第2話 白竜ヴィルヘルム



 私はきょろきょろと辺りを見渡した。

 深く低い声は私の周囲全部の方向から響いているようにも感じられたし、私の脳を揺さぶっている私だけに聞こえる声のようにも感じられた。


「新生リコリス帝国というのは一体何だ?」


 ざわざわと、木々が大きく揺れる。

 風が揺らしているにしては、その揺れ方は随分と大きい。

 木々と一緒に地面もぐらんぐらんと揺れているみたいだ。

 私は手近にあった木の、細めの幹に転ばないように捕まった。

 ずしんと地響きを立てながら、起き上がるものがある。

 それは見上げるほど大きく、白い体をしている。

 それがあまりにも大きいせいで、何本かの木々がなぎ倒される。

 鳥たちが慌てるようにして、空へと飛び立っていく。


「……まぁ!」


 私は感嘆の声を上げた。

 木々の隙間にぽっかり開いた丸い窓のような隙間から、長い首を擡げて私を覗き込んでいる、大きな顔がある。

 白い滑らかな肌に、大きな鱗。

 私の握り拳よりもずっと大きい赤い目には、縦に一本の線が入っている。

 首は随分と長く、首の下ある胴体は木々に隠れてしまっていて半分ぐらいしか見えないけれど、大きな手や、鉤爪の生えた指、しっかりした足や長い尻尾を確認することができた。

 立派な二本の角や、胴体よりもずっと大きそうなたたまれている羽がある。

 全体的に神々しいまでに白く、目だけが赤い。

 顔立ちは細長く、蛇や蜥蜴にもどことなく似ている。けれど、似て非なる物だ。


「おい、娘。新生リコリス帝国とはなんだ」


 それは私にもう一度同じ質問をした。

 赤い瞳が真っ直ぐに私を見ている。

 どうやらそれは、口を開いて会話をしているわけでないらしい。

 声ははっきり聞こえるけれど、表情も変わらないし、口が開くこともない。

 念話に近いのかもしれない。

 私はその白い――竜を見上げた。


「新生リコリス帝国とは私の帝国です。私はリコリス。この土地を私のものにしようかと思いまして」


 竜を見たのは初めてだ。

 学園の授業で、魔物学などでその名は一番初めに出てくる。

 竜とは魔物の中でも最も恐ろしく、敬うべきものとされている。


 彼らは荒れ地に住んでいて、知性がある。時に人間を助けることもあれば、時に人間の敵になることもあるという。

 竜と事を構えてはならない。彼らは人間よりもずっと賢く強く、長命だ。

 彼らにとって人間など、言葉を話す蟻のようなもの。

 広大な土地に巣を作っている蟻にわざわざ手を出したりしないけれど、蟻が竜の指先に噛み付くのなら話は別だ。

 ――とても、恐ろしいことが起こる。

 

 そのように、私は習った。


(ルーベンス先生のソロキャンの教え、その二十九。竜を見たら礼儀正しくするべし)


 私はルーベンス先生が深い森の中で出会った竜と、握手を交わしながらサムズアップしている写真を思い出した。

 ありがとう、ルーベンス先生。

 今日も禿頭が光り輝いているわね。


「娘、お前は侵略者か何かか。それにしては、おかしな格好をしているな」


「はじめまして、白い竜の方。いろいろ事情がありまして、私はこちらの土地に流刑となったのです」


「罪人か? そうは見えんが」


「罪人だそうです。そんなわけで、未開の地に空から先ほど落とされまして」


「あぁ、久々に飛空挺が来ていたな。人が落ちてきたような気がしたが、お前だったのか」


「はい、落ちてきた、私です」


 私はスカートの裾をつまんでご挨拶をした。

 最上級の礼儀だ。

 ちなみに私はもう、リコリス・オリアニスではない。罪人となったのだから、オリアニス公爵姓を名乗るのはおこがましいというものだろう。

 とはいえ、私は新生リコリス帝国の女帝になる予定だ。

 オリアニス公爵家よりも私の方がずっと身分は上である。


「お前、リコリスと言ったな」


「はい。リコリスです。あなたのお名前をお聞きしても良いですか?」


「俺はヴィルヘルム」


「ヴィルヘルム様? ヴィルヘルムさん? なんとお呼びしたら良いのでしょうか」


「ヴィルヘルムで構わん」


 ヴィルヘルムは私を興味深そうに眺めながら言う。

 もっと偉そうなのかしらと思ったのだけれど、案外気さくなのね。

 出会い頭に、食ってやる! とか言われるのかと思ったわよ。

 でも、人間より賢いのだから、それはそうよね。出会い頭に食ってやるとか言うような頭の悪そうな行動はしないわよね。

 ヴィルヘルムからは、威圧的な感じも怖い感じもあまりしない。

 ただ興味があるから私を見ている。

 そんな感じがする。


「リコリス。お前、見たところ武器さえ持っていないようだが、どうするつもりだ。一人きりで」


「どうする……そうですね、ひとまず、ソロキャンからはじめます」


「そろきゃんとは?」


「一人でキャンプをすることですよ、ヴィルヘルム。王国では昨今、魔法や機械に頼らずに自然とともに生活する、自然主義派のキャンプ暮らしが流行っているのです。そして、孤独を愛する大人の遊びとして、一人キャンプ、つまりソロキャンも一部の人々には人気があります」


「野営のことだな」


「一昔前の言葉では、そうとも言いますね。ヴィルヘルム、もしかしてこの土地に人間が来るのは初めてなのですか?」


 私の質問に、ヴィルヘルムは軽く首を振った。

 赤い目が細められる。


「以前は、何人かいたな。山を越えて生態調査に来る物好きや、ただ数日間野営をして帰っていった禿頭の男などがな」


「そ、それは、それは、ルーベンス先生です!」


 なんていうことでしょう。

 私は胸の前で両手を合わせた。


「ルーベンス先生もこの地に来ていたなんて、まさに、ここは聖地……! 新生リコリス帝国と名付けるにふさわしい場所です!」


「お前がこの土地をなんと呼ぼうと勝手だが、武器も荷物もなく野営など行ったら、恐らく魔物やら獣に襲われて、数日で死ぬぞ」


「まぁ、それは困りましたね」


「あまり困っていないように見える。よほどの魔法の心得でもあるのか?」


「多少はありますね。でも、ものすごく強いというわけではありません。例えば今、ヴィルヘルムに襲われたら、私などひとたまりもないでしょうね」


 ヴィルヘルムは長い首を動かして、私に顔を近づける。

 私の体と同じぐらいの大きさの顔が目の前にある。

 大きな口には、鋭い牙が並んでいた。


「襲いはしない。おい、リコリス。お前があの男の知り合いとなれば、お前も料理を作るのか」


「ルーベンス先生と知り合いなど、恐れ多いことです。ルーベンス先生とは、神ですので。それはともかく、料理は作りますよ。野生の食材は、生で食べては危険です。料理はソロキャンの基本中の基本。ソロキャンとは料理に始まり、料理に終わると言っても過言ではありません」


「ならば良い。リコリス。お前が死なないように、俺が見張っていてやる。その代わり、お前は俺に飯を食わせろ」


「良いですよ」


 私は特に悩みもせずに頷いた。

 ヴィルヘルムが料理を食べたいのなら、食べさせてあげよう。

 竜には優しく、誠実に、紳士的に付き合わなければいけないので。


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