いつもの帰り道
ふれあいママ
第1話
1・
マミちゃんは、小学校四年生です。今、いちばん好きなことは、学校に行く事です。いや、学校そのものが好きなんじゃありません。もちろん嫌いじゃないし、学校もとっても面白いけれど、いちばん好き、というのとは違うんです。
学校に行く時の道のりと、帰ってくる時の道のりを、歩くのが好きなんです。
マミちゃんの家は学区のはずれにあるので、学校まではうんと遠いんです。二十五分くらいはかかります。もっとかかる日もあります。すてきでしょ?だって、学校に行く前に二十五分、学校が終わってからも二十五分、遊びの時間があるんですもの。
ほら、今日も朝七時半、マミちゃんが元気に、小さな家の玄関から走りだしてきました。
長いお下げの髪をポンポン弾ませながら、ドアも開けっ放し、門も開けっ放しで、勢いよく道路に飛び出します。
背中の赤いランドセルは、ガタゴト賑やかに鳴っています。やっぱり開けっ放しのフタが、パタパタと風にはためきました。
道路の真ん中で立ち止まったマミちゃんは、青い青い空を見上げて、ウーンと伸びをしました。
ホイップクリームを盛り上げた様な、真っ白にきらめく雲が、あっちこっちにそびえ立っています。入道雲。マミちゃんの目には、その雲が、ものすごく大きく見えました。
あの雲に負けないくらい、大きく大きくなってみよう。マミちゃんは、つま先立ちになって顔を反らせ、両手を鳥の翼のように思いっきり広げて、胸いっぱいに空気を吸い込みました。
夏です。キラキラ明るい太陽が照りつける、暑い暑い日です。
うるさいくらいセミが鳴いてます。ミーンミンミンミン。ジージージジー。セミの声が、マミちゃんは大好きです。夏が来たんだって本当にそう思えるからです。カナカナカナ・・・と鳴く「ひぐらし」という名のセミがいちばん好きなんですけど、この時間は聞けません。夕方まで待たないとね。
マミちゃんはにっこりして、心の中で元気いっぱい「おはよう」を言いました。
とても広く見える空と、何の匂いかわからないけど、良い匂いのする風に「おはよう」
足元をちょこちょこ歩いていくアリにも、電線にとまっておしゃべりしているスズメにも「おはよう」。でも黒い電線は嫌いです。空が狭く見えちゃうんですもの。
さあ、学校に行きましょう。楽しい時間の始まりです。
威勢よく歩き出そうとしたマミちゃんの後ろから「待って」という声が響きました。まるで、おじさんみたいに落ち着いた声です。
マミちゃんはため息をつくと、いやいや後ろを振り返りました。
黒いランドセルを背負った一年生の弟が、道路の端っこに行儀よく立っています。両手を脇に揃え、両足はぴったりくっつけて、まっすぐキチンと。
弟は、真ん丸の大きな目で、マミちゃんを睨んでいます。同じく真ん丸の顔に、真ん丸のリンゴみたいなほっぺ。小さなふっくらとした口、ツヤツヤした真っ直ぐの黒髪。見かけは天使の様な可愛らしさですけど、その表情ときたら、校長先生よりもいかめしくて、真面目そのものです。マミちゃんの弟タカシは、いつも真面目なんです。
「お姉ちゃん、道路に飛び出したら危ないって、お母さんに言われたでしょ。どうして守らないの?それに、靴ひもが片方、ほどけてるじゃない。転ぶよ。ハンカチも落としていったし、筆箱も玄関に落ちてたよ。なんでキチンとしまわないのさ?また、ランドセルのフタを閉めてないんだろ。学校に行く前に行っとくけど、宿題はやったの?忘れ物はしてない?お姉ちゃんはいつだって、だらしがないんだ。この前だって・・・」
マミちゃんは、ぜんぶ聞かずに走り出しました。朝っぱらから、長々したお説教に付きあってはいられません。
それに、どれも大した事じゃないんです。家の前の道路は、ほとんど車が通りません。だから、危なくなんてないんです。靴ひもが解けていたからって、それが何だっていうんでしょう。マミちゃんは転んだりしませんもの。ハンカチも筆箱も、なくたって大丈夫。友達から借りればいいんですから。それに・・・あと、タカシは何て言ってたっけ?
