第12話
「どうして早く言わなかったんですか!?」
玲奈は諦めて、パスタに手をつけた。皿を空にしてグラスの水を飲んだ頃には、日付が変わっていた。
もう、電車が動いていない時間帯だ。
「いやー。食事を邪魔するのは、悪いかなって……」
終電を逃したのは、玲奈だけではない。自分も同じ状況に置かれたにも関わらず、正面で茉鈴はヘラヘラ笑っていた。
玲奈は、敢えて時間制限を設けて茉鈴を連れてきた。だが、それを忘れ自身までも悠々と食事したことから、落ち度があると理解はしている。
茉鈴がどのタイミングで気づいたのかは、わからない。もしも、玲奈がパスタを注文する以前に時間の警告を受けていたなら、慌てて店を出て、まだ間に合ったはずだ。
根拠は無いが、玲奈は茉鈴が割と早い段階で気づき、意図的に警告しなかった可能性を疑った。
「もし次にこういう状況になったら、食事を邪魔しても全然いいんで……ちゃんと言ってください」
「わかったよ」
「それで……これからどうしましょ」
茉鈴を責めても仕方がないので、玲奈は思考を切り替えた。
帰宅するための現実的な手段としては、タクシーだ。だが、茉鈴とは自宅への方向が違うため、相乗りは出来ない。時間帯や距離から高額になるであろう運賃をひとりで払うのは、とても痛い出費になる。
結果、玲奈は今夜帰宅することを諦めた。どうしても帰宅しなければいけない理由は、見当たらない。
「わたしは明日二限目からなんで、どこかで朝まで過ごします」
「私は……どうだったかなぁ。まあ、玲奈と一緒に居るよ」
「どうしてこの時期にもなって、時間割を把握してないんですか……」
玲奈は呆れるが、頼りない茉鈴でも一緒に居てくれることが、心強かった。繁華街で女ひとりで朝まで過ごすのは、やはり不安だ。
「ネカフェかカラオケにでも行きますか?」
「うーん……。夜中のそのへん……JDふたりでも、なんか怖くない? 個室のようで、個室じゃないしさ」
茉鈴の言う通り確かに危険だと、玲奈は思った。遭遇する確率が極めて低いのかもしれないが――客同士の厄介事が、まだ考えられる店だ。
その意味では、今居るファミリーレストランが安全だ。だが、飲食はもう済んだ。これから何時間も居座るほど、少なくとも玲奈の神経は図太くない。
「ていうか、私普通に眠いんだけど……」
茉鈴が大きくアクビをする。時間帯よりも――そういえばビールをジョッキで飲んでいたと、玲奈は思い出した。玲奈に眠気は無いが、近くでアクビをされると、連れらそうだった。
先程挙げた店は、利用料金を第一に考えたに過ぎない。安全に朝まで寝て過ごすには、ビジネスホテルに行けばいい。だが、割り勘にしても、その金額ならばタクシーで帰宅できるため、本末転倒になる。
「玲奈がよかったらなんだけどさ……安くて朝まで寝れるホテルあるよね」
何気なく漏れた茉鈴の言葉に、玲奈は恥ずかしくなった。
台詞の文面から『ホテル』は間違いなくビジネスホテルを指していないと理解できる。『寝れる』にしても、本来とは違った意味合いに聞こえた。
「ちょっと! 何言ってるんですか!?」
「いや、これでも私は至って真面目だよ。信頼無いのはわかってるんだけど……本当に何もしないって。大きなベッドで朝まで寝るには、丁度いいじゃん。割り勘なら、まだ安い方でしょ」
そう言われるが、眠たげな垂れ目は冗談なのか本気なのか、玲奈にはわからない。
しかし、茉鈴の言うことに納得する面はあった。『ホテル』が優れているのは、料金と安全面だけではない。インターネットカフェやカラオケボックスと違い、ベッドで快適に眠ることも出来る。
ただし、性交を目的とする施設に、かつての身体だけの関係だった人物と入るのが――とても気まずかった。
