第03章『女王と魔法使い』
第07話
六月二十三日、金曜日。
玲奈は三限目の講義の後、電車に乗り繁華街へと向かった。
春原英美里に頼まれた単発アルバイトから、もう一週間になる。
店は通常、午前零時まで営業しているらしい。だが、あの日の玲奈は終電の都合で午後十一時に終えた。深夜にも関わらず店内は慌ただしかったため、給料は後日受け取ることになった。
今日はそれと――もうひとつ用件があるため、訪れる。
あっという間の一週間だったと、玲奈は電車に揺られながら思った。まるで、昨日のことのようだ。
あれから、安良岡茉鈴の顔が頭から離れなかった。
結局、あの夜茉鈴がどうして店を訪れたのかは、わからない。だが、偶然の再会は玲奈にとって――少なくとも、嫌ではなかった。
一年振りに感じた心地良さを、ぼんやりと思い返していた一週間だった。まだ、髪の毛先を触れられている感触が残る。
しかし、それだけだ。やはり未練も、もう一度寄りを戻したい気持ちも無い。
持ってはいけない。どれだけ手繰り寄せても、その先に何も無いことを知っている。一度届かなかった想いが次は届くことなど、無いのだから。
玲奈は流される気持ちを食い止めようと踏ん張っていたが、意外にも流されなかった。物わかりのいい人間だと自賛した。
二年生になり、キャンパスは離れた。もう会わないと思っていた人間と再会したが――今度こそ、もう会うことは無いだろう。
それに、計画のために恋や愛は、やはり不要だ。そんなものより、現在は海外留学のために金銭を稼がなければいけない。
玲奈は電車を降りると、そう自分に言い聞かせながら歩いた。そして、今週はひとりで古びた雑居ビルにたどり着いた。
時刻は午後四時。先週とは違う緊張感を持って階段を下り『おとぎの国の道明寺領』の扉を開けた。
「失礼します」
「あっ、玲奈ちゃん」
「えーっと……レイナ様でしたわねー。お久しぶりですわー」
開店準備中の店内で、英美里と道明寺ハリエットに迎えられた。
コスプレ姿のふたりと一週間振りに向き合い、玲奈は少し戸惑った。特に、ハリエットの令嬢姿は見慣れる気がしない。存在感が凄いと、改めて思った。
結局のところ、道明寺ハリエットの本名は未だに知らない。だが『統治者』という意味の他――エミリーやレイナといった名付けから、ハリエットという名も自身の本名にちなんでいるのだろう。玲奈はそう考えると、およそ察しがついた。
「先週のお給料ですわね。少々お待ちくださいまし」
ハリエットが店奥から、ひとつの封筒を持ってきた。
玲奈は受け取り中身を確かめると、明細の小さな紙切れと共に、一万円札が一枚入っていた。時給二千円の五時間労働だから、間違っていない。
単発だったが割の良いアルバイトだったと、改めて思う。恥ずかしさと――場所は少し遠いが、それら以外は文句が無かった。かろうじて水商売ではないとも、認識している。
「あの時は、助かりましたわー」
笑みを浮かべているハリエットの言葉は、世辞に聞こえた。
給料を取りに来て、給料を渡された。用件が済んだのだから、この場を切り上げようとしている。
玲奈としても、店を出る空気だと察していた。だが、これは予想していなかった流れであり、困惑した。
「すいません――わたしを、ちゃんとしたバイトで雇ってくれませんか?」
てっきり『ここで続ける気はありません?』と誘われることを期待していたのだった。
そう。手数料に目を瞑っての振込みではなく、わざわざ訪れて給料を受け取ったのは、この用件のためだった。
申し出ると、ハリエットは笑顔のまま、眉が僅かに動いた。
「……完全な裏方じゃなくて
「はい、そうです……。女王レイナでなら……」
「正式に雇うとなれば、以前のような女給の真似事だけではお給料を出せませんわよ? お客様の相手が、貴方に勤まるかしら?」
玲奈はハリエットから、冷ややかな笑みを向けられた。キッチンカウンターからは、英美里が不安そうに眺めていた。
先週の仕事ぶりから、不安視されるのは無理がないと思う。だから誘われなかったかと、理解する。かといって、絶対に大丈夫だと言ったところで説得力が無い。
