第62話 女装男、壁を乗り越える。


「お、お姉さま‥‥!! 大丈夫ですかっ!!!!」


「え‥‥? 穂乃果、さん‥‥?」


 気が付けば、目の前に、心配そうな顔でこちらを見つめる穂乃果の姿があった。


 オレはそんな彼女の顔をボーッと見つめた後、ハッとして、パイプ椅子から立ち上がる。


「わ、私、どれくらい意識を失っていましたか!? 劇は――――」


「大丈夫よ。今はまだ中間の幕間アントラクト。他のエキストラ役の子たちが場を繋いでくれてるから、安心しなさい」


 声が聴こえてきた方向へ視線を向けると、そこには――壁際で腕を組んで立っている茜の姿があった。


 何かこいつ、ベ〇ータみたいな奴だな‥‥とか考えながら、オレは再び椅子に腰かけ、安堵の息を吐く。


 チラリと、壁に掛けてある時計へと視線を向けてみる。


 舞踏会の演技を終えて、幕間に入り、休憩時間を迎えてから‥‥おおよそ六分程度が経過しただろうか。


 どうやらオレは、長い間意識を失っていたわけではないようだ。


 オレのせいで劇が中止になってなどはいなくて、一先ず、一安心だな‥‥。


「――――――月代さんっ! お姉さまはどう見ても、もう限界ですっ! それなのに何故、お姉さまを解放してくださらないのですかっ!」


 突如、控室の中に、普段ほわほわしている穂乃果のものとは思えないほどの大きな怒声が響き渡った。


 オレは慌てて再び椅子から立ち上がり穂乃果へと顔を向け、開口する。


「ほ、穂乃果さん!? ど、どうかしたのですか‥‥って、あれ‥‥?」


 そう彼女に声を掛けた瞬間、オレは、地面に膝を付いてしまった。


 手の平を見ると、プルプルと小刻みに震えているのが分かる。


 穂乃果はそんなオレの近くに駆け寄ると、背中を撫で、心配そうな様子で声を掛けてきた。


「だ、大丈夫ですか!? お姉さま!!」


 オレは大きく深呼吸をした後、穂乃果に微笑みを向ける。


「‥‥大丈夫ですよ。少し、立ち眩みがしただけみたいです」


「そんなわけないです!! お姉さまは、もう、立っているのもやっとのはずですぅっ!!」


 そう叫び声を上げると、穂乃果は茜へと視線を向けて、キッと、鋭く睨みつける。


「月代さん! お姉さまを早く解放してください!!」


「‥‥‥‥柊 穂乃果。あんた、さっきからあたしに楓を解放しろとか言ってるけど‥‥まるであたしがそいつを縛り付けているみたいな言い草ね。まったく、勘違いも甚だしい話だわ」


「勘違い? 貴方は先程、私がお姉さまを病院にお連れしようとしたら、扉の前で通せんぼをしてきたではないですか!」


「そうね。だって今、いつを連れていかれたら困るもの。ジュリエットの代役なんていないし、楓がいなくなったら、この劇は全てが終わりになってしまうわ」


「ふ‥‥ふざけないでください!!!! 貴方は、お姉さまを殺す気なのですか!?!? お姉さまはもう限界なんですよ!? 今も、意識があるのがやっとの状態なのは見て分かったでしょう!?」


「でしょうね。そいつの体調がどんどん悪くなっているのには、あたしもずっと気が付いているわ」


「だったら――――――!!」


「あんた‥‥楓の演技を見て、何も感じなかったの? こいつが今、どんな想いで舞台の上に立っているのか‥‥それが分からないの?」


「そ‥‥れ、は‥‥」


「楓は、今、自分というものと戦っている。そいつは、舞台の上に自身の血をまき散らしながら、劇を成功させるために必死に苦しみに抗い続けているのよ。あんたにそれを止めるだけの覚悟はあるの?」


「‥‥‥‥」


 悲痛な表情をして、穂乃果は顔を俯かせる。


 オレはそんな彼女の頭を優しく撫でた後、立ち上がった。


「お姉さま‥‥?」


「心配してくださってありがとうございます、穂乃果さん。ですが‥‥ごめんなさい。私は、この劇、必ず最後まで演じ切りたいんです」


 血で彩った舞台は、血を吐き出した者が責任を持って幕を閉じなければならない。


 どんなに不細工な作品でも、観客から飽きれられ、誰からも見向きされない醜悪な作品でも。


 作り出した者は、世に産み出してしまった時点で、それを必ず終わらせなければならない責務が生じる。


「行きましょう、茜さん。そろそろ時間です」


「ええ」


 オレは穂乃果の横を通り過ぎ、茜と共に舞台へと向かって歩いて行く。


 壁を乗り越えるためには、苦しみながらももがき続け、恐れず前へと進むしかない。


 芸術の傍らには、必ず痛みがある。産み出すという行為には、必ず痛みが生じる。


 イップスがあるから苦しいのではない。


 本来、表現者という者は、身を削るような想いをして舞台の上に虚像を産み出しているのだ。


 ならば、オレだって‥‥役者の端くれとして、この痛みを抱えながら作品を産み出すことができるはず。


 イップス痛みを消すのではなく、イップス痛みを受け入れて、演技を続けていく。


 時間と共に心の傷は癒えると多くの人々はそう言うが‥‥そんなものは嘘っぱちだ。


 人を失った痛みは消えない。ならば、その痛みを受け入れるしか、前へと進む方法はきっとないのだ。


 ただの根性論でしかないかもしれないが、恐らくこのイップスという病を治す道は、そこにしかないとオレは思う。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「―――――良いかい、ジュリエット。ここに小瓶に入った薬がある。この薬は、魂を操る恐ろしい薬なのだ。お前にこれが飲めるだろうか」


