第37話 海から来るは海坊主



 クラーケンに海の中に引き摺り込まれた時、私は蛍マグロを見ている。

 蛍マグロとは、頭のてっぺんが蛍のように光る大型の回遊魚で、煮付けやお寿司やお刺身にすると絶品である。

 昔は生魚は、採れたてのものしか食べることができなかったので、マグロ丼と出会えるのは港町ぐらいだったけれど、徐々に技術が発達した今となっては王都や公爵領にも蛍マグロの切り身が出回るようになってきている。

 私が初めてマグロ丼を食べたのは、学園の食堂である。

 お魚の切り身がこんなに美味しいのかと、感動したことを覚えている。

 それ以来ユリウス様を見るたびに、マグロ丼を思い出す体質になってしまった。

 マグロ丼も美味しかったけれど、牛丼も美味しい。結局白米の上に何か乗っけて食べるのが、一番美味しいのである。

 アリアネちゃんは米よりもうどん派なので、「温泉卵のせ釜揚げうどんが一番美味しいのですわ」と常々言っている。

 ちなみにユリウス様は「リコリスの姿を眺めがら食事ができるのなら、食事の内容などはなんでも良い」らしい。


「さて、釣りをしましょう。神竜の剣は釣り竿になどはなれますか?」


 私は料理が一段落したので役目を終えていた神竜の剣を胸から取り出して、尋ねてみる。

 私の胸からすらりと引き抜かれた神竜の剣は、待っていましたと言わんばかりに、立派な釣り竿に形を変えてくれた。


「釣り竿も武器なのですね、ヴィルヘルム。ありがたいですけれど、釣り竿で戦うことができますでしょうか」


「戦えるだろう。釣り竿でも。十分戦える」


「武器というのは、奥が深いですね」


 ユリウス様の肩にちょこんと乗っているヴィルヘルムが、訳知り顔で「釣り竿は先に針がついているからな」と言っている。

 確かに神竜の釣り竿の釣り糸の先端には、凶悪に尖った針がついている。

 アリアネちゃんは私の体から剣がにょきっと出てきたことについては、あまり驚いていなかった。

 にこにこしながら、「神竜に選ばれし神竜の乙女のお姉様は、聖女の私と一心同体」と喜んで、ユリウス様を悔しがらせていた。


「さぁ、お姉様。アリアネの聖女ミラクルパワーを見せつけるときがきましたわ! 餌もつけずに、蛍マグロを見事釣りあげて見せましょう!」


「それは果たして釣りと言えるのか、疑問ではありますが、使えるものは何でも使え、遠慮はするな! と、ルーベンス先生も言っていますし、お願いしますね」


「俺が海に潜って、蛍マグロを生け捕りにしてきても良いんだが」


「せっかくアリアネちゃんの聖女ミラクルパワーがあるのですから、ユリウス様は少し休んでいてくださいな。四つ首ダチョウやクラーケンと戦って頂きましたし」


「俺が格好良い所を、もっとリコリスに見せたい」


「もう十分格好良いので大丈夫です」


 これは本心から、そう思っている。

 ユリウス様は素敵だ。波風になびく赤髪も、すり切れた軍用コートが似合う立派な体躯も、全て素敵。

 私が褒めると、ユリウス様は嬉しそうに「そ、そうか」と言って、にっこりした。


「恋愛脳王太子殿下撲滅脳天チョップの出番ですわね」


「アリアネちゃん、ごめんなさい。お姉様も恋愛に現を抜かしていました。お姉様にもチョップをして良いですよ」


「恋する乙女のお姉様は天使のごとく愛らしいので推定無罪、無罪確定です」


 アリアネちゃんは私に甘い。

 それもこれも、多分幼いときからまともな家族、と呼べる人間が私しかいなかったからだろう。

 お父様は、アリアネちゃんが産まれた時にお母様が亡くなったことを理由に、アリアネちゃんを疎んでいた。

 私たちの世話をしてくれた老執事も、心労がたたってか、私が六歳になると体調を崩して亡くなってしまった。

 それからは、姉妹二人きり、なんとか生きてきた。

 あの頃の私は、借財の整理をしているか、飲んだくれて気が大きくなりカジノで散在しては、高利貸しに借金を作るお父様を叱るか、うどんを練っている記憶しかない。