「頑張ります」
だから、まずはひとまず肯定した。
「すいませんけど、わたしにはコスプレが楽しいとは思えません。ぶっちゃけると――海外留学のために、お金が要るんです。ここは稼げるんで、給料分の仕事はちゃんとこなします」
そして、志望動機を正直に話すことが最も説得力を与えられると判断した。
この一週間、玲奈はインターネットでコンセプトカフェの求人情報を眺めていた。より高い時給の店もあったが、衣装の露出が多かったり、水商売のような業務内容だったり、それらは避けたかった。一度経験していることもあってか、時給と内容のバランスはこの店が最も優れていると思った。
真剣な眼差しで訴えかけると、ハリエットは小さく笑った。
「ええよ……。そういう事情やったら、働いた分はちゃんと給料出したる。そん代わり、イヤイヤの態度で客を不快にさせたらクビやで! バイトやろうがプロ意識は持て! 客を騙してみせろ!」
「はい。そのつもりです」
小柄な女性から鼓舞され、玲奈は頷いた。どうやら、こちらの意図を汲んで貰えたようだと感じた。
鞄から記入済みの履歴書を取り出し、ハリエットに渡した。
「履歴書なんか別に要らんのに、律儀やなぁ……。まあ! 貴方、とっても賢いですのね! ……女王より、スーツでバリキャリ感出した方がハマってたかもしれませんわー」
ハリエットはつまらなそうに眺めるが、学歴に驚いた後、小言を漏らした。
「領主様……うちのコンセプトを思い出してください」
それを英美里が、呆れたような半眼を投げて制した。そして、玲奈に向き合い明るく笑った。
「やったね、玲奈ちゃん! 一緒に頑張ろう!」
「ええ。英美里が一緒だと、心強いわ」
玲奈の目から、英美里はこのアルバイトを楽しんでいるように見えていた。
動機や適性が違うとはいえ、知人と一緒だということも、この店を選んだ理由のひとつだった。
「まあ、しかし……バイト応募にふたりも来るなんて、珍しい日もあるものですわね」
「そうですね。うちの領土が拡大する日も、近いかもしれませんよ!」
「え? わたし以外にも居るんですか?」
ハリエットと英美里のふたりが上機嫌に話す内容に、玲奈は驚いた。
確かに、インターネットでこの店のアルバイト求人は出ていた。だが、コンセプトカフェの業種そのものに人気があると、玲奈は思えない。一度にふたりの応募があるのは、極めて稀だろう。
「もうひとりは、とりあえず電話があって……ていうか、もう面接の時間なんですけども……」
ハリエットが腕を組み、壁の時計を眺めた。
この様子だと、午後四時に面接の約束を取り付けていたのだと、玲奈は察した。だが、もう十分も過ぎている。
約束の時間に遅れるなんて、だらしのない人間だと――呆れた、その時だった。
「すいませーん。バイトの面接に来ましたー」
扉が開き、のんびりした声が玲奈の耳に届いた。
なんだか聞き覚えのある声だと思いながら、玲奈は扉に振り返った。
長身のシルエットが見えた。
アルバイトの面接だという先入観があるせいか、ボサボサのショートヘアに、まず良くない印象を持った。そして、本人なりに愛想よくしているつもりなのだろう――満面の笑みも、ヘラヘラしているように見えた。
玲奈の持った印象は最悪だった。面接で訪れた者としても。個人としても。
「はぁ……」
思わず溜め息が漏れ、重く項垂れる額を手で支えた。
この状況には、不思議と驚かなかった。素直に理解し、驚くよりも嫌悪感が込み上げていた。
「あれー? 玲奈じゃん。この前、単発バイトだって言ってなかったっけ?」
表情こそ見えないが、実に嬉しそうな声色だった。
だが、玲奈としては全く嬉しくなかった。もう会うことが無いと思っていた人間が、どういうわけか姿を現したのだ。
どうしようもない現実に観念し、念のため顔を上げて確かめた。
「もしかして、ここでバイト続ける感じ?」
無邪気な笑みを浮かべた安良岡茉鈴から、訊ねられた。
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