16 気にする人、しない人

保健室の先生視点 1

 いつかぶち当たる悩みだとは思っていた。そんなことは、もちろん彼女だってわかっていただろう。


 保健室に現れた彼女は、いつもよりも落ち込んでいるようだった。


『まぁ……』彼女の答案用紙を見ながら、私は言う。『いむさんにとっては、母国語じゃないもんね……』


 韓国からの転校生いむ盧羅のら

 彼女が転校してから、初めてのテスト。


 問題文は日本語。しかし彼女は日本語がわからない。


 当然……点数が良いわけもない。赤点の教科が多数だった。


 とはいえ……


『英語は86点……』


 英語のテストとはいえ、問題文の指示は日本語だ。その部分は読めていないのに、86点。

 英語の部分から推測したのだろう。このことからも、いむさんの頭の良さが伝わってくる。


 さらに……


『他の教科も、0点じゃない』10点前後だけれど……問題はそこじゃない。『しっかり、理解しようとしてるね』


 彼女はほとんど日本語を知らなかった。その状態から、かなり勉強したのだろう。高校レベルの問題に、対応しかけている。


 この調子なら……次の試験のときに赤点はなくなるのではないだろうか。それほどの成長具合だった。


 答案用紙に書かれている、拙い日本語から彼女の努力が伝わってきた。


 とはいえ赤点は赤点。彼女は落ち込んでいる。


『そんなに落ち込まなくても……うちの追試は、問題はまったく同じだから』基本的には留年する人を出さないような、救済措置に近い。『この調子なら大丈夫。追試はきっと通るよ。不安なら、私も手伝うし』

『……ありがとうございます……』


 うーむ……かなりヘコんでいる。イスに座ってうつむいたままだし……

 この状態では、機械翻訳の彼の話題でも落ち込んだままだろうな……


 きっと彼女は、今までの成績がかなり良かったのだろう。だからこそ、今回の結果に落ち込んでしまっている。


 ……そんなに落ち込まなくてもいいのに……彼女ほど頭が良ければ、高校の試験の成績が1つくらい悪くても影響はない。


『点数が低いのは、予想してたんですけど……』不意に、彼女が語り始めた。『ちょっと……自分の甘さに、驚いて……』

『……甘さ……?』

『……もっと、できたはずなんです。日本語をもっと勉強して……いえ、クラスメイトともっと積極的にコミュニケーションを取れば……今頃、もっと日本語が理解できて……』


 それはそうかもしれない。

 言語を身につけるには、やはり使うのが手っ取り早い。クラスメイトと毎日、日本語で会話していれば、今回のテストの成績だって変わったかもしれない。


『でも……私は怖がってばかりで……』涙を堪えるように、彼女は顔を歪めた。『私が話しかけても迷惑だろうし……どうせ通じないって、嫌われるって言い訳ばかりして……私から誰かに話しかけたことなんてなかったんです』


 それは多くの人がそうだろう。同じ国の人と話すのも大変なのに、言語が違えばさらに労力は多くなる。

 教員がサポートするべきなのだけれど……その教員だって人間だ。言葉の通じない生徒が、怖かったのだろう。


『私が、甘いんです……』静かに、彼女は涙をこぼした。『だから、もっと頑張らないと……今の苦しみは、甘えだから……』


 ……自分に厳しい人なんだな……だからこそ、彼とのとりとめのない会話が安らぎなのかもしれない。


 それにしても……苦しみが甘え……


『苦しみに甘えとか、関係ないよ』常々思っていたことである。『今重要なのは……キミが泣くほど苦しんでいるということ。それ以外はどうでもいい』


 苦しみの原因が本人の甘えなら、その苦しみは無視していいのだろうか。

 そんなわけはない。苦しみは苦しみだ。どんな原因であれ、苦しいことが問題なのだ。


 それに……本人にとっては甘えじゃない。多くの人間が甘えだと思う事柄でも、本人には大事なのだ。だから苦しんでいるのだ。


 問題の解決とか、原因とか……とりあえず後回し。


 重要なのは、今の苦しみを和らげてあげること。


『今が苦しいんなら、助けを求めていいんだよ』


 それだけのこと。なにも難しく考える必要はない。甘えだとか……そんなことはどうでもいい。


『……』いむさんは私の話をしっかりと聞いて、しばらく下を向いていた。『あの……先生……』

『なに?』

『ちょっと……』いむさんは恥ずかしそうに、『抱きついても、いいですか?』

『どうぞ』


 少し驚いたが、それを表情に出してはいけない。当然のように受け入れるべきだ。


 それからゆっくりと、いむさんは私に抱きついた。その身体は震えていて、彼女の苦しみが伝わってきた。


 ……なんでこんな若い子が、苦しまなきゃいけないのだろう。子供なんて未来に希望だけを抱いていればいいのに。大人が絶望ばかり教えるから、こうやって苦しむことになる。


 テストの成績は、結果に過ぎない。今まで苦しんできたものが溢れ出したきっかけに過ぎない。


 本来成績なんて、そこまで気にするほどのことじゃない。別に成績くらい悪くたって問題はない。


 とはいえ……


 まったく気にしないのは問題だけれど。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る