第06話

「久しぶり……。まさか、こんな所で会うなんてね」


 店の入り口で、安良岡茉鈴が微笑む。悪意は無く、嬉しそうな笑顔に玲奈は見えた。

 玲奈としても、その台詞と同じだった。友人の助けで入った単発アルバイトで、かつて気持ちを拒まれた『セフレ』と再会した。偶然を通り越し、ありえない現象だ。

 玲奈はひどく困惑するが――目の前の人物を否定するように、ひとりの客だと認識した。かつての関係など、どうでもいい。接客業に私情を持ち込んではいけない。そのように、気持ちを切り替えた。


「おひとりさまですね。こちらへ、どうぞ」


 マニュアル以外の言葉を発することがなければ、微笑むこともない。個人としての茉鈴を無視したつもりだった。

 俗に言う『塩対応』にも関わらず、茉鈴は嬉しそうに笑顔を浮かべていた。何も言わず、玲奈の案内に従った。

 壁際にはふたり掛けのソファー席が三つ、壁に背もたれを向けて並んでいる。そのひとつが空いていたので、玲奈は茉鈴を座らせた。


「ご注文が決まりましたら、お呼びください」

「はーい。またねー」


 隣の席の空いたグラスを持ち、玲奈はひとまず席から離れた。

 平静を装ったつもりだった。しかし、周囲からは違って見えたのか――キッチンカウンターの英美里から、笑顔を保ったまま不安げな視線を向けられた。

 キッチンカウンターに入り、シンクにグラスを置いた。


「玲奈ちゃん、大丈夫? あの人、知り合い?」

「うん。まあ、そうなんだけど……。大丈夫よ」


 英美里から小声で話しかけられ、小さく苦笑した。本音としては茉鈴の相手をしたくないぐらいだが、店側に迷惑をかけられない。


「無理しちゃダメだからね。それじゃあ、これをあちらのお客様に――よろしくお願いします、レイナ様」


 声のトーンが上がった英美里から、玲奈はカシスオレンジのグラス受け取った。

 茉鈴の登場は想定外だが、アルバイトに集中しよう。先ほどの感触と――そして旧い記憶から、茉鈴は塩対応に文句を言わない人間だ。適度に構い、周囲には動揺を見せてはいけない。

 玲奈は自分にそう言い聞かせ、改めて気持ちを切り替えた。女王レイナとして、毅然とした態度で客にグラスを渡した。


「すいませーん。注文いいですか……レイナ様、だっけ」


 手の空くタイミングを計られていたのだろう。茉鈴からその名で呼ばれ苛立つが、席へと向かった。


「えっと……。この……いたずら好き小悪魔のミルク? ください」


 茉鈴はラミネートされたメニュー表の一部を指さした。ふざけたメニュー名の下には、カッコ書きでカルーアミルクと記されている。

 誰が名付けたのか玲奈は想像がつくが、メニュー名は全てそのような感じだった。どの客もそちら側で注文するため、非常に分かりづらかった。


「かしこまりました」


 茉鈴も楽しんでいるんだ――どちらかというとノリは良い方なんだと呆れながら、玲奈はキッチンカウンターへと戻った。


「カルーアミルクひとつ」

「ダメだよ、玲奈ちゃん。いたずら好き小悪魔のミルク、ね」

「あー。はいはい」


 英美里から笑顔で諭されるが、覚える気が無いので聞き流した。玲奈なりに気遣い、客には背を向けている。

 茉鈴への対応は問題が無さそうだと思った。そして、順応していることに、やはり未練が無いのだと――玲奈は改めて実感した。


「もうちょっとしたら領主様が戻ってくるから、頑張ってね」


 英美里に小声で励まされ、玲奈は琥珀色の液体が注がれたグラスを受け取った。

 酒に疎い玲奈は、カルーアミルクを『酔い潰れやすい危ない酒』とだけ認識していた。実物を見ると、見た目はアイスカフェオレであり、甘い匂いが漂う。確かに、知識が無ければ誘惑されているだろうと思った。


「お待たせしました……。いたずら好き小悪魔のミルク……です」


 玲奈はメニュー名の恥ずかしさを堪えながら、茉鈴にグラスを差し出した。

 グラスから、甘さに混じったコーヒーの匂いが鼻につく。綿菓子のような柔らかい毛髪のシルエットが、目に映る。

 ミルクキャンディーを舐めながら不味いコーヒーを流すという、変わった飲み方を思い出した。

 懐かしさが、玲奈の感傷にそっと触れた。


「ありがとう。ねぇ……五分でいいから、ちょっとお喋りに付き合ってよ。ここ、そういうお店なんでしょ?」


 席から離れようとしたところ、茉鈴から呼び止められた。微笑みながら、ソファーの隣を指さしている。

 そのような接客はハリエットの担当だが、まだ休憩から戻らない。ここで拒む、或いは他の客へ逃げると、この様子を目撃した周りの客から店の信頼を損なう。玲奈なりに考え、心中で大きく溜息を漏らした。


「忙しいんで、本当に五分だけですからね」


 時間に念を押し、仕方なく隣に座った。

 コンセプトカフェで女王の格好をして、かつて失恋した相手と並んで座っている。実に不思議な状況に、玲奈はただ居心地が悪かった。

 遠くから、英美里の不安げな視線を感じていた。


「えーっと……よくわからないんだけど、キミの分のお酒も注文すればいいのかな?」

「接客こそしますけど、そういうお店じゃないんで、大丈夫ですよ……たぶん。ていうか、わたし未成年だから、まだ飲めません」

「へー、知らなかったや。それじゃあ、仕方ないね」


 玲奈は八月の誕生日で二十歳になる。大学生活の付き合いで、これまで酒を多少口にすることはあったが、自ら進んで飲むことはなかった。

 振られて距離を置いたのは、昨年の六月。気持ちが届いていればという仮定は、考えない。もしも、セフレのまま八月を迎えていれば、隣の女性は誕生日を祝ってくれたのだろうか――玲奈はふと考えるが、互いに誕生日を知らなかったので、その可能性は薄いと思った。