マミちゃんは忘れてしまいました。明るい太陽の光に眩しく包まれて道路を走るのが、ほら、こんなに気持ちがいいんですもの。
買ってもらったばかりのスニーカーの底が、パンッパンッと固い道路を打ちます。その勢いで、足がアスファルトを蹴る度に、体が飛び跳ねます。ホッピングに乗ってるみたい。
マミちゃんは、もっと力を込めてパンッパンッと足を振りおろします。なんていい音でしょう。もっと元気よくパンッパンッ。そしてジャンプ!両手を広げて、あの空に届くまでジャンプ!雲に触れそう。もっと走って、もっとスピード上げてパンッパンッ。もっと高く、もっと大きくジャンプ!
そしたらもう、友達のサトミちゃんのお家の前です。いつも一緒に学校に行くんです。
サトミちゃんの家は、両側の空き地に挟まれて建っている、大きな家です。風鈴の音が、さわやかに鳴っています。
サトミちゃんはもう家を出ていて、隣の空き地の土手に盛り上がっている、クローバーの茂みの上に座っていました。足を道路の上に垂らして、ブラブラ揺らしています。
サトミちゃんは、クルクルに縮れた髪を丸くおかっぱにした女の子です。目も鼻も口も小さくて、背もマミちゃんよりずっと低いんです。優しくて大人しい子で、マミちゃんは、幼稚園の年長さんの頃から、よく一緒に遊んでいました。サトミちゃんのママとマミちゃんのママが、仲良しだからです。
土手の上にサトミちゃんの姿を見つけたマミちゃんは、走りながら力一杯に手を振って、最後にうんと大きくジャンプしました。サトミちゃんの目の前に、両足でドーンと見事な着地。体操の選手みたいでかっこいい。
「おはよう!」
マミちゃんは、元気いっぱいの大声で言いました。だってマミちゃんの目には空も道路も空き地もクローバーの茂みも、もう何もかもが、とっても大きく広々として見えたんです。だから、大声で叫ばないと聞こえないように思えるんです。
「おはよう、サトミちゃん!おっはよー!」
「泣いてるよ」
サトミちゃんが指す先を辿ってマミちゃんが振り返ると、はるか後ろに、泣きながら追いかけてくるタカシの姿がありました。
「また、あいつ。朝からベソベソ泣き虫なんだからっ」
マミちゃんは、そう怒鳴るなり、パッと向きを変えてタカシの方へ駆け戻りました。
別にタカシの為じゃありません。こんなに美しい夏の日、こんなに気持ちのいい朝ですもの。足がムズムズして、走りたくて跳ねまわりたくて、仕方がないんです。そら、もっと走って!そしてジャンプ!もっと速く走って走って。そしてジャンプ!もっと高く、もっと速く!
マミちゃんは、走りながら笑い出しました。自分のおでこから、汗の粒が飛んできらめいたのが見えたんです。今日は本当に暑いんでしょう。でも、マミちゃんは、暑さなんかあんまり感じていませんでした。ああ、ステキな夏の日。大好きな夏の日。もっと走ろう。今度はジグザグに。スピード上げて、右に曲がって左に曲がって、走って走って走って、ジャンプ!
