第04章『短い夜』

第10話

 六月二十九日、木曜日。

 本格的な梅雨の時期であるためか、朝からの雨は夕方になっても止まなかった。午後四時半、玲奈は傘を閉じ『おとぎの国の道明寺領』に入った。

 やがて、店が開く。玲奈がここでアルバイトを始めてまだ日は浅いが、週末に比べ平日は客の入は疎らだった。今夜は雨が降っていることもあり、尚更だ。

 それでも訪れる客達からは、玲奈と茉鈴を目当てにしている者が多いと感じた。


『新しい魔法使いと女王のカプがいい感じ』


 先週の一件で、そのような評判クチコミがインターネット上で広まったらしい。開店前に、玲奈はハリエットから聞かされた。

 茉鈴からの手助け――こちらに落ち度があったとはいえ、あれは事前に擦り合わせた事由に該当すると、玲奈は思う。過去の事情から避けたい『必要以上の接触』だったので、店主を介して茉鈴を責めることが出来る。

 しかし、玲奈は触れなかった。

 理由は二点。仕事外で茉鈴からの接触が無いこと。だから、事後ではどうでもいいと感じたこと。当時の不快感は、割と早く薄れていた。

 それらから、あの一件に対しては、ハリエットに『無関心』の態度を示していたつもりだった。だが『肯定的』と伝わっていたらしい。


「ということですので、ちょっとだけでもマーリンさんを意識して絡んで貰えると、助かりますわー」


 クチコミを理由にそのように要求され、玲奈は戸惑った。しかし、考えはすぐにまとまった。

 客の需要を供給するのは、当然だ。ハリエットの指針は、何ら間違っていない。


「なるべく努力はしますけど……。成果次第で賃上げを考えてくださいね……領主様」


 だから、従業員はより対価を要求することが出来る。

 玲奈はかつてないほど明るく微笑んだ。


「構いませんわよー。きっちり成果を挙げてくだされば――ね」


 思っていた通り、ハリエットは満面の笑みで応じてくれた。


「ねぇ! ちょっと! おふたりとも、和気あいあいとした笑顔の絶えない職場を心がけましょうよ!」


 その様子を見ていた英美里が、慌てて口を挟んだ。

 互いに笑顔なのにおかしなことを言っていると、玲奈は思った。


 ハリエットと口約束を交わし、より稼ぎたいとはいえ――玲奈は食指が動くが、それだけだった。

 開店して間もなく、茉鈴が店に現れた。シフトが重なったのは先週以来だ。

 ふたりで店内に出る。客達から待望の眼差しを向けられるが、玲奈は茉鈴に絡むどころか、避け気味だった。やはり、こちらから積極的に動くことには躊躇した。茉鈴といざ向き合おうとしても、複雑な気持ちだった。

 茉鈴もハリエットから話を聞かされたのか、わからない。それとも、こちらの警戒を察しているのか、茉鈴からも一定の距離を置かれていた。玲奈は茉鈴と共に、それぞれで仕事をこなしていた。

 店内は残念そうな空気に包まれていた。

 玲奈としては、諦めているわけではない。少しずつでも、期待に応えたいとは思っている――賃上げのために。

 ふと、出入り口の扉が開いた。近くに居た玲奈が駆け寄った。


「いらっしゃいませ。おとぎの国の道明寺領へ、ようこそ」


 下げた頭を上げると、客はひとりの女性だった。

 そのような体質なのか、それとも意図的な化粧なのか、玲奈にはわからない。長い黒髪の、切り揃えられた前髪の下は――整った顔だが、ひどく血色が悪かった。鋭い目つきの下は、泣き腫らしたとも、赤色のアイシャドウとも、どちらにも見える。

 服装は、一見すると長袖のセーラー服だった。だが、黒と灰の二色であり、フリルの装飾もあるから、よく見るとセーラー服を模したブラウスだと理解した。黒いミニスカートを履いていることもあり、まるで学生服のようだった。

 そのような服装を着こなしていた。つまり、学生服が違和感が無いことから、玲奈は自分と近い歳か、高校生にも見えた。


 コスプレに近い格好の人間は、この繁華街でもこの店の客でも、珍しくはない。玲奈は、もう見慣れたつもりだった。

 しかし、彼女は気だるさかつ攻撃的な『拒絶』の雰囲気を放っていた。悪く言えば、精神的に病んでいるように見える。その雰囲気から服装も、コスプレというより俗に言う『地雷系ファッション』に見えた。

 玲奈は、人を見た目で判断するのはよくないと理解しているが――客でなければ関わりたくない人間だった。気圧されながらも、なんとか凛々しい笑みを作った。


「あんたか……。茉鈴、おる?」


 客はぽつりと、それだけを漏らした。

 この店に初めて訪れた客は、入り口の時点で物珍しそうに店内を見渡す。だが、この客は首から上を一切動かさない。かといって、常連客のように慣れた感じでもない。玲奈には単純に、店に興味が無いように見えた。