「……本当に何もしないんですね?」
「何か期待されても……悪いけど、眠すぎて無理だよ」
「期待してませんよ!」
言われた通り、玲奈は茉鈴を信頼していない。一年前といいアルバイトの様子といい、適当でいい加減な人間だと今も思っている。
だが、一年前はあのような結果で終わったが――嘘をつかれたことは、これまで一度も無かった。その点だけは、まだ信用に足りる。
それに、こちらが気まずく感じても、茉鈴はどうでもよさげだった。
「わかりました、信じましょう。……本当に、ガチのマジでナシですからね」
「うん。何も無いから……。それじゃあ、行こうか」
朝まで過ごすにあたり、結局は茉鈴の案が無難だった。玲奈は折れるしかなかった。
会計を済ませて、ファミリーレストランを出る。
雨はまだ降っていた。この時間帯でも、
途中、コンビニでTシャツとショーツを購入し、適当に歩いた。玲奈は茉鈴の背中についていくかたちになった。
この街に『ホテル』はコンビニのような頻度であるため、目当てが無い限りはすぐに見つかる。
頭上の傘に、雨が降り落ちる。ビニール傘を広げ前方を歩く茉鈴がどのような表情なのか、わからない。
言葉は交わらない。互いに無言のまま、ふたりで歩いた。
「ここでいい?」
ふと、茉鈴が立ち止まる。
ユニークさや派手さはなく、シンプルな外観の建物だった。玲奈は特に抵抗が無く、むしろ入りやすい雰囲気に感じた。
茉鈴のことだから、風変わりな所を選びそうだと思っていたが――本来の利用目的ではないのだと、実感した。
「はい。ここでいいですよ」
傘を閉じ、ふたりで入る。
無人のフロントで、玲奈は茉鈴の後方に立ち、手続きを任せた。口を挟むどころか、茉鈴がどの部屋を選ぶのかすら、敢えて視線を外した。茉鈴もまた無言で操作し、意見を求めてこなかった。
玲奈は、ただの宿泊だと割り切ったとはいえ――いざふたりで入ると、やはりとても気まずい。
何か別のことを考えようとしたところ、ある違和感が芽生えた。
思えば、ふたりでこのような施設を訪れるのは、これが初めてだった。一年前は、ずっと茉鈴の部屋を使用していた。
それなのに、茉鈴の手続きは手慣れていた。
いや、茉鈴の実状は知らない。玲奈が勝手に抱いていた印象に対し『意外』だったのだ。
玲奈はそれを責める権利を持っていないどころか、その立場でも無い。むしろ、自分は他の女性とこの手の施設を利用しているので、決して棚には上げられない。
大体、どうして責める必要があるのかと――玲奈は自分に言い聞かせた。
「お待たせ」
鍵を手にした茉鈴と、エレベーターに乗った。七階建ての三階で降り、一室に入った。
おそらく茉鈴は値段で選んだのだろうと、玲奈はすぐに思った。六畳ほどの狭い部屋には、ダブルベッドのすぐ隣に椅子とテーブル、さらに壁にはテレビがあるだけだった。薄暗いという最低限の雰囲気はあるが、部屋の装飾は建物の外観と同様、至ってシンプルだった。
そう。『ホテル』として見た場合は最悪だ。性交ではなく、宿泊の利用が本来の想定とすら思う。誰と訪れても性欲を台無しにするであろう空間から、玲奈はむしろ安心した。
「ここ、一泊五千円だって。ネカフェより安いんじゃない?」
茉鈴の言葉から、玲奈は割勘でひとり二千五百円だと計算する。インターネットカフェで一泊する場合、同じぐらい取られるだろう。個室かつ、ひとつだがベッドがある分、確かにまだこちらが優れている。
「先輩からシャワー使っていいですよ。眠いんでしょ?」
玲奈は椅子に鞄を置き、財布を取り出すと――五百円玉が無いので千円札を三枚、茉鈴に手渡した。釣りは受け取らなかった。
