第29話 王妃様と側妃様
呼吸の音さえ聞こえてくるぐらいに近くに、ユリウス様がいる。
生地の厚い軍用コートごしに、ユリウス様の体に浮き出た骨の感触や、硬い筋肉の感触を手のひらに感じる。
ユリウス様はなにか――とても大切な話をしようとしている。
それは己の身を切るほどに、痛い、なにか。
(ユリウス様は、私を守ってくださったことも、私がユリウス様を天使だと言ったことも、今までずっと隠し続けていたのよね……)
私がユリウス様なら、それはとても辛いと思う。
私なら、言ってしまいたいもの。
ユリウス様が守ってくださったことも、大切な言葉も全て忘れてしまった私に、愛の言葉を伝え続けてくださった。
心の奥底にある誰にも触れられたことの無い柔らかい部分を、優しく割り開かれているぐらいに、切なく苦しい。
それぐらい――ユリウス様が、愛しい。
大きな体が、いつも威風堂々としている姿が、今は幼い少年のように頼りなく小さく感じられる。
ともすれば震えているのではないかと感じられる背中を、さらりと指をすり抜けていく髪を、何度も撫でた。
私の手のひらは小さすぎて、ユリウス様を包み込むことさえできないけれど、それでも、大丈夫だと伝えたい。
今の私は、どんなユリウス様でもきっと、好きだと思えるのだろう。
「誰にも伝えず、墓場までこの秘密を抱えて生きていくのだと思っていた。それで良いと思っていた。俺を認めてくれたリコリスの言葉があれば、それで良い。俺だけが、その言葉を知っていれば良いと」
「私は、知りたいと思います。そして、知っていたかった。幼いアリアネちゃんの力の暴走から、私を守ってくださったこと。それから、アリアネちゃんを、私を殺める罪から守ってくださったこと。私が、ユリウス様のことを天使のようだと思ったこと」
私に覆い被さったユリウス様の背中には、骨を組み合わせたような大きな翼がはえている。
その翼は、アリアネちゃんの聖女ビーム(アリアネちゃんは聖女ビームと呼んでいるけれど、実際にはもっときちんとした名前があると思う)で、焼かれて爛れて、溶けていく。
苦痛にうめきながらも、ユリウス様は私を庇うことを止めなかった。
焼かれて溶けても、すぐに自己回復能力のお陰で体の欠損は元に戻る。それが焼けただれることを何度も繰り返す。終わらない苦痛の中で、ユリウス様は私を守り続けている。
私はただ、ユリウス様を見上げていることしかできない。
やがて聖女の力を使い果たしたのか、それとも疲れ果ててしまったのかわからないけれど、アリアネちゃんは地べたに座り込んで、泣きじゃくりはじめた。
私は安堵の表情を浮かべるユリウス様にお礼を言ったあと、アリアネちゃんに駆け寄った。
それから、騒ぎを聞きつけてやってきた護衛の方々に、ユリウス様は何か指示をした。
薄ぼんやりと思い出すことができた私の記憶は――ぷつりと、そこで途切れている。
覚えていればきっと、私はもっと早く、ユリウス様に恋をしていただろう。
けれどその記憶は私の中からすっかり失われてしまって、私はアリアネちゃんではなくてユリウス様が私の婚約者になったことに、どうしてなのかしらと、首を傾げ続けていた。
オリアニス公爵家の財政状況を立て直すのに協力をしてくださったり、援助をしてくださるユリウス様のことを、優しくて良い方だとは思っていた。
けれど、それだけだった。
今までの私は、あまりにも不実だっただろう。
だから、今からでも遅くない。
気持ちを伝えなければ、後悔してしまうかもしれない。
ユリウス様は豪快だけれど、それと同じぐらい繊細な方なのだろう。
その繊細さのために、いつかどこかでボタンが掛け違えられて――ユリウス様を失ってしまうことに繋がるかもしれない。
そんな不安が、胸をよぎる。
「リコリスが俺を認めてくれるまで、俺は人前では力を使わないようにしていた。俺は俺自身のことを化け物だと思っていて、……アリアネが俺を悪魔だと指摘したことも、当然だと感じた。聖女には、俺の本質が、一目見ただけで解ってしまうのかと」
「どうして……? 魔力も、武力も、人を守るための力。どんなに強大な力でも、使い方さえ間違えなければ、それは素晴らしい才能です」
「生まれつきその力を持っていたとしたら、俺もそのように自分を肯定できたかもしれない。だが、俺の力は紛い物。後天的に、強制的に与えられたものだ」
「強制的に?」
ユリウス様は抱きしめていた私の体を、そっと離した。
その体を抱きしめることができない変わりに、私はユリウス様の両手を、包み込むように握りしめる。
伏せられた瞼からのびる思いのほか長い睫が、頬に影を落としている。
焚き火の炎が揺らめくたびに、陰影が、形をかえていく。
全てを飲み込むような黒々とした海に、星の明かりが落ちて、煌めく。
木々のざわつきも、波の音も、今はどこまでも遠い。
