多数派』の側で、今週と来週共に四日ずつ申請していた。

 学部は違えど、試験の日程は同じだ。玲奈はホワイトボードを見る限り、とても同じ学校の生徒とは思えなかった。


「もう、諦めてるんじゃない?」


 率直な感想がそれだった。玲奈の中でだらしない茉鈴は、学生として落ちこぼれの印象があり、進級すら危ういと思った。留年を見据え、貯金確保のためアルバイトに精を出している可能性がある。

 そうだとしても、玲奈は呆れるしかなかった。茉鈴の生き方など、知ったことではない。口を挟む権利は無いのだ。


「ちわー。お疲れさまでーす」


 そのように話していると、スタッフルームに茉鈴が顔を出した。シフトが重なった日なのだと、玲奈はこの時初めて知った。

 茉鈴と顔を合わせたのは、先週の木曜日――終電を逃して『ホテル』で一泊して以来だった。

 結局、あの夜は玲奈の知る限り、就寝以外に何もなかった。翌朝目を覚ますと、いつの間にか茉鈴がシャワーを浴びていたぐらいだ。無料サービスの不味い朝食をふたりで食べ、玲奈は一度帰宅した。

 玲奈の望んだ結果に終わったはずだった。だが、どうしてか腑に落ちない気持ちで、二限目の講義を受けた。

 茉鈴の顔を見たからだろう。玲奈は一連と共に、なんだか複雑な気分も思い出した。


「あれ? 安良岡さん、今日はヘアセットしてます?」


 英美里が茉鈴に訊ね、玲奈も気づいた。

 今日も雨で湿気が高いにも関わらず、茉鈴の髪の毛が全く広がっていないわけではないが――普段の雨の日に比べ、抑え気味だった。


「うん。最近のスプレーって、凄いよね。バイト上がるまでは、キープしてくれそう」

「それじゃあ、今日はフード被らなくてもいいですね!」


 嬉しそうにしている英美里に微笑みかけ、茉鈴が横目で玲奈を見た。

 玲奈は思わず、視線を外した。そして、深夜のファミリーレストランで髪の毛のセットに触れたことを思い出す。


 ――バイトの給料出たら、考えるよ。


 まだ給料は出ていない。それにも関わらず、まずはスプレーを使用したことが、玲奈の中で僅かに好印象だった。

 いや、当然のマナーだと、自分に言い聞かせた。わざわざ褒めることではない。


「まあ……いいんじゃないですか?」


 そろそろ着替えようと、玲奈はパイプ椅子から立ち上がった。

 笑顔のままの茉鈴は、皮肉と受け取っていないようだ。玲奈は溜め息をつきたくなった。


「マーリンさん、ちょっとよろしいですか? 確認したいことがあるんですけども」


 ふと、スタッフルームの扉が開き、ハリエットが姿を現した。


「なんですか? 領主様」

「このシフト、本当に大丈夫ですの? 貴方、大学生でしょ? 試験は?」


 ハリエットはホワイトボードまで歩き、茉鈴の欄を指さした。

 やはり、常識的に考えれば、鵜呑みに出来ない内容だ。アルバイトのシフトを組む経営者なら尚更だと、玲奈は思った。


「はい、これで全然大丈夫ですよ。試験は余裕っす」

「は?」


 茉鈴のヘラヘラした返事に、ハリエットよりも玲奈が反応した。

 口調と態度から、落第生として諦め気味のようには聞こえなかった。言葉通り、本当に余裕なのだと感じた。

 そう。玲奈の抱いていた印象とは、まるで真逆だ。だから、到底信じられない。


「一年と二年、単位は出席が厳しいやつ以外――まあ九割方は取ってるよ。早めに卒業単位取って、ラクしたいんだよねぇ」


 茉鈴は玲奈の方を向き、実状を話した。

 玲奈も昨年、一年生時で単位を全てではないが、九割以上は取得している。そのための苦労を知っている。

 自分の通っている学校に少なからず誇りを持っているので、特定の学部だけ難易度が低いとは思えなかった。どの学部も、卒業までの難易度は平等だろう。

 玲奈の知っている茉鈴は、講義にもアルバイトにも怠け、図書館で本を呼んでいる学生だ。一体、いつ勉強していると言うのだろう。


 しかし、勝手な印象を持っているだけだと玲奈は気づいた。

 安良岡茉鈴という人間の本質を知らない。それなのに踏み込もうとした――かつての痛い記憶が蘇る。

 そして、それより以前、図書館で出会った当時の印象も思い出した。余裕のある雰囲気から、自分のような『努力型』ではなく『天才型』だと感じたのだった。

 かつての直感と、これまで茉鈴が嘘をついたことが無い実績から、玲奈は信じざるを得なかった。


「へぇ……。頭良いんですね」

「うん。そうみたい」


 とはいえ、腑に落ちないので再び皮肉を漏らすが、やはり茉鈴に通じなかった。


「でしたら、このシフトで考えておきますわねー。もしも試験落としても、バイトのせいしないでくださいねー」


 シフトの申請に間違いないことを確認すると、ハリエットはスタッフルームを後にした。

 おそらく、茉鈴の成績自体は信じていないどころか、興味が無い。実に彼女らしいと、玲奈は思った。


「賢者マーリン様! あたしの勉強、見てくださいよ!」


 ハリエットが居なくなった途端、英美里が茉鈴に泣きついた。英美里は茉鈴の成績を、素直に信じているようだ。


「学校違うからどのぐらい教えられるかわからないけど、いいよ。ご飯食べさせてくれたらね」

「わかりました。奢らせて貰います。……高級焼肉とか以外で」

「ちょっと! 英美里!」


 玲奈は慌てて止めに入るが、ふたりは予定を組もうとしていた。

 高校までならともかく、大学の専門的な勉強を部外者が教えられるとは考え難い。だが、玲奈はこれまで茉鈴に勉強を教わったことが無いが――勝手な想像から、茉鈴なら可能のような予感がした。少なくとも、食事分の仕事はしそうだと思った。


「玲奈も勉強見てあげようか? ご飯一回で」

「結構です! わたしは真面目にコツコツやりますので!」


 否、こちらにも振られると、理由をつけて食事にたかろうとしているようにしか見えなかった。

 もしも本当に『天才型』だとしても、人間として尊敬できない。勉強を教わったとしても、相性が合わない。

 玲奈は過去に家庭教師のアルバイトをした経験から、そのように思った。

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