 アリアネちゃんはそんな私を見て育っている。

 だから、今も私をとても大切に思ってくれるのだろう。


「お姉様が流刑になった暁には、昔のように姉妹二人きりで、誰にも邪魔をされない生活を送れると思っておりましたのに、お義理兄様もしつこいですわね」


「当たり前だろう。俺のリコリスへの愛は、この海よりもずっと深い。リコリスがどこに行っても、必ず追いかけて、見つけ出す」


「とんだストーカーですわね」


「……そ、そうなのか? リコリスは俺のことをそのように思って……?」


「ユリウス様、大丈夫です。ストーカーとは一方的に好意を押しつけてくる方のこと。私はユリウス様のことを、キャンプとアリアネちゃんと同じぐらい大切に思っているので心配ありません」


「リコリス!」


「リコリス、俺の名が入っていない!」


 ユリウス様とヴィルヘルムの声が重なった。

 私が「ヴィルヘルムも好きですよ」と言ってヴィルヘルムを宥めている間に、アリアネちゃんは「男というのはどうしようもないですわね」などとぶつぶつ言いながら、岩場の先端から海に向かって釣り糸を投げて垂らした。

 黒いサングラスをかけて、エナメルキャットスーツを着て釣り糸を垂らすアリアネちゃん。

 絵画に残したいぐらい神々しい聖女の姿だ。

 いつの間にかお帰りになっていた森の動物たちが再びやってきて、「アリアネ、聖女、アリアネ、皆の味方、釣り上手」と人語で歌い始めている。

 ――そうして、奇跡が起った。

 アリアネちゃんが海に釣り糸を垂らした途端に、大きく波の飛沫が上がり、波の飛沫と共に空に跳ね上がった蛍マグロの大群が、雨ぐらい大量に空から降ってきた。

 蛍マグロはかなり大型の魚なので、空から降ってきた蛍マグロが頭に当たったら致命傷になる。

 けれど、蛍マグロたちはきちんとアリアネちゃんと私たちを避けてくれている。

 岩場に打ち上がって、びちびち跳ねる蛍マグロの皆さんを、私は唖然と見つめた。

 知ってはいるのだけれど、いざ目にしてしまうと、聖女ミラクルパワーには驚くばかりである。

 そして――蛍マグロは空から振ってきたのに、アリアネちゃんの持つ竿は、大きくしなっている。


「これは、大物ですわ……! お義理兄様、お姉様、私が海に持って行かれないように支えてくださいまし!」


 アリアネちゃんがベテラン釣り師の貫禄で、私たちに言った。

 私はアリアネちゃんの腰に腕を回して、ユリウス様が私の背後から、私とアリアネちゃんを抱きしめるようにして支えてくださる。

 ちょっとときめきそうになったものの、釣り竿の圧が凄くてそれどころじゃなかった。

 アリアネちゃんが海に落ちないように必死で支える。

 アリアネちゃんは神竜の釣り竿のリールを、聖女パワー(筋力)でぐるぐると回し、竿をひく。

 蛍マグロの比ではないぐらい、大きな魚影が、不穏な影となって、岩場の向こうの海に浮かび上がってくる。

 大波が押し寄せて、アリアネちゃんが竿をひく。

 ざばんとあがる高波とともに、魚の姿があらわになる。

 それは――巨大なクジラだった。

 まさしく海の王様というべき、堂々たる黒い体躯。姿勢のある瞳。

 釣り針はクジラには刺さっていない。クジラの上に乗っている『何か』が、釣り針を掴んでいる。

 その何かは――禿頭で、筋骨隆々な、逞しい大男である。


「ルーベンス先生……!」


 まさか、まさか、ルーベンス先生がクジラに乗って海から現れるなんて、予想もしていなかった。

 私が名前を呼ぶと、ルーベンス先生は確かに私をしっかりと見据えて、サムズアップしてくださった。

 ルーベンス先生の後ろには、ちょこんと座る、メスティン・ユマお姉さんの姿もあった。


 

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