「俺の父、国王フレデリック・ヴァイセンベルクには、二人の妃がいるだろう。俺の母、正妃であるニーナ・ヴァイセンベルクと、レヴィナスの母、ルイゼ・ヴァイセンベルク」
「ニーナ様は、元々はクラインシュミット王国の一の姫で、ルイゼ様はヴァーグナー伯爵家の次女でしたね」
「あぁ。父と母は政略結婚だ。ヴァイセンベルクとクラインシュミットの繋がりを深めるための。とはいえ、クラインシュミットの方が国力も軍事力も我が国より遙かに上。父は、ニーナの輿入れを断ることなどできなかった」
「それは、クラインシュミットには何かの利があるのですか?」
「ヴァイセンベルクは、ラキュラスの涙に聖女が力をそそぐことにより、強い守護の力が国にもたらされている。それは他国からの侵略を阻むもの。我が国の国土はさほど広くは無いが、聖女と神竜、二つの守護によって守られている。クラインシュミットはその力を欲しているのだろう。だが」
ユリウス様はそこで一度言葉を区切り、ふと息を吐き出した。
まるでそれは、心の底にあるよどみを吐き出すような仕草だった。
「恐らくはもっと単純な話で、ニーナは父が好きだったのだろう。強引に正妃の座に収まりはしたものの、フレデリックの心はニーナにはなく、すぐにルイゼを側妃に迎えた。フレデリックはルイゼと愛し合っていたのだろうな。ニーナと婚姻を結ぶよりも、ずっと以前から」
「そうなのですね……、お母様が早くに亡くなってしまったからでしょう、私はそのような話には疎くて。それでは、ユリウス様はお辛い思いをなさったでしょう。私は何もしりませんでした。ユリウス様、ごめんなさい」
「謝る必要は無い。両親の愛憎など、俺たちには関係の無いことだ。だが、城の中にいるとそういうわけにもいかない。俺が産まれて、ほどなくしてレヴィナスも産まれた。ほぼ同時期に王妃と側妃が御子を産んだのだから、……当然、ニーナは怒り狂ったようだな」
昔を懐かしむように、それから少々呆れたように、ユリウス様は言った。
包み込んだ手のひらが、微かに震えている気がした。
遠くから記憶を眺めるようにしてユリウス様は話をしてくれている。
それは多分、記憶に飲まれないように、自分を律し続けているからだろう。
「フレデリックは、愛するルイゼの息子のレヴィナスに、王位を与えたかったようだ。王の側近達も、同じ意見だったようだな。他国の血が混じった俺を王に据えることは、まるでクラインシュミットの属国にされたようで嫌だったのだろう。ニーナの後ろには大国がある。当然、そんなことをしたらクラインシュミット王国は怒り、戦争になってしまう可能性もある」
「それはそうです。国王陛下も側近の皆様もどうかしています。どんな事情であれ、ニーナ様は正妃。ニーナ様のことも、ユリウス様のことも大切にするのが、正道というものでしょう」
「そこに感情が加わると、正しさも歪んでしまうのだろう。都合の良いことに、俺には王となる資質に、欠陥があった」
「ユリウス様には、欠けているものなどありません」
「……いや。あったんだ。……俺は、魔力を持たなかった。クラインシュミットの者は、魔法が使えない。魔力を持たない代わりに機械技術が発展しているのが、クラインシュミット王国だ。当然ニーナには魔力が無く、俺はニーナの血を多く継いでしまったようだ」
「魔力が、無い……」
「あぁ。魔法を使えることは、ヴァイセンベルクではごく当たり前だろう。その中で、魔力を持たない俺は、王として相応しくない。レヴィナスは優れた魔力を持っていた」
「でも、今のユリウス様は」
私は、はっとして言葉を飲み込んだ。
ユリウス様の魔力は後天的なもの。
それは、つまり――
「ニーナは焦り、俺が魔力持ちでないことに気づかれる前に手を打とうとした。昔の俺の記憶は、魔法を使えないことを隠せと、必死に俺に言い含めるあの女の鬼女のような顔ばかりだ」
ユリウス様は、ニーナ様のことを『あの女』と言った。
僅かに滲んだ憎しみと、どうにもならない諦観が、その言葉に複雑に混ざり合っている。
「魔力がないことが明るみに出れば、王位を憎いルイゼの息子、レヴィナスに奪われてしまう。ニーナにはそれがどうしても許せなかったのだろう。そうして、――俺の体は、賢者の石が埋め込まれた」
「賢者の石?」
「あぁ。魔力持ちでないクラインシュミットの者たちが、魔法を使えるようにするために行う邪法。魔物を捕らえ混ぜ合わせて――いや、魔物だけでは無い。優れた魔導師を贄に使うこともある。強大な魔力を持つ生きものを何体も贄に使い、その魔力を抽出し精製してかためた、賢者の石と呼ばれる呪具。俺はそれを……、ニーナに、無理矢理口の中に押し込まれた」
一言一言を発するたびに、ユリウス様の心臓から、真っ赤な血が流れているようなきがした。
私はユリウス様の手のひらを握る指先に、きゅっと力を込めた。
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