そうやって、ようやくタカシの前にたどり着くと、タカシは大きな目から涙をこぼれさせながら、マミちゃんをなじり始めました。
「お姉ちゃあん!僕を置いて行ったらいけないって、お母さんにいつも言われてるじゃないか。言いつけてやるう!」
タカシはすぐ、言いつける、言いつけるって言うんです。
でも、その度に、マミちゃんはぐんにゃりとしおれてしまいます。今もマミちゃんは、お水をやらないで枯れたひまわりの花みたいに、首をうなだれました。
お母さんは、マミちゃんがタカシを泣かせると、すごく怒るんです。たぶん、タカシをとっても愛してるからでしょう。もちろん、お母さんはマミちゃんにだって優しいし、可愛がってくれますけど。でも、お母さんが、本当に一生懸命に愛してるのはタカシなんです。タカシはとっても頭が良くて、何だって上手にできるからでしょう。タカシが生まれてからずっと、マミちゃんはそう思ってきました。だから、ぐんにゃりしちゃうんです。
その時、サトミちゃんがマミちゃんを呼ぶ声が、聞こえてきました。
「マミちゃーん、助けてえ!嫌だあ、嫌だあ!」
マミちゃんは、パッと振り返りました。サトミちゃんが足を抑えて、道路にしゃがみこんでいます。ケガでもしたんでしょうか。
しおれていた事なんかすっかり忘れて、マミちゃんは走り始めました。
風のような速さで、サトミちゃんの元へ駆け戻ったマミちゃんは、サトミちゃんの手を引っ張って立たせようとしました。でも、サトミちゃんは動きません。腰が抜けたんでしょうか。立ち上がれないって言うんです。
「気持ち悪くて立てないよう。あそこから飛び降りた時、あたし、踏んじゃったあ!」
サトミちゃん、泣き出しそうです。
「ウンチ?犬のウンチ踏んだの?」
マミちゃんは、慌てて聞きました。でも、サトミちゃんは激しく首を振って、
「ウンチじゃないっ。毛虫だよう。すっごい毛虫、踏んじゃったあ!」
と喚きます。
クローバーの茂みの土手から、下の道路に飛び降りた時、すごく大きくてモジャモジャの毛虫を踏んづけちゃったらしいんです。寸前で気が付いたけど、よけられなかったんでしょう。
かわいそうに。足をどけて、ぺっちゃんこになった毛虫を見るのは嫌ですもんね。マミちゃんには、その気持ちがよくわかります。助けてあげなくちゃ。
「大丈夫、大丈夫。私がキレイにしてあげるよ」
マミちゃんはしゃがみこむと、サトミちゃんの足を無理やり持ち上げました。
「ギエエッ」
「ゲーッ」
靴の底に、まっ平らになった毛虫がベチャリと張り付いています。
虫が大嫌いなサトミちゃんは、目をギュッとつぶってギャーギャー叫んでいます。毛虫も気の毒でしたけど、サトミちゃんはもっと気の毒。
マミちゃんはグズグズしませんでした。こういう時は、あまり深く考えずに、素早くやるに限ります。落ちていた太い小枝をサッと拾って、サトミちゃんの靴底に押し当てました。
ちょっと気持ちが悪いけど・・・。思い切ってエイヤッ。毛虫を小枝でこそげ取ります。ぺちゃんこの毛虫は、ポトッと音を立てて、道路に落ちました。ウゲエッ。
でも、もう大丈夫。靴から取れてしまえば、後は簡単です。
マミちゃんは、クローバーの葉を、両手いっぱいにもぎ取りました。それで、靴底をゴシゴシこすります。草の汁が靴底を緑色に染めあげて、何だかすっかりキレイになった気分。
サトミちゃんのようやく体の力を抜いて、気が楽になった様子です。
「ああ助かった。マミちゃん、ありがとう」
「よかったね。もう大丈夫だよ」
マミちゃんとサトミちゃんは、目を合わせてニッコリしました。マミちゃんの胸は嬉しい気持ちで一杯になって、ドキドキしています。サトミちゃんを助けてあげられた。すごくいい気分。
でもその時、退屈しきったようなタカシの声が割り込みました。
「何してんの?遅刻するじゃない。早くしてよ」
ほらね。これだから、タカシとはなんだか気が合わないんです。
2・
