第14話 リコリス、野生に戻る



 心地良い波の音で、私は目を覚ました。

 屋外で一夜を過ごしたのはこれがはじめましてである。

 当然いつも就寝していた公爵家のふかふかなベッドでもなければ、学園寮の手入れの行き届いたぽかぽかなベッドでもない。

 ドレスとパニエを重ねただけの寝床なのだけれど、疲れていたからか、一度も目覚めることなく朝まで眠ることができた。

 朝の柔らかい陽射しが、砂浜に降り注いでいる。

 素晴らしきかな、プライベートビーチ付きキャンプ地。

 立地条件最高である。

 この地は新生リコリス帝国となる予定なので、白い砂浜も透き通るように青い海も全て私のものだ。


「これからは、公爵家の借財に悩まされることもなく生きていけるのですね……」


 眠い目を擦りながらぼんやりと海を眺めて、私はぽつりと呟いた。

 思ったよりも体が痛くないわね。

 砂の上に布を敷いただけの場所で一晩寝たら、背中や腰が痛くなるのかしらと思っていたのだけれど。

 徐々に頭がはっきりしてくると、随分と地面がふかふかしていることに気づいた。

 ぐるりと周囲を見渡すと、私は白いふわふわの毛玉のようなものに包まれているようだ。


「……ヴィルヘルム?」


 私が寝る前は小型犬ぐらいの大きさだったヴィルヘルムが、今は馬車ぐらいの大きさに変わっている。

 毛足は長く、ふわふわしていて、お日様の匂いがする。

 名前を呼ぶと、毛玉がのそりと動いた。

 背中の羽が伸びをするように大きく広がり、首が擡げられる。

 小型犬の時よりも幾分か竜に近い顔立ちをしているヴィルヘルムが、私を覗き込んだ。


「眠い」


 赤い瞳を細めて、ヴィルヘルムは不満げに言った。

 もう一度首を胴体の方へ寄せて眠ろうとするので、ヴィルヘルムのお腹でふかふかの毛に包まれていた私は、勢いよく立ち上がった。


「もう朝ですよ、ヴィルヘルム。早起きは三文の徳と言いまして、具体的には朝ごはんの支度をしますので、起きましょう」


「そうか、朝食を食うことができるのか……」


 眠気より食欲が勝ったらしい。

 ヴィルヘルムの体に靄がかかったように霞んだと思ったら、昨日と同じ小型犬に戻っていた。

 ぱたぱたと小さい羽を動かして、ヴィルヘルムは私の傍に浮いている。


「今日は何を作るんだ、リコリス」


「食事に対する意欲、とても素晴らしいですね、ヴィルヘルム。アリアネちゃんもヴィルヘルムぐらい食事に貪欲なら、私も困らなかったのですけれどね」


 アリアネちゃんは幼い頃から偏食だった。

 素材そのままでないと食べないタイプの子だったので、手の込んだ料理を嫌う傾向にあった。

 白い麺が好きだったので、ひたすら小麦粉を練って麺を作ったものばかりを食べていたことを覚えている。

 アリアネちゃんの体の九十パーセントぐらいはうどんで出来ている。

 聖女パワーの力の源はうどんである。

 今でもよく学食でうどんを食べている。

 懐かしいわね。ソロキャンは楽しいけれど、アリアネちゃんには会いたいなと思う。


「食事に対する意欲は素晴らしいですが、私はご飯の前に水浴びをしたいのです。昨日はご飯のあとに眠ってしまったので、まず水浴びをして、さっぱりしたいと思っています」


「水浴びよりも朝食だろう、リコリス」


「水浴びをするついでに食材を捕獲しに行きましょう。昼食は海釣りでもしようかなと思っていますが、釣りは時間がかかるので、まずは森です」


「食材を探すのであれば、仕方ない。昨日の鬼マタンゴは旨かった。またあれでも良いぞ」


「毎回同じでは栄養バランスも偏ってしまいますし、飽きてしまいますのでね。何か良い食材と出会えるかもしれません」


「お前は料理が上手い。楽しみにしている」


「切って焼いて煮込んだだけですけれど、喜んでいただいて良かったです」


 丸太トーチも、焚火も、もうすっかり火が消えている。

 食材集めを終えたら火を起こして、お水を湧かそうかしらね。

 ルーベンス先生は、ソロキャンの朝にはいつも珈琲を飲んでいた。

 珈琲豆の代わりに、珈琲もど木の皮を煮出して飲むので、正確には珈琲ではないのだけれど、ほぼ珈琲のようなものだ。

 私も真似してみたい。

 水浴びのついでに珈琲もど木が見つかると良いのだけれど。

 ちなみに珈琲もど木、木と名前がついているけれど、これも魔物である。


 私とヴィルヘルムは、昨日と同じく再び森の中を湖を目指してざかざかと進んだ。

 当てがなく彷徨っているわけではなくて、神竜の乙女となった私の身体能力では、小高い丘の上に飛び上がって周囲を見渡すことなどお手の物なので、行く先の見当はついている。