 ロレンス神父役の穂乃果が、小瓶を取り出し、それをオレの前に見せてくる。


 物語は佳境。仮死状態となる薬を神父から受け取り、それを飲むことで、ジュリエットは一度死ぬことになる。


 そしてロミオは、ジュリエットが死んでしまったと勘違いし―――その場で命を絶ってしまう。


 悲恋の結末、クライマックスへと繋がる、大事なシーンだ。


「ロミオに会えるなら、私、なんでもします!!」


「ではお前は家に帰って、パリスとの結婚を承諾するのだ」


「!? そ、そんなこと、できません!! 私が好きなのは、ロミオだけです!!」


「最後まで聞きなさい。この薬を飲み干すとお前の体は硬くなり、死者の仮面を身にまとう。しかし1日後、眠りから覚めるかのように、蘇るのだよ」


「‥‥‥‥そんな薬が、この世にはあったのですね‥‥」


「今夜8時にこれを飲むと良い。そうすれば、体はたちまち硬直し、結婚の朝には死者の姿と成り果てるだろう。私が婚礼を葬儀に変えてお前を弔い、先祖代々の墓に納めよう。そして夜を待って墓を開き、お前を救い出した後―――2人で大公のもとに向かうのだ。もし聞き届けられない時は、お前も覚悟を決めなければならないだろうな」


「私の答えはとうに決まっております。その薬、有難く頂戴いたしましょう」


 小瓶を受け取る。


 少女は、愛する人のために、死を覚悟した。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 「やっと‥‥会えた」


 ロミオは、全身に怪我を負っていた。


 ジュリエットの葬儀に駆けつけるまで、キャピュレット家の衛兵に散々痛めつけられたからだ。


 だが、彼はようやく―――――愛する人の元へと辿り着く。


 倒れ伏すジュリエットの手を握り、ロミオは彼女の耳元で小さく囁いた。


「‥‥ねえジュリエット、2人はいつまでも一緒だって言ったじゃないか。それなのに、あんなに暖かかった体が、こんなに凍りついて‥‥ねえ、お願いだ、もう一度、目を開いてくれ! もう一度、その優しい声音で僕を呼んでくれ‥‥!」


 涙を溢し、ロミオはジュリエットの手を強く握りしめる。


「2人でどこまでも行こうって約束したじゃないか。橋の上で始めて逢って、舞踏会場で運命の再会を果たし、君が僕の名前を呼んでくれて‥‥とても胸が高鳴った。そして僕たちは誓いを立てて、2人で教会の鐘を聞いた。間違ったことなんて何もないのに、どうして‥‥どうして、こんなに現実は非情なのだろう」


 ロミオもとい茜は、オレにキスをする‥‥振りをする。


「ジュリエット、天国で幸せに過ごそう。これからは、いつまでもいつまでも一緒だよ。さぁ‥‥今、君の所に行くよ。おやすみ‥‥おやすみなさい」


 そして、彼は手に持っていた剣を喉元へと突き立て、自害をしたのだった。





 ――――――愛する人を失う苦しみというのは、耐えがたいものだ。


 母を失ったあの日、オレは、世界が真っ暗になるのを感じた。


 もう、オレを無償で愛してくれる存在はいない。もう、オレを認めてくれる存在はどこにもいない。


 そう考えると、胸が張り裂けそうになり、胸中を孤独感が埋め尽くしていった。


 自死を考えたこともあった。オレにとって親という存在は、母だけだったから。


 今のジュリエットと、あの頃のオレは、恐らく、重なるものがある。


 愛する者を失った悲しみ、死を求めるほどの絶望感。


 それを真に表現するのであれば、過去の自分を掘り起こさなければならないのは必然だろう。


 敢えて、トラウマを蘇させる‥‥もしかしたらその場で気絶してしまうかもしれないし、また、情けなく吐き出してしまうかもしれない。


 だが‥‥その痛みこそが、この場では、本物のジュリエットの絶望と成り変わる。


 逆に、このイップスを、痛みを、利用してやる。


 オレは、この舞台を‥‥最後まで血で彩っていく。


「――――お早う、ロミオ。今、唇が暖かったのを感じたの。私、夢を見ていたのかしら」


 上体を起こし、辺りを見まわす。だが‥‥そこには暗闇しかない。


 オレは――ジュリエットは、不可思議な現状に首を傾げつつ、状況を整理する。


「暗くてよく分からないわ。あっ‥‥そ、そうだわ! 私、神父様の薬を飲んで、埋葬されたんだった! 怖かった‥‥もう二度と起きられないかと思ったけれど、ちゃんと目を覚ますことができたのね。ああ、後はロレンス神父を待って、2人でエスカラス大公の元に向かって、すべてを認めて貰えれば、きっと私はロミオと一緒になれるんだわ。もう、待ってなんかいられない! 今すぐ神父様を探しに行きましょう!」