マミちゃんとサトミちゃんは、元気よく「橋の下」に向かって歩き出しました。タカシは置いてきぼりにされないように、必死についてきます。何かブツブツ言っているようでしたけど、マミちゃんは聞いていません。タカシの言うことに、いちいち耳を傾けていたら、身がもちませんもの。
サトミちゃんの家から三分ほどでしょうか。三人の進む道路を横切る形で、頭上高く、とても大きな橋がかかっています。橋の上ではときどき車が行き来しますけど、あまりにも高いので車は見えず、音だけがかすかに聞こえてきます。
いつも、その橋の下をくぐり抜けて、学校に向かうんです。
橋は、何本もの太い円柱で、どっしりと支えられています。ずらりと並んだ柱に囲まれているせいで、橋の下はちょっとした広場のようになっています。四角いザラザラした石のタイルが敷き詰められ、膝下までの低い鉄柵で囲んであって「子供の遊び場」と書かれたプラスチック板が、柱の一つに留められています。
でも、マミちゃんは、この「遊び場」で遊んだ事はありません。近所の子供は、誰も遊びません。
巨大な橋が日差しを遮るので、ここはいつも薄暗く、ジメジメしています。それにコンクリートのせいでしょうか。空気まで灰色になってしまったみたいに寒々しくて、ヒヤーと冷たい風が渦をまいています。夏は確かに涼しいですけれど、マミちゃんは、輝くお日様の下で、汗びっしょりになっている方がいいんです。おまけに、いつもシーンとしています。笑い声も話し声も、橋の影がぜんぶ吸い取ってしまうみたいで、どうにも好きになれません。
今も、できるだけ速足で通り過ぎました。
この橋を通り過ぎると、マキちゃんの家が見えてきます。一緒に学校に通う、もう一人の友達です。マキちゃんの一つ下の妹も、一緒に行きます。
今朝もいつものように、マキちゃんと妹のルリちゃんは、家の前の道路に並んで、マミちゃん達を待っていました。
その姿を見るなり、マミちゃんはいっさんに走り出しました。早くマキちゃんの所に行きたいっ。
マミちゃんはマキちゃんが大好きです。マキちゃんに会えて、嬉しい気持ちでいっぱいです。毎日毎日、学校のある日も無い日も会っているんですけど、その度に嬉しい気持ちでいっぱいになっちゃうんです。
マキちゃんは猫に似ています。逆三角形の顔に、小さな目と丸く平らな鼻。横に大きく広がった口をしていて、キリッと引き締まった、強く賢そうな表情をしています。背も、マミちゃんと同じくらい高くて、ガッシリと丈夫です。
反対に、妹のルリちゃんは小柄でほっそりしています。真っ白な肌に、ポワンと桜色の頬。切れ長の目におちょぼ口。艶々とした真っ黒な髪をおかっぱにしていて、日本人形みたいな顔かたちです。
ルリちゃんは、体のまわりにシーンという文字が浮かんでいるように思えるほど、静かな子です。あんまり大人しいので、マミちゃんはいつもいつも、ルリちゃんがそこにいる事を忘れてしまいます。どんな子なのかも、さっぱりわかりません。
でも、別にいいんです。マミちゃんは、マキちゃんに会えればそれでいいんですもの。
走ってくるマミちゃんを見つけたマキちゃんが、俯きかげんだった顔をパッと上げました。花が開くように、パアッと微笑みが広がり、満面の笑顔で、大きく力いっぱい手を振り始めます。じっとなんかしていられないとでもいうように、足をバタバタさせたかと思うと、弾丸みたいな勢いで道路に飛び出し、全力でマミちゃんの方へ走ってきます。
あっという間に、二人は道路の真ん中でバーンッとぶつかり合い、体をよじって笑い転げながらも、そのままギュウッと抱き合いました。
背中のランドセルが邪魔だけれど、マミちゃんは一生懸命に手を伸ばして、マキちゃんを しっかりと抱きしめます。だって、昨日の夕方からマキちゃんに会っていないんです
もの。夜は家に帰って別々に過ごさなきゃならないんです。マミちゃんもマキちゃんも、それがすごく不満でさびしいんです。
でも、マミちゃんの手がマキちゃんに触れた時、ちょっといつもと違う、変な感じがしました。なんとなく元気がないような、少し弱っているような、そんな感じ。風邪を引いたとか、お腹が痛いとかではないみたいですけど。