 ヴィルヘルムは朝食が早く食べたいと文句を言うのかなと思ったのだけれど、素直に私の横をふわふわとついてくる。

 もしかしたらまだ眠いのかもしれない。

 ルーベンス先生の作った食事の香りで目覚めるまで微睡んでいたというし、年齢的にはおじいちゃんだし、きっと眠いのだろう。


「ヴィルヘルム、私は今から水浴びをしますので、待っていてくださいね」


 森の奥に進んでいくと、開けた場所に到着した。

 エメラルドグリーンの水面は、湖の底まで見通せるぐらいに透き通っている。

 そこここから小さな気泡が湧き上がっている。

 湧き水なのだろう。

 湖から清廉な川に水が流れ込んでいて、小魚の姿も見えるので、毒などはない無害な水なのだということが分かる。

 ヴィルヘルムは岩の上にちょこんと座った。


「さっさと済ませろ。俺は森を見ている」


「ヴィルヘルムは竜なのですから、気にしなくて良いのでは」


「お前はもう少し恥じらいを持て」


「ここは新生リコリス帝国予定地なので、全て私の土地です。私が私の土地で全裸になるのは自由。ルーベンス先生も、大自然との対話のためには全裸が一番だと言っています」


「だからあの男は砂浜で服を脱ぎ捨てて仁王立ちしていたのか。一体何をしているのかと思っていたが」


「大自然との対話です。ヴィルヘルムはルーベンス先生の裸体を生で見たのですか!? ずるい」


「ルーベンスの話はもう良い。早くしろ、リコリス。そして朝食を作れ」


「はいはい、わかりましたよ。ちょっと待っていてくださいね。この服、どうやって脱ぐんですか?」


 私はメイド服風神竜の乙女の標準装備の布地を引っ張った。


「戦衣解除と言えば一瞬で脱ぐことができる」


「脱いだら必ず全裸になるのですか」


「いや、元の服に戻る」


 元々私は何を着ていたかしら。

 首を傾げながら、とりあえず「戦衣解除」と口にしてみる。

 きらきら輝く粒子とともに、神竜の衣装が消え失せて、ドレスを脱いでパニエを切り取った下着姿へと私は戻った。

 パニエを切り取ったのがはるか昔のことのように感じられるわね。

 私はいそいそと体にへばりつくようにして残っていた衣服を脱いだ。

 屋外で、初、全裸である。

 まさに、大自然と、私、といった感じ。

 感慨深いわね。

 私は腰に手あてて、大自然の中で仁王立ちをした。


「リコリス、早く水に入れ」


 呆れたようにヴィルヘルムが私の背中に話しかけてくる。

 森の方を見ていると言ったのに。

 別に良いのだけれど。

 それにしても、全裸で大自然の中で仁王立ちするとは、なんと開放的なのかしら。

 日常の些細な事がどうでも良くなってくる。

 たとえば流刑にされたこととか。

 学園に残してきたアリアネちゃんが荒れに荒れて、王国に氷河期を到来させていないかしらという心配とか。

 私がいなくなってしまったことに気づいたお父様が、泣きじゃくりながら自暴自棄になって、折角貯めてきた公爵家の資金を全てカジノで使い果たしていないかしらとか。

 そういったことだ。

 ユリウス様のことは良く分からない。

 私の処遇は王家の方々が決めたのだし、ユリウス様は王太子殿下なので――今回のことに関わっていなかったとは、考え難いのだけれど。

 ひとしきり仁王立ちを満喫した後、私は湖の中に足先をつけた。

 ひんやりとしていて気持ち良い。

 昨日の疲れと、体に纏わりついた砂粒が落ちていくようだ。

 体を全て湖に沈めて、私は、ほう、と息を吐いた。

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