 所詮、その程度の関係だったのだ。


「玲奈がこの店でバイトしてるって知らなかったけど、結構長いの?」

「玲奈じゃなくて、レイナです!」


 玲奈は突然名前で呼ばれて驚き、慌てて源氏名で訂正した。

 茉鈴を見ると、おかしそうに小さく笑っていた。


「……友達のヘルプで、今日だけですよ。時給良いのに釣られて、こんなお店だとは思ってなかったですけど」


 玲奈は小声で愚痴を漏らした。不本意だが、この場で漏らす相手としては茉鈴しか居ない。


「確かに、時給は良さそうだよね。私もここでバイトしようかなー」


 そんな気は一切無いくせに……。上機嫌にカルーアミルクを飲んでいる茉鈴の冗談に、口を挟む気にはならなかった。

 その代わり、ある違和感を覚えた。

 貧乏学生を自称する割にはアルバイトをせず、学校の図書館が娯楽だった女性が、このような店に来るだろうか。高級店というわけでも、飲食が主旨の店でもない。だが、娯楽としては割高な部類だ。

 そもそも――いつ部屋に訪れても居たことから、玲奈は茉鈴に外出をしない印象を持っていた。この店はおろか、繁華街に居ること自体に違和感がある。


「まり……先輩こそ、こういうお店によく来るんですか?」


 玲奈は、隣に座る茉鈴の顔を見上げた

 どうしてこの店に来たんですか? 入店の際に抱いた疑問を思い出す。訊ねたいところだが、玲奈は違和感に戸惑ったせいか、直接は躊躇った。


「ううん、初めて……。ここに来たのは、何ていうか……罰ゲームみたいなもんかな。でも、こんなに綺麗な女王様に偶然会えるなんて、来てよかったよ」


 罰ゲーム? 誰かと何かあったのだろうか? 玲奈の知りたい部分は誤魔化された。

 だが、優しい笑みを向けられ、玲奈は思わず視線を外した。

 一年前に側で見ていたものと、全く同じだった。

 ふと、茉鈴が飲みかけのグラスをテーブルに置いた。その手で、玲奈は背中の髪を触られた。


「髪……また伸びて、よかった。バッサリ切った時は、ビックリしたよ」


 耳元で囁かれながら毛先を摘まれるのは、一年前と同じだった。

 玲奈は不思議と、嫌悪感が湧かなかった。包み込むような優しさが、かつてのように――居心地が良かったのだ。


 だからこそ、悔しくなる。

 あの直後に髪を短く切ったことは、キャンパス内ですれ違っていることから、茉鈴が知っていて当然だ。当時驚いたなら、どうしてその気持ちを伝えてくれなかったんだろう。

 髪を気に入っているのに、どうして気持ちを拒んだんだろう。身体だけでなく、どうして心を受け入れてくれなかったんだろう。

 どうしてわたしは、あの時カエルになったんだろう。


 玲奈の中で、一年前の辛い気持ちが蘇る。

 髪が再びこの長さに伸びる頃には、気持ちが一新していると思っていた。しかし、そのようなことはなかった。現在になり、一年越しに――瞳の奥から、熱いものが込み上げた。


「どこがですか……。全っ然よくないですよ……」


 玲奈は瞳から溢れるのを堪え、恨む感情を漏らした。気品ある女王レイナには相応しくない言動だと、理解はしていた。

 茉鈴の指が毛先から離れ、その手で腰を抱きしめられた。

 片腕で引き寄せられる。茉鈴の温もりを、より近くで感じる。


「ごめん……」


 頬に、茉鈴の吐息が触れた――その時だった。


「お客様ー。わたくしの領地で、わたくしの民への『お触り』は禁止ですわー」


 甲高い声が、正面から聞こえた。

 玲奈は正面を見上げると、テーブルを挟み、ハリエットが満面の笑みを浮かべて立っていた。

 おそらく、意図的なのだろう。笑顔から怒りの感情が漏れていることが、伝わった。


「ああ、すいませんでした」

「お喋りでしたらわたくしが相手になりますので、レイナ様は一度休憩に入ってくださいまし」

「は、はい」


 休憩から戻ってきたハリエットに注意され、玲奈は慌てて席を立った。

 視界の隅で、キッチンカウンターの英美里が胸を撫で下ろしているのが見えた。


 その後、玲奈はスタッフルームに入った。英美里からの賄いを食べ、気持ちを落ち着かせた。

 三十分の休憩を終えて店内に戻ると、茉鈴の姿はまだあった。

 他の客らがハリエットやエミリーと酒や会話を楽しむ中、茉鈴は酒を片手に手持ちの文庫本を読んでいた。

 従来のカフェならまだしも、コンセプトカフェでは異質な光景だと、玲奈は思った。


 休憩から戻って以降、茉鈴との接触は無かった。

 やがて、グラスが空になると茉鈴は席を立ち、入り口のレジに向かった。玲奈が会計を行った。

 時刻は午後十時過ぎ。およそ一時間の滞在だった。


「それじゃあね。楽しかったよ」


 笑顔で満足そうに去っていく茉鈴を、玲奈は頭を下げて見送った。


「ありがとうございました。またのお越しを、お待ちしています」


 台詞も含め、マニュアル通りの対応をしたに過ぎなかった。



(第02章『髪が長く伸びた頃』 完)


次回 第03章『女王と魔法使い』

玲奈は単発アルバイトの給料を受け取るために、おとぎの国の道明寺領を訪れる。

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