カエルになる魔法
未田
前編
第01章『失恋の記憶(前)』
第01話
四月の昼下がり。
十八歳の
第一志望であった国立大学の外国語学部に入学して、一週間が過ぎようとしている。業者を通し、家庭教師のアルバイトが決まった。旅行サークルに入った。そして、実家を離れてのひとり暮らしは問題無い。大学生として、新しい生活に慣れてきた頃だった。
ただ、新しい交友関係は――ひとまず当たり障りのない程度に留めている。同級生であり友人とも呼べる人間を作ったが、現在もグループではなくひとりで課題に取り組んでいた。
ひとりで居るのが好きというわけではない。全国的に有名なこの学校に通う人間と繋がりを持つことは、将来を見据えた場合とても大切だと、理解している。
玲奈は、高校生だった頃の『反省』を踏まえ、人間関係の立ち振舞を見直していたのだ。面倒事を避けたいため、慎重になっていた。
窓際にある個席の学習机には、暖かな陽射しが差し込んでいた。
まだ、答えは見出だせない。新しい季節だというのに、どこか心は浮かない。
「ふぅ……」
レポートに一区切りついたところで、玲奈は机から顔を上げた。
ここは静かであり、またプレイベート空間では無いため程よい緊張感を得られる。調べ物のため図書館を利用したが、居心地は悪くないと思った。レポートが捗っていた。
これから何度も受験するであろう、外国語の試験――世界規模で開催されている、点数が地位になるもの――の勉強もここで行おうかと思った。
玲奈はふと、視界の隅に入っていた人物に視線を向けた。
この席の斜め向かいには、グループ用の大きな机がある。先程から、誰かがひとりで読書をしていることは把握していた。
何気なく焦点を合わせたまでだった。
「……」
玲奈は思わず、息を飲んだ。
柔らかな陽射しが、その人物を照らしていた。
まず印象的だったのが、暗いカーキグレージュのショートヘアだった。癖毛なのか、そのようなパーマなのかわからない。無造作な動きで広がる髪は柔らかく、まるで綿菓子に見えた。
寝起きのような髪の下では、眠たげな垂れ目が開いた本に向いていた。しかし、本当に読書を行っているのか定かではない。椅子に浅く座っていることからも――玲奈の目には、ひだまりの中、まどろみを楽しんでいるように見えた。
髪や姿勢だけではなく、よれたカーディガンからも、だらしなさを感じた。
美しさからは、程遠い。しかし、玲奈はこの光景が、とても絵になると思った。独特の柔らかな雰囲気に、魅入っていた。
おそらくこの学校の生徒だから、見た目通り歳は近いだろう。冷静に考えれば、一年生の玲奈に対して年上である可能性は高い。
それでも、玲奈はその人物が年上だと直感した。貫禄に似た、大人の『余裕』を感じていたのだ。
直感は、もうひとつ――中性的に見えていたが、女性だと判断した。否、それは玲奈の願望でもあった。
こちらの視線に気づいたのだろう。女性は本から顔を上げると、遠くから玲奈に微笑んだ。
雰囲気通り、物柔らかな優しい笑みだった。
視線が合い、玲奈は口から心臓が飛び出そうになるほど驚いた。慌ててレポート作成に戻った。
その後は先程までと違い、全く捗らなかった。
一年生の時間割では、空き時間がほとんど無い。
次の空き時間は、あれから二日後だった。玲奈は自習のため、再び図書館を訪れた。
自習ならば、場所の選択肢は他にもある。敢えて図書館を選んだのは、勉強が捗る以外にも――小さな期待を胸に抱えていたからであった。
玲奈の願いは、偶然にも叶う。
先日と同じ、個人用の学習机に向かった。グループ用の大きな机では、広がったショートヘアの女性がひとりで、やはり眠たげに読書に耽っていた。
本から顔を上げられることはなかったが、玲奈は喜びを噛み締めながら学習机の椅子に座った。
それから何度も、空き時間の度に図書館に通った。
玲奈がいつも『定位置』に座るように、ショートヘアの女性も必ず『定位置』に居た。
一体、いつ講義に出ているんだろう。そもそも、本当にこの学校の生徒だろうか。
玲奈にそのような疑問が芽生えるが、真相はどうでもよかった。遠くから眺めるだけで、満足だったのだ。
ふたりの間には、ただ静寂のみが漂っていた。
だが、四月も終わろうとした頃――玲奈は行動に移る。
高校生だった頃の『反省』など、最早忘れていた。同じ失敗を繰り返す可能性は、頭に浮かびすらしなかった。後先考えず、衝動に身を任せたまでだ。
その日も、ショートカットの女性は『定位置』で読書に耽っていた。玲奈はそれを確かめると、大きな机の、女性の正面の席に立った。
「先輩……いっつも何読んでるんですか?」
玲奈の問いに、女性は本から顔を上げた。眠たげな垂れ目で、玲奈をぼんやりと見上げた。
玲奈は椅子を引き、腰掛けた。
「しょーもない思想書だよ。時間潰しにはなるね」
女性は本を閉じると、脱力気味に、椅子の背もたれに寄り掛かった。
「へぇ。わたしには難しそう……。先輩、本好きなんですね」
目の前の人物は、やはり女性の声だった。玲奈は喜びを抑えながら、適当に相槌を打った。
