第32話 聖女は肉体派



 それはパラシュートだった。

 ユリウス様の一人用浮遊装置は翼の形をしているけれど、飛行船から降りてきたその人物の背中にあるのは、白に赤い花柄の愛らしいパラシュートである。

 パラシュートは、砂浜に綺麗に着陸した。

 ふわりと広がって、砂浜に落ちて萎むパラシュートの先には、小柄な少女の姿がある。


「お姉様ああああっ、不純異性交遊撲滅聖女フライングドロップキック!」


 腰や腕を固定しているパラシュート固定具を外しながら私の元へ、愛らしい女の子走りで駆け寄ってくるアリアネちゃんに、私は両手を広げた。

 アリアネちゃんは私を通り過ぎ、綺麗な流線形を描きながら私の隣に座っているユリウス様に向かって真っ直ぐにドロップキックを放った。

 ユリウス様を蹴った反動でアリアネちゃんが空に舞う。

 そのままくるくると三回ほど宙返りをして、アリアネちゃんはストン、と華麗に砂浜に着地した。


「お姉様!」


 嬉しそうに破顔するアリアネちゃんの瞳には、大粒の涙が浮かんでいる。

 いくつになっても甘えん坊さんな私の妹のアリアネちゃんの姿だ。

 たった二日離れていただけなのに、とっても懐かしく感じる。

 頭の高い位置で、二つに結ばれたミルクティー色のふわふわの髪は、小型犬を連想させる。

 こぼれ落ちそうな大きな瞳は薄桃色で、白い肌は薄く紅色に色づいている。

 可憐で小さな唇と、真っ直な鼻筋に小さめの鼻。

 愛らしさの権化である私の妹、聖女アリアネちゃんは、お気に入りの真っ黒な全身のスタイルが丸分かりのエナメルキャットスーツに身を包んでいた。

 腹から胸までを一直線のジッパーで閉めるタイプのエナメルキャットスーツは、アリアネちゃん曰く『聖女の普段着』である。

 アリアネちゃんが足元にヒールのついたキャットスーツを普段着として着用するようになったのは、深いわけがある。

 何故かといえば、アリアネちゃんお気に入りのアニメ、『侠気プロレス一本道』に出てくる女怪人『キャットファイトクララ』の衣装が黒いエナメルキャットスーツだからだ。

 キャットファイトクララの服が着たいと言ってさめざめと泣くアリアネちゃんのため、私は衣装職人を呼び寄せて、特注のエナメルキャットスーツを作った。

 なけなしの公爵家の貯蓄を全額はたいても、アリアネちゃんの夢を叶えてあげたかった。

 あれは、アリアネちゃんが十歳を過ぎたばかりの頃だろうか。

 それ以来、アリアネちゃんは年に一回はエナメルキャットスーツを新調して、普段着として身に纏っているというわけだ。

 オリアニス公爵領では、『エナメルキャットスーツを着た正義の聖女』として、アリアネちゃんは日々悪党に聖女腕ひしぎ十字固めを行う生活を送っている。

 今やオリアニス公爵領で、アリアネちゃんの姿を知らないものはいない。

 アリアネちゃんの姿を模したエナメルキャットスーツ聖女人形は、女児に大人気だ。


「アリアネちゃん、ユリウス様に訳もなく聖女フライングドロップキックをしてはいけませんよ。ユリウス様は頑丈ですが、痛いものは痛いのですからね」


 私の胸に縋り付くようにして抱きついてくるアリアネちゃんを受け止めながら、私は言った。

 ドロップキックと一緒に繰り出された全てを浄化する聖女雷光が、ユリウス様の軍用コートを焼いて、プスプスと胸元から煙が立っている。

 ユリウス様は体のダメージをすぐに修復することができるけれど、お洋服はそうはいかない。

 ユリウス様の胸元はアリアネちゃんに焼かれたせいでざっくりと開かれて、たくましい胸板が露わになっていた。

 なんてしどけなく艶やかな姿なのかしら。

 恋を自覚した私は、ユリウス様のたくましい胸板から視線を逸らして、頬を染めた。

 アリアネちゃんはそんな私を、じいいっと低い位置から見上げる。


「お姉様、お姉様の胸の鼓動が普段よりも三割早まっておりますわ! どういうことですの、お義理兄様の素肌を見た途端に、愛らしく頬を染めて、どきどきなさるなんて、お姉様はまさか……!」


 見開かれたアリアネちゃんの大きな瞳から、朝露のように涙が散った。


「私のいなかったこの数日で、お姉様はお義理兄様に、十八歳未満の青少年は買ってはいけない薄い本のようなことをされたのでは……!?」


「アリアネ、品性のない勘ぐりはやめろ。俺が大切なリコリスにそんなことをするわけがないだろう!」


 ぎろりとユリウス様を睨みつけるアリアネちゃんに、ユリウス様は狼狽えながら怒った。

 ユリウス様も私を助けにきてくださったときに、ヴィルヘルムが私に何かしたのではないかと言っていた気がするけれど、私を心配してくれていると思えば有難いことだ。


「わかりませんわ! お義理兄様、私がいないのを良いことに、可憐にして清純にして気高く誰よりも尊い私のお姉様に、獣の本能を剥き出しにしたのでは! 許しませんわ、アリアネの聖女パイルドライバーの出番がとうとうやってきてしまったようですわね」


