第02話
五月。ゴールデンウイークになった。玲奈は学校の友人らに誘われ、二泊三日の小旅行に出かけた。
付き合いを大切にしたまでだった。表情や態度には出さなかったが、全くといいほど楽しくなかった。まだ休日は残っているが、時間と金銭を無駄に消費したと思った。
午後八時頃、学校の最寄り駅で解散した。しかし、玲奈がキャリーケースを引いて向かった先は、自宅のワンルームマンションではなかった。
駅から学校までは、学生向け賃貸の住宅街となっている。その外れに、一棟のアパート――外観から、おそらく築三十年を超えるため、その呼称が適切なのか玲奈は疑問だが――二階建て六室の建物があった。
セキュリティーに関する設備が皆無のため、いつ誰でも敷地内に入ることが出来る。玲奈は、屋外に設置された階段を上った。
訊けば、二階の一室は家賃が月二万七千円という。玲奈の部屋の、半分未満だ。
玲奈はブザーを鳴らすと、安良岡茉鈴が扉を開けた。眠たげな瞳を向けられた。
「来たんだ」
「はい……」
たったそれだけを交わし、玲奈は部屋に入った。
茉鈴の
玲奈はこの部屋の所在を知って以降、事前連絡することなく訪れていた。ただの偶然か、留守に遭遇したことは無かった。
建物の外観は古臭いが、部屋はリフォームされていた。畳ではなく、フローリングの六畳ワンルーム。簡易キッチンの他、ユニットバスまであるのが玲奈は意外だった。
初めて訪れた時、茉鈴の容姿から、部屋は汚く散らかっているのだろうと想像していた。だが、実際は整理整頓されているというより――散らかるほど物が無かった。
部屋にはベッド、テーブルと座椅子、そして小さなテレビぐらいしかなかった。床には学校の教材が積み上げられ、化粧品が転がっていた。
花や可愛い小物は無く、物寂しい部屋だと玲奈はいつも感じる。いや、茉鈴らしい部屋であるとも思う。
現在の茉鈴は、Tシャツとスウェットパンツの姿だった。テーブルには図書館から借りてきたであろう本と、缶ビールが置かれていた。テレビは野球中継が映っているが、きっと観ていないと玲奈は思った。
茉鈴は座椅子に腰掛けると、缶ビールを一口飲んだ。そして、リモコンを手にしてテレビのチャンネルを適当に切り替えた。
キャリーケースを手にこの時間に訪れても、茉鈴から何も触れられなかった。
玲奈としても、期待していない。むしろ、茉鈴がどのような連休を過ごしているのか全く興味が無いように――こちらのことも、触れて欲しくなかった。
玲奈は隣に座ると、茉鈴の肩にもたれ掛かった。しかし、茉鈴の顔を見上げない。
茉鈴としても、チャンネルを切り替えることに夢中だった。
「まだ五月なのにさー、昼間は暑いよね」
「エアコンつけないんですか?」
「なんとなく、この時期にはまだつけたくないなぁ。ていうか、電気代節約したいから、ギリギリまで粘るよ。アイス食べたりして」
「そこは、ほら……アイス代を電気代に宛てましょうよ」
いい加減、バイトでもすればいいのに。
玲奈はそう思うが、決して口には出さなかった。間違いなく『余計なお世話』になってしまう。
ふと、頭に茉鈴の手が置かれ、優しく撫でられた。
よく頭を撫でられる。玲奈は嫌いではなく、むしろ撫でられることが好きだった。そのために、毛髪の硬いセットは行わない。
来たい時に訪れて、他愛の無い話をして――そして、自分以外の温もりを感じる。それだけで充分だった
それ以上でもそれ以下でもない、丁度いい距離感だった。
「先輩」
玲奈は茉鈴を、座椅子から押し倒した。
突然の行動にも、仰向けになった茉鈴の、眠たげな瞳は驚くことはない。代わりに、口が開いた。
「ねぇ。もしよかったらでいいんだけどさ……私のこと、名前で呼んでくれない?」
ぼんやりとした視線を向けられ、玲奈は考えた。
茉鈴にどのような意図があるのか、わからない。呼び方を変えることで、ふたりの距離が多少縮まるが、まだ支障の無い程度だと判断した。
「いいですよ……茉鈴」
しかし、敬語で話すことは譲れなかった。これ以上は踏み込めないという、意思表示のつもりだった。
「ありがとう、玲奈」
小さな微笑みを向けられ、玲奈は茉鈴にキスをした。舌を絡め合うと、ビールの苦い味がした。
