第03話

 六月。春は過ぎ去り、汗ばむ季節へと移ろった。

 玲奈はその頃にはもう、大学生活にすっかり慣れていた。同級生らとは、当たり障りの無い友好関係を維持していた。履修している科目は、ほとんどが単位を取得できる見込みだった。

 初めて受験した国際基準の外国語能力測定試験では、想定していた点数だった。卒業までに、何度も更新するつもりだ。

 計画は至って順調だった。自分らしい大学生活を送れていると、玲奈は思っていた。

 ただ、ひとつ――


「あっ。来たんだ」


 この日は午後九時過ぎだったが――古いアパートをいつ訪れても、安良岡茉鈴が迎えてくれた。まるで、こちらの動きを遠くから把握している魔法使いのようだった。


「ちょうどコーヒー淹れるとこだけど、玲奈も飲む?」

「はい。お願いします」


 エアコンが動いているとはいえ、この季節でも茉鈴はホットコーヒーを飲んでいた。

 インスタントコーヒーの、ドリップタイプではなく安い粉末状のものだ。玲奈が思うに、この世で最も不味いコーヒーだった。泥水のようなそれは、ブラックではとても飲めない。


「はい。どうぞ」


 茉鈴が黒い液体の入ったマグカップをふたつ、テーブルに置いた。湯気が立ち上る。


「あと……これも」


 そして、封の開いたミルクキャンディの袋も置いた。

 茉鈴は座椅子に座ると、袋から個別包装されたひとつを取った。それを口にしたうえで、コーヒーを流し込んだ。

 それが茉鈴の『飲み方』だった。

 玲奈もこの部屋では、以前から真似しているが――美味しいわけではないが、これならばブラックでも飲めなくはない。


「なんか、そのうち飴が喉に詰まるかもしれません」

「私は救急車呼ぶ以外の処置はできないから、飲み込まないように気を付けてね」


 キスしたところで、舌で喉奥から取り出せないか……。

 玲奈は少し残念に思った。

 飴を口内で転がしながら、マグカップを両手で持ち、茉鈴の肩にもたれ掛かった。


 雨の降る夜だった。茉鈴は読書に耽っていた。

 建物と同じくエアコンも古いのか、室外機と共にうるさく動いている。玲奈は雨音に耳を傾けながら、ぼんやりした。

 結局、この日は素肌を重ねることなく夜が更けた。


 だらしなさの漂う部屋で、不味いコーヒーを変わった方法で飲み、そして掴みどころの無い女性の存在を感じる。

 それだけでよかった。ふたりの間に体温や言葉が交わらなくても構わない。こうして一緒に居られるだけで、玲奈は安らぎを得ていた。

 この女性が――この部屋が、玲奈にとって居心地の良い空間だった。何もかも忘れ、まるで現実から切り離されたかのように。


 別の夜、玲奈が茉鈴の部屋を訪れた際、あるものを発見した。

 相変わらず、茉鈴が普段使用しているであろう化粧品はテーブル周りの床に転がっている。その中で、クリームタイプのチークがあった。

 玲奈がこの部屋で以前から目にしているものは、リキッドタイプだ。それに、紫がかったピンクに見え、茉鈴には似合わない色だと思った。

 もっとも、茉鈴に確かめたわけではない。茉鈴がこれを使用している可能性はある。

 玲奈は別の『現実的な可能性』を考えないようにした。しかし、この部屋の些細だが確かな違和感として――言い表せない不快感として、じっとりと纏わりついた。

 その後、茉鈴との性交で絶頂を迎え、ベッドで脱力気味になっていた時だった。


「ねぇ。この部屋に、わたし以外の女性おんなも入れてるんですか?」


 頭がぼんやりしているからだろう。玲奈は口にした後も、事の深刻さを理解できなかった。特に後悔も無かった。

 そう。いとも容易く、ふたりの間の『禁忌』に触れたのであった。


「さぁ……。どうだろうね」


 隣で横になっている茉鈴は、肯定も否定もしなかった。

 眠たげな垂れ目も、小さく微笑んでいる口元も、一切の変化が無かった。


「ていうか、それ訊いちゃう?」


 そして、苦笑した。

 茉鈴が何を言おうとしているのか、玲奈は察した。抑止され思考は一度立ち止まるが、引き返せなかった。

 間違いなく、他の女性もこの部屋に招いている――態度も含め、茉鈴の返事から玲奈は確信した。

 具体的な根拠は無い。出会って二ヶ月の時間で、安良岡茉鈴という人間をそのように『理解』していたからであった。

 玲奈はそれ以上には触れず、その夜は部屋を後にした。


 後日、玲奈は自室でひとり考えた。

 安良岡茉鈴とは、身体だけの関係だ。互いに都合のいいだけの存在だ。深くは関わらない。関わってはいけない。

 茉鈴と、それらのくだりを確かめたわけではない。しかし、暗黙の了解となっていた。


 玲奈は恋や愛が、わからなかった。理解したとしても、自分の『計画』の妨げになると思っていた。

 だから、過去より『気に入った他者』とは、性欲を満たせるだけでよかった。

 自分はそうであっても、相手が違う解釈をした場合は――関係を深く求めてきた場合は断り、厄介事になっていた。玲奈が高校生だった頃、何度かそのような経験をした。

 玲奈はそれを反省して大学へ進学した際、茉鈴と出会った。反省など忘れ、茉鈴ともこれまでと同じ心構えで向き合ってきたつもりだった。