「何をしにきたんだ、アリアネ。俺とリコリスの邪魔をしにきたのか。良いか、アリアネ、俺とリコリスは、新生リコリス帝国の初代皇帝夫婦になる。俺はリコリスを大切にしているからな、不用意に触れたりなどはしないが、将来的には夫婦になるのだから、お前に文句を言われる筋合いはない」


 ユリウス様が、腕を組んでアリアネちゃんを睨み返す。

 まだユリウス様には余裕があるようだ。口調がいつも通りなので。

 アリアネちゃんがあまりにユリウス様に絡む時は、流石のユリウス様も「黙りやがれ、聖女! お前の趣味の悪いキャットスーツを騎士団の制服にして、お前と筋骨隆々な加齢臭のする中年たちをペアルックにしてやるからな!」などと言っておキレになることがある。

 アリアネちゃんは、これを言われると弱い。

 なんせエナメルキャットスーツはアリアネちゃんにとっては、憧れのキャットファイトクララの象徴なので、騎士団の制服にされるわけにはいかないのだ。

 ビシッとユリウス様に言い切られて、アリアネちゃんはえぐえぐ泣きながら悲鳴をあげた。


「いやぁああ! 私のお姉様について不埒な想像をするだけでも罪深いのに! 変態、獣、最低ですわ!」


 悲鳴をあげるアリアネちゃんの背中を撫でて、どうどう、と宥めた。


「アリアネちゃん、落ち着いてください。そんなことよりアリアネちゃん、はじめましてなのできちんとご挨拶をしましょうね。こちらはヴィルヘルム。神竜のひとり、白竜ヴィルヘルムです」


「……お前がラキュラスの聖女か」


 ヴィルヘルムは、アリアネちゃんが怖いのか、ユリウス様の腕の中にすっぽりとおさまりながら言った。

 ヴィルヘルムはずるくないだろうか。

 ユリウス様の腕の中にいるべきは、婚約者の私なのではないかしら。

 私はちょっとムッとした。

 ヴィルヘルムの今日の朝食は卵の殻にしよう。それが良いわね。


「はじめまして、私はアリアネ・オリアニスですわ。全お姉様だけの、全お姉様を守る聖女、キャットファイトアリアネとは私のことです」


「お前たち姉妹は、妙な通り名がないと気が済まないのか」


「それは、俺の愛しのアイドル、スキレット・リコリスのことですか、親父殿」


「お前もきちんと認識しているのだな。偉いな、ユリウス」


「当然です。リコリスは常に俺の心の中で燦然と輝く俺だけのアイドルですから」


 ヴィルヘルムとユリウス様が何やらこそこそと話している。

 ユリウス様と内緒話をするとか、ヴィルヘルムはずるいのではないかしら。

 ヴィルヘルムの今日の朝ごはんは、ぶつ切りクラーケンにしよう。

 きっとゴムタイヤみたいな味がするに違いない。

 私は先ほどから感じている苛々を落ち着かせるために、青い空を見上げた。

 どうして大自然の中にいるのに、苛々しているのかしら、私。

 恋というのは、困ったものね。


「白竜ヴィルヘルム……、ラキュラス様の記憶の中にありますわね。白、赤、青、黒。四体の神竜。国を守る大いなる力。つまり、ヴィルヘルムはラキュラスの聖女である私の守護者」


 アリアネちゃんが私の胸に頬をぐいぐい押し付けながら、生真面目な口調で言った。

 ヴィルヘルムにきちんと挨拶ができる、ちゃんと聖女という自覚のあるアリアネちゃん。偉いわね。


「あぁ。聖女を守るため、神竜の乙女を選定し力を授けるのが、俺たちの役割だ。そして俺は、白竜の乙女に、リコリスを選んだ」


「なんていうことですの! お姉様が、白竜の乙女!」


「ええ。ふつつかな白竜の乙女ですが、よろしくお願いしますね、アリアネちゃん。今まではアリアネちゃんに守ってもらってばかりいたお姉様だけれど、今度は私がアリアネちゃんを守りますね」


「お姉様! やはり私とお姉様は運命の赤い糸でぐるぐる巻きにされているに違いありませんわ! そこのお義理兄様の入り込む隙などないほどに! 新生リコリス帝国の初代皇帝になるお姉様を支えるのは、この私! お義理兄様にはその辺のオブジェの役割を与えて差し上げましょう」


「アリアネ、先にリコリスを見つけたのは俺だ。流刑にされたリコリスの元に真っ先に駆けつけたのは、俺。遅れてきたくせに、新生リコリス帝国の重要な地位につけると思うな。そもそも、お前がリコリスに罪をなすりつけたのではないか?」


 ユリウス様が、疑いの視線をアリアネちゃんに向ける。

 アリアネちゃんがそんなことをするわけがないのに。

 私は流石に、ユリウス様に文句を言おうかと口を開いた。

 けれどその前に、アリアネちゃんが「どうしてそれを……!」と、はじまって四十分経ったぐらいのサスペンスドラマの犯人みたいな表情で言った。



 


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