ふたりで床に寝転んだまま、茉鈴からそっと抱きしめられた。茉鈴が『余裕』のある静かな雰囲気だからだろう。頭を撫でられること以外に、抱擁も好きだった。
望むものに包まれ、玲奈は連休で初めて心が浮かんだ。
その後、ベッドで素肌を重ねた。玲奈は茉鈴に性欲をひとしきり受け止めて貰い、満足した。
互いに全裸のまま、狭いベッドで横になったまま向かい合った。今が何時であるのか、わからない。明日も休日であり予定も無いので、興味が無い。
ふと、茉鈴の手が伸び、玲奈の頭に触れた。そこからサイドヘアの、毛先へと滑らせた。
「サラサラで長い髪の毛って、いいよね」
よく頭を撫でられていたが、頭ではなく毛髪を触られていたのだと、玲奈は理解した。
毛先に指を絡められても、不快ではないため振り解こうとしない。代わりに、茉鈴の頬に触れた。
「同意を求められても……わたしには、わかりませんよ」
「私は癖毛がひどくて、伸ばせないから……。素直に羨ましいな」
広がったショートヘアはパーマではなく地毛なのだと、玲奈は初めて知った。
縮毛矯正をすればいいのにと思ったが、口には出さなかった。おそらく、それすら面倒で、自然に馴染むこの髪型を選んだのだろう。
安良岡茉鈴という人間のことを、玲奈はほとんど知らない。しかし、これまでの付き合いから、その程度は予想できた。
「
それはごく当たり前の理屈だ。では、茉鈴は毛髪を伸ばしたいのだろうか。
玲奈は自分と同じロングヘアの茉鈴を想像するが――なんだか今ひとつに感じた。折角の飄々とした雰囲気が、損なわれるような気がしたのだ。
「わたしは今の茉鈴の髪型……好きですけど」
茉鈴の垂れ目を見つめながら、本心を口にした。
無造作にうねる柔らかい毛髪は、何事にも動じない茉鈴らしさを感じる。そして、暗いカーキグレージュのくすんだ色は、落ち着きを与えてくれる。そのふたつを、玲奈は気に入っていた。
「ありがとう。そう言ってくれると、嬉しいよ」
茉鈴はいつも通り小さく微笑むが、玲奈にはとても喜んでいるように見えた。
その時、茉鈴の腹が鳴った。次は恥ずかしそうに苦笑した。
「ごめんね。晩ごはん、まだでさ……」
ベッドから茉鈴が起き上がった。
Tシャツとショーツを着ると、小さなキッチンまで歩き、水を入れたヤカンを火にかけた。そして、棚からインスタントラーメンをひとつ取り出した。
時刻は午後十時半だった。テーブルに置かれた缶ビールが、ベッドで横になっていた玲奈の目に留まった。おそらく、茉鈴は一本飲んでから腹に何か詰めるつもりだったのだろう。自分は夕飯を済ませたうえで押しかけたため、申し訳ないことをしたと、少し罪悪感が芽生えた。
茉鈴は湯を注いだインスタントラーメンをテーブルまで運び、座椅子に腰を下ろした。
所詮は、
だが、どうしてか帰る気分ではなかった。小旅行を終え、さらに性交で体力を浪費したゆえの疲労だと、自分に言い聞かせた。
せめて、茉鈴が帰宅を促してくれたらいいのに……。
玲奈はそう思いながら、ベッドから起き上がった。下着を着け、茉鈴の隣に座った。
「ん? 玲奈も食べる? もうひとつ作ろうか?」
「いえ……。わたしは大丈夫です」
しばらくして、茉鈴はインスタントラーメンの蓋を剥がし、箸をつけた。
玲奈は茉鈴が食べ終わるのを、隣で待つつもりだった。しかし、ジャンクフードの匂いが、腹に響いた。
「やっぱり、ちょっとください」
茉鈴の箸を奪い、一口食べた。
「ははは……。エッチした後って、妙にお腹空くよね」
食事を邪魔されたにも関わらず、茉鈴は微笑んでいた。
玲奈は赤面しながらも、ふたりでひとつのインスタントラーメンを平らげた。茉鈴の健康のためだと、自分に言い聞かせた。
安良岡茉鈴がどれほど不健康な生活を送ろうが、知ったことではない。それなのに、敢えて『共有』することを選んだ。
茉鈴は明日から、残りの連休の計画をきちんと組んでいる。勉強もしなくてはいけない。
だか、このだらしない女性と一緒に居ることが――無計画にだらしない一時を過ごすことが、心地よく感じていた。
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