 距離感や身体の相性だけではない。それら以外にも、茉鈴と一緒に居るだけで、かつてないほど心地が良い。

 一時だけでよかった。都合のいい時に現実から離れられる、憩いでよかった。まさに、性交と同じだ。

 玲奈はどうしてか、自分だけのモノだと思っていた。だから、他の誰かが同じ安らぎを得ていることが、耐え難い。考えただけで、胸が苦しくなる。

 しかし、茉鈴が他の人間とも繋がることに、口を挟む権利は無かった。そう――立場上、これまでは。

 遡及するつもりはない。これからは、自分だけのモノになればいいのだ。

 玲奈は茉鈴に、確かな独占欲を抱いた。そして、この気持ちこそが恋なのだと理解した。十八年の人生で、初めてのことだった。

 茉鈴のようなだらしのない女性との未来は、想像できない。『計画』にどのような影響が出るのかも、わからない。頭の隅では、茉鈴と計画を分けて考えている。

 ただ、一緒に居て欲しい。自分だけの憩いで居て欲しい。


 玲奈は思考を巡らせ、気持ちの整理がついた。そうなれば、あとは衝動の赴くままだった。

 翌日、玲奈は久々に学校の図書館を訪れた。あの日、茉鈴と接触して以来だった。

 やはり『定位置』に茉鈴の姿があった。

 普段、キャンパス内で茉鈴を見ることは稀にあった。しかし、軽く会釈してすれ違うだけだ。まともに会うのは、玲奈が茉鈴の部屋を訪れた時だけだった。


「先輩……ちょっといいですか?」


 玲奈は座らなかった。手の親指を立てると、顔の横に向けた。

 学校で突然接触し、茉鈴から驚かれると思った。だが、眠たげな垂れ目は、相変わらず何も動じなかった。

 玲奈は茉鈴を呼び出すと、図書館を裏口から出た。そして、建物の周り――人気の無い所まで連れて行った。

 六月の終わり際にしては、晴れた日だった。陽射しが強く、蒸し暑い。


「わたし、茉鈴のことが好きです。セフレじゃなくて、ちゃんと付き合ってください」


 茉鈴と向き合い、本心を口にした。

 玲奈にとって、人生で初めての告白だった。しかし、そのような実感は全く無く、玲奈自身驚くほど落ち着いていた。

 独占欲わがままを伝えただけだった。ひとつの提案のようなものだ。

 茉鈴に受け入れて貰えると、確信していた。これまで、茉鈴はいつも微笑んでいた。きっと、いつものように優しく包み込んでくれる――


「ごめん……。それは出来ない」


 玲奈は、逆光で茉鈴の表情が見えなかった。ただ、口元の小さな笑みが消えたことだけ、わかった。


「そうですか。わかりました」


 頭がぼんやりとし、思考が働かなかった。だが、そのような相槌を機械的に打ったことから、受け入れて貰えなかったのだと、少しの間を置き理解した。

 そして踵を返し、茉鈴に背中を向けていた。


「ありがとうございました……」


 どうして感謝の言葉が漏れたのか、玲奈はわからない。

 まるで、これまでの日々に区切りをつけ、別れるかのようだった。

 ああ、そうだ。玲奈は立ち去りながら、茉鈴と出会う以前――高校生だった頃のころを思い出す。

 自分は身体だけの関係を望むも、相手からさらに踏み込まれたら断ってきた。だから、この結果にはとても納得した。

 この時、初めて茉鈴の視点を考える。茉鈴は一体、どのように考え、どのような気持ちでこれまで居たのだろう。これまで一度たりとも考えたことがないことに、玲奈は気づいた。

 しかし――終わった現在、最早どうでもよかった。今更考える気にはなれなかった。


 ただ、ひとつ。『蛙化現象』という言葉が、玲奈の頭にふと浮かぶ。

 片思いだった側が両思いになった途端、熱が冷めることを言う。

 とあるおとぎ話で、カエルの王子を女王は嫌悪していたが、カエルから人間になれば好意を抱いた。その逆の現象らしい。

 どこで聞いたのかは忘れたが、まさに自分が醜いカエルになったのだと、玲奈は思った。だから、振られた。

 そもそも、茉鈴も恋心を抱いていたのか定かではない。何も根拠はない。

 玲奈は十八年の人生で初めて、失恋を経験した。胸にぽっかりと穴が開いたような感覚だが、想像していたより痛くなかった。涙も流れなかった。

 茉鈴にとってのカエルになったと思いたかった。振られたという現実への、痛みを誤魔化し正当化する手段であることに――玲奈は気づかない。


 それからは、玲奈が茉鈴の部屋を訪れることはなかった。キャンパス内で見かけても、会釈すらしなかった。


 六月が終わり、本格的に夏が訪れる。

 玲奈は長い毛髪を、ばっさりと短く切った。

 失恋すればそのような行動に出ると聞くが、理由はわからない。暑いから切るのだと、自分に言い聞かせた。

 だが、実際は――長い髪を茉鈴に気に入られていたからだった。

 たった二ヶ月だったが、彼女と過ごした時間を忘れたい。あの安らぎを、髪に触れられる感触を、早く忘れたい。

 この髪が再び伸びる頃には――きっと、真新しい気持ちになるだろうから。



(第01章『失恋の記憶(前)』 完)


次回 第02章『髪が長く伸びた頃』

一年後。玲奈は友人の手助けとして、コンセプトカフェで単発のアルバイトをする。

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