 ジュリエットは立ち上がる。その瞬間、彼女はその場で何かに躓き、転倒する。


「な、何、今のは‥‥? ‥‥ッ!? だ、誰か倒れている!? まさか、神父様!?」


 隠れていた月明かり(スポットライト)が差し込み―――ロミオの遺体を、白日の元に晒しだす。


 その光景を見て、オレは‥‥涙を流しながら、地面にドサリと、膝を付いた。


「嫌、嫌っ! ロミオ、ロミオ!」


 ロミオの遺体を抱きかかえ、その白い顔に涙をポタポタと落としていく。


「なんで‥‥起きてよ、ロミオ。血が、こんなに‥‥な、なんでこんなことに‥‥ねえ、ロミオ、ロミオ!!」


 ジュリエットはロミオの身体をゆするが、当然、彼が目覚めることはない。


 目の前にある死を、目の前にある絶望を、オレは、敢えて母の死を思い返すことによって‥‥虚構を現実へと変えていく。


 心臓が痛いくらいに胸を打っている。吐き気がする。これ以上、演技をするなと、身体が悲鳴を上げているのが分かる。


 だが、それで良い。ことこの場においては、その苦しみは、痛みは、ジュリエットの嘆きと同調し、よりリアルな演技を際立たせていくものへと変化していく。


 この舞台は、血肉を削って造り出した呪いの舞台。


 死というものへの恐怖と、絶望を、あますことなくこの場で爆発させてやるとしよう。


「せっかくうまく周囲を欺けたのに‥‥ッ!!!! なんで、なんで私を置いて行っちゃうの!!!! 起きてよ、ロミオ!!!! 一緒にどこまでも行こうって、いつまでも2人で暮らそうって約束したじゃない!!!! さよならの挨拶もなしで私を残して行かないでよ!!!!!! 私を一人に‥‥しないでよぉっ!!!! バカァ!!!!!」


『―――――ごめんね、楓馬。私ね、もう長くないと思うの』


「私、貴方に会うために、仮死の薬まで飲んだというのに‥‥目が覚めたら幸せが待っているって、それだけを信じて眠りについたのに‥‥!! なんで、なんでこんなに歯車が狂うの‥‥!!」


『‥‥楓馬、これからはお母さんだけじゃなくて、他の人を喜ばせられる役者になりなさい。貴方は、目に見えないたくさんの人たちを元気にさせられる力があるの。それって、とっても凄いことなのよ? たくさんの人たちが、画面の向こう側で、貴方の演技を楽しみに待っているの。だから、頑張りなさい』


「神様、私、何か悪いことしたの!? こんな非情な運命さえ無ければ、私たちは、手を取って抱きしめ合えたのに!! もう‥‥もう、こんな世界なんていらないっ!! もっと綺麗な世界がいい!! ロミオ、ねえロミオ、置いてかないでっっ!!」


『楓馬。大丈夫よ。私が亡くなっても、それは、目に見えなくなるだけのことだから』


「私も一緒に行く!! あなたと一緒に行く!! 争いのない綺麗な空の上で、2人でいつまでもどこまでも歩いていくの!! ロミオ、ロミオ!!」


『私が例え死んで、灰になったとしても。私がいるのはお墓やお仏壇の前じゃない。私はいつも、貴方の傍にいるのよ、楓馬。常に、貴方のことを見ている。だから‥‥だから、お父さんを超えるような、すごい役者さんになりなさい。貴方ならできるわ。ファン一号である私が保証する。私に貴方の輝かしい未来を見せて頂戴、楓馬』


 オレは、ロミオの握っていた剣を手に取り、それを‥‥腹部へと突き刺した。


「痛い‥‥痛い痛い痛い!!!! でも、これで、また貴方に会える。すべて無くなっても、二度と帰ってこなくても、私はずっとあなたのそばに居る。ずっと、ずっとあなたの隣で笑っているの。お休‥‥み‥‥お休みなさい、ロミオ‥‥」


『楓馬、ばいばい』


 ロミオを抱き、涙を流しながら、オレはゆっくりと瞼を閉じる。


 母が、どこかでオレに別れの言葉を呟いた気がしたが‥‥幻聴、だろうか。


 まぁ、どちらでもいい、な‥‥。もう、疲れた‥‥。


 こんなに苦しい演劇、産まれて初めて経験したものだったけれど、どこか、気持ちが良いな。


 何故だかは分からないが、晴れやかな気持ちだ。


「‥‥さよ、う、なら‥‥ロ‥‥ミ、オ‥‥」


 いつの間にか、ずっと背後から聴こえてきていた怨嗟の声は無くなっていた。


 代わりに聴こえてきたのは‥‥目の前の観客席から轟く、歓声の声だった。

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