財布と仕舞う際、鞄の中に封が空いたミルクキャンディの袋が見えた。
「私まだ大丈夫だから、玲奈から使いなよ」
「わかりました……。ありがとうございます」
茉鈴はベッドに腰掛け、リモコンでテレビを点けた。アダルトチャンネルが映るが、すぐに違う番組へ変わった。
いつも通りの眠たげな垂れ目なので、本当に大丈夫なのか玲奈にはわからない。しかし、好意を素直に受け取った。
衣服と下着を順に脱ぐ。茉鈴の前で全裸になることに、玲奈は意外と抵抗が無かった。上下別の下着を着用しているが、恥ずかしくなかった。
茉鈴はテレビを眺めているようで、特に視線も受けなかった。だが、薄暗く狭い部屋で、確かな存在感があった。
そんな些細な事で、玲奈は自身の奥底から――何かが込み上げたのを感じた。
茉鈴が本来の使用目的でここに連れてきたのではないかと、疑う。
否、玲奈は少し期待してしまう。
コンビニで購入した下着を持ち、ユニットバスに入る。化粧を落とした後、頭から熱いシャワーを浴びた。
シャワーを先に譲ったのは、年上の立場からだろうかと、玲奈はふと思った。
学部が違うため、茉鈴が先輩だという実感は無い。アルバイトの同僚として、現在は同じ目線だと思っている。
それでも、今回の件にしろ――茉鈴の余裕ある雰囲気は、とても一歳差には感じなかった。自分よりずっと大人に見えた。
かつてはそれに惹かれたのだと、玲奈はぼんやりと思い返しながら、長い髪を洗った。
シャワーで汗を流し、新品の下着を着けると、玲奈は心身ともにさっぱりした。その頃には、込み上げた性欲が、すっかり大きくなっていた。
流されるわけが無いと思っていた。だが、性交を彷彿とさせる環境と、かつての記憶で――身体が疼いた。
理由をつけて茉鈴を振り回していることも、自身が屑だということも、自覚している。
茉鈴が魔法使いだとしても、自分は絶対に女王にはなれない。どう間違っても、高貴な人間にはなれない。
ユニットバスから出た頃には、午前一時になろうとしていた。深夜のつまらないバラエティー番組が、大きなテレビ画面に映っていた。
そして、ベッドでは茉鈴が横になり――小さな寝息を立てていた。
起こすべきかと、玲奈は迷う。だが、寝顔があまりに穏やかであるため、そのまま寝かせた。何かの弾みで目を覚ました際に、シャワーを浴びるだろうと思った。
冷蔵庫から、サービス品である飲料水のペットボトルを取り出した。グラスで飲むと、玲奈はベッドに腰掛けた。
「ばか……」
見下ろした茉鈴の寝顔――唇に触れようとしたが、頬を一度だけ人差し指で突っついた。
全く期待していなかったわけではない。もしも求めてきたら素直に受け入れようと思いながら、ユニットバスから出たのであった。
玲奈はテレビを消すと、ベッドで横になった。大きな熱量に背中を向け、悶々とする気持ちを抑えながら、目を閉じた。
午前二時。すっかり就寝した玲奈は、茉鈴が目を覚まして起き上がったのを知らない。
茉鈴はシャワーを浴びようと、衣服を脱いだ。
「まったく……本当に何もしてこないなんてね」
玲奈の無防備な顔を見下ろしながら、小さな笑みを浮かべた。
「確かに、私からは何もしないって言ったよ? でも、キミには何もするなって言わなかったじゃん」
茉鈴の言い分は、玲奈に届かない。優しい手付きで髪の毛を撫でられたことも、玲奈は知らない。
この環境下にも関わらず、玲奈は深く眠っていた。しかし、夢は見ていない。
あと数時間で、朝が訪れる。
(第04章『短い夜』 完)
次回 第05章『一年振りのキス』
玲奈は茉鈴の部屋を訪れる。
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