「好きってわけじゃないよ。ビンボー学生だから、読書ぐらいしか娯楽が無いだけ……」
「それじゃあ、バイトでもすればいいじゃないですか。先輩、ヤバいぐらいサボってますよね?」
「バイトしても、長続きしないんだよねぇ。ていうか、バイトも講義もダルいし面倒だし……正直なーんにもしたくない」
気だるげな様子から、実に説得力のある台詞だと、玲奈は思った。
見た目通り、だらしない人間に感じた。軽蔑の念すら抱く。しかし、それも玲奈にとっては大きな魅力となっていた。
「それに比べて……キミはいつも勉強がんばってるよね」
女性は小さく笑った。
以前から、玲奈の存在を認知していたのだろう。別に不思議なことではないが、玲奈は内心嬉しかった。
「この学校に入ったら、とりあえず浮かれまくり遊びまくりじゃない?」
確かに、身近な同級生達はそうだと、玲奈は思う。
この大学は学部にもよるが、入学試験を突破するにはおよそ六十五の偏差値を要する。全国でも難関校に属するため、校外の人間を相手に充分自慢できる。
その意味では――目の前に居るこの女性も、自分と同等かそれ以上の知能を持っているのだと、玲奈は思う。気だるくかつ怠けている様子から、とても自分のような『努力型』には見えない。
そう。良く言えば『天才型』の雰囲気を持っている点も、魅力のひとつだった。
「わたしにとって、入試なんてただの通過点なんですよ。卒業後の
この場限りの見栄ではなく、事実だった。玲奈は少なくとも十年先までの計画を立て、道を逸れないよう現在から努力を重ねている。他者からの受け売りではなく、自分ひとりで決めたことだ。目指すべき像が、明白であった。
父親が翻訳家であるため、幼少より外国語や外国の文化に触れることがあった。その影響なのだろう。玲奈は外国語を習熟し、それを生かして外資系金融企業で働きたいと思っている。過去より学業成績が良かったが、他者や社会への献身は微塵も無かった。自身が最も愛おしく、より高みを目指したいと考えていた。
「へぇ。しっかりしてるね……。私とは正反対だ」
それは玲奈も感じていた。この女性は、自分とはおよそ対極の位置に居る。
そのぐらい離れている人間と、通常ならばつるまない。玲奈はこれまでの経験から、そりが合わないことは明らかだ。
しかし、だからこそ――きっと、惹かれた。
「先輩、ぶっちゃけ超暇してますよね? だったら……わたしと『いいことだけ』しません?」
玲奈はこの女性に、初めて笑みを向けた。相手の警戒心を解くために、満面の笑みを作った。内心では、ひどく下卑たものだった。
これまで、何人にも同じものを向けてきた。『彼女達』にそうだったように、この人間の未来もまた、玲奈は知ったことではなかった。どうなろうと、自分には関係の無いことだ。
高校生だった頃は、それで何度か痛い目を見た。だが、省みることなく、玲奈は初対面の名前も知らない女性に、そのような関係を求めた。
「私、ちょっと本を返してくるね」
女性は苦笑すると、本を手に席を立った。
逃げるわけでも、動じているわけでもないと、玲奈は理解した。玲奈も立ち上がり、彼女の後を追った。
女性の持っている本が本当にこの場所に返すものなのか、わからない。
広い部屋の隅、人気の無い本棚まで歩くと――女性は振り返り、優しく微笑んだ。背後の窓からは、柔らかな春の陽射しが差し込んでいた。
玲奈はそっと近づき、女性の両肩に手を置いた。そして、少しだけつま先を伸ばし、女性の唇に自分のものを重ねた。
ただのキスではない。舌を絡めるものだ。玲奈が求め、女性はそれに応じた。唇の柔らかさよりも、口内の温もりを感じた。
静寂の空間に、唾液の擦れる音が小さく響いた。きっと、ふたり以外の耳には届いていないはずだと、玲奈は思った。
「こんな所で……いけない子だね」
顔を離し、女性は伸びた唾液の糸を手の甲で拭った。
相変わらず、眠たげな瞳だった。やはり、動じている様子は一切無いと、玲奈は感じた。かといって、慣れているわけでもないようにも見えた。求めていたものが――大人の『余裕』があった。
「わたしは、いけない子ですよ。深堀はナシです。だから、これからも『いいことだけ』しましょうね……先輩」
玲奈は、何人たりとも
しかし、過去より性欲は切り離せなかった。だから、気に入った他者へはそれのみを求めた。
異性には興味が無く、同性が好きだった。ここで拒まれていたなら、それまでだった。
「わたし、外国語学部一年の蓮見玲奈です」
「私は文学部二年の安良岡……
海のような響きの名前だと、玲奈は思った。
同時に、受け入れて貰えたのだと理解した。
身体だけの関係の場合、直感以外に理由は要らない。
だからこそ様々な乖離が生まれ、玲奈は過去より対人で厄介事が絶えなかった。今回もそれらの危険性が伴うことは、敢えて考えなかった。刹那の満足だけで充分だったのだ。
そう。この時――別の意味で『痛い目』を見ることになると、玲奈は知る由もなかった。
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