 それに、マーリンの本名を口にした。客ではなく、茉鈴の知人である可能性が高い。


「えっと……」


 玲奈はつい、言葉が詰まった。頭の中が真っ白になっていた。

 気づいていないが、茉鈴に知人が居るかもしれないという可能性に驚いていたのであった。誰とも交友関係が無いと、勝手に思い込んでいた。


「申し訳ありませんが、この領地で指名制というものは無く……」


 知人であるなら、茉鈴を呼び出すのが筋だ。だが、困惑した玲奈は敢えて客人と捉え、否定方向へ促した。

 この店にキャストの指名制が無いのは事実だった。玲奈が調べたところ、コンセプトカフェによっては別料金で指名可能な店もある。


「いや……なんちゅうか、指名ってわけでもないんやけど……」


 しかし、客は受け入れず、曖昧に拒んだ。

 何が言いたいのか、玲奈にはわからない。どうすればいいのかも、わからない。その時だった。


「あれ? スミレちゃん? いらっしゃーい。さあさあ、こっちへどうぞ」


 背後から陽気な声が聞こえ、オリーブグリーンのローブを着た人物が玲奈の隣を過った。

 後から知るが、雨の日で毛髪がより広がっているため、隠す意味でフードを被っていたらしい。玲奈には表情が見えなかった。

 魔法使いマーリンが客の手を取り、店内へと案内した。

 結果的に茉鈴に助けられ、玲奈はひとまず落ち着いた。


 その後、玲奈は通常業務に戻った。

 ソファー席に座る、スミレと呼ばれた女性客を横目で見る。

 入店時より険悪さが増し、楽しそうな笑顔を見せるどころか、苛立っているようだった。茉鈴がいつもの様子でヘラヘラしながら構うが、和らぐことは無かった。茉鈴も、焦ることはなかった。

 その様子から、ふたりは知人なのだと実感した。


「あの人、なんか超ヤバそうなんだけど……マーリン様も大変だね」

「わたしじゃ無理だから、こういう時は助かるわ。領主様も、あの手のタイプには近寄らないし……」


 玲奈はキッチンカウンターから英美里と眺め、小声を交わした。

 茉鈴がスミレと何を話しているのか、わからない。ただ、それ以上に――ふたりが具体的にどういう関係なのか、気になった。


「女王様が、あの可愛そうな魔法使いを助けてあげなよ」


 英美里がにんまりと、悪戯じみた笑みを浮かべる。


「嫌よ……。ていうか、自業自得じゃない?」

「え? よくわかんないけど、そうなの?」

「た、たぶん……」


 玲奈にそう思う根拠は無かった。スミレと呼ばれた女性が茉鈴を理由を苛立っていると考えれば、腑に落ちただけだ。いい加減な茉鈴に振り回され、怒っているように見える。

 そして、茉鈴に対し、ざまあみろと心中で嘲笑った。モヤモヤしていた気持ちが、少し晴れた。


 スミレは三十分程で店を出た。終始苛立っていた。

 その後も――玲奈は結局のところ、茉鈴と一度も絡むことなく、午後十一時を迎えた。

 スタッフルームに入りドレスを脱いでいると、茉鈴が現れた。


「おつかれー」

「お疲れさまです」


 最低限の挨拶だけを交わす。

 ふたりきりの部屋で、衣装を脱ぐ音を聞きながら、またかと玲奈は思った。今日もろくな会話が無いまま、それぞれが店を出るのだろう。

 何ら問題の無い流れだった。まさしく、玲奈の望んでいた通りだ。

 しかし、今日はハリエットから茉鈴を意識しろと要求された。複雑な気持ちで避けていると、スミレという茉鈴の知り合いらしき人物が現れた。

 スミレの態度から一時的に気は晴れたが、今は再び重たいものが圧しかかっていた。


 このままだと、埒が明かない。それどころか、重くなる一方だと玲奈は思う。

 少しずつ良くなるはずがない。時間は何も解決しない。

 それに、一刻も早い賃上げが必要だ。だから、ハリエットの要求には、なるべく早く応えたい――玲奈は、そのような『理由』を作った。


「あの、先輩……。この後、ちょっと時間ありますか?」


 振り向いて訊ねると、茉鈴が不思議そうに首を傾げた。そして、すぐにぱっと表情が明るくなった。


「あるよ。全然ある。時間だけは、気にしないで」

「いや……そこまで言わなくても、大丈夫ですから!」


 子供のように露骨に浮かれる茉鈴を、玲奈は慌てて制した。なんだか調子が狂いそうだった。

 時間があると茉鈴は言うが、互いに終電まで一時間を切っていることを、玲奈は知っている。偶然にしろ、その状況が丁度よかった。現在はまだ、短時間という制限を設けた方が、玲奈としては都合がいい。


「三十分ぐらい、話をしましょう――仕事の話です」

「うん。いいよ」


 念を押しても、茉鈴は無邪気な笑みを浮かべたままだった。

 こちらの言葉を本当に理解しているのか玲奈は不安だが、こうして誘った以上はもう後に退けない。

 互いに着替えると、ふたり揃って店を出た。

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