マミちゃんはマキちゃんの体を離して、マキちゃんの目をじっと覗き込みました。やっぱり猫と似ている、緑色が混じった明るい茶色の目。その目が、今は何だか少し悲しそうでした。
「どうしたの?何かあったの?」
マキちゃんの目が一瞬、宙をフラフラとさまよいました。慌てた様に、うわずった声で早口に答えます。
「えっと、その・・・ソバカス」
「ソバカス?」
マキちゃんのほっぺには、そばかすが少しあります。うすい茶色の点々が散らばっています。そのソバカスが、どうしたっていうんでしょう。
何かマキちゃん、ウソついてない?本当は別の事、言おうとしていたんじゃない?マミちゃんは、ふとそう思いました。
「ソバカスがどうかしたの?」
マミちゃんが疑わしげに尋ねると、マキちゃんは顔をしかめて言いました。
「ママが、このソバカス、嫌ねえって言うんだもん。だから・・・」
マミちゃんは、思わず自分の鼻を撫でました。マミちゃんの鼻のまわりにも、ソバカスがいっぱいあるんです。
「ソバカスは私にだってあるよ。かわいいと思うよ。うちのお母さん、そう言ってたもの」
マキちゃんは、じいっとマミちゃんの顔を見つめて、嬉しそうに笑いました。
「本当だ。マミちゃんにもソバカスがあるね。一緒だ」
「うん、一緒だよ」
すっかり元気になったマキちゃんは、マミちゃんの手を取ると、
「マミちゃんと一緒なら大丈夫。ママにもそう言っていい?」
うん?どういう意味なのかよくわからなかったけれど、マキちゃんが少し元気になったのが嬉しくて、マミちゃんは気にしないことにしました。今は。その内、わかるでしょう。
マミちゃんは、マキちゃんに肩をぶつけて、威勢よく言いました。
「行こっ、行こっ。坂の下まで競争だよ」
「うんっ」
マミちゃんとマキちゃんは、手をつないだまま走り出しました。パン、パン、パンッ。二人のスニーカーが、同じリズムで勢いよく響きます。走って走って、三歩でジャンプ!走って走って、四歩でジャンプ!もっと高くジャンプ!走って走って、またジャンプ!
空は青い。こんなにも青い。暑い日差しが、まぶしい空を見上げて、二人は声を上げて笑います。まっ白な雲をつかみたい。マミちゃんとマキちゃんは、空いている方の手を、力いっぱい伸ばして走ります。風が吹きます。風鈴が鳴ります。道端にはおしろい花。なんてキレイな夏の日なんでしょう。
パンッ、パンッ、パンッ。元気いっぱい道路を蹴って、走れ走れ!そしてジャンプ!
マミちゃんとマキちゃんは、何も合図をしなくても、同じリズムで走れるんです。少しもずれたりしないんです。言葉には出さなくても、マミちゃんはマキちゃんが、マキちゃんにはマミちゃんが、どのタイミングでジャンプするのかがわかるんです。どうしてと聞かれても困るけれど、ただわかるんです。
マキちゃんの家から二、三分の所に、小さな公園があります。でも、遊んだ事はありません。だって狭いんですもの。マミちゃんとマキちゃんが、飛び回ったり走り回ったりするには、あまりにも狭すぎです。その公園の、木で作られた門柱の前まで来て、二人はようやく思い出しました。タカシとルリちゃんとサトミちゃんを置いて来てしまったことを。
急いで急ブレーキをかけたのは、後ろから、ものすごい喚き声が聞こえてきたからでもありました。でなければ、そのまま行っちゃってたかも。
「お姉ちゃあん!置いて行かないでよう!お母さんに言いつけてやるう!」
チェッ。またタカシです。ルリちゃんも何か言ったようですけれど、マミちゃんには聞こえませんでした。声が小さすぎるんです、いつも。
でも、ルリちゃんの分まで、タカシが大声を張り上げて叫んでいます。
「お母さんに言いつけてやるう!お姉ちゃんなんか、うんと怒られればいいんだ。絶対、絶対、言いつけてやるう!」
ため息をついて戻ろうとしたマミちゃんの手を、マキちゃんがグイッとひっぱりました。「さっさと行こ、行こ。坂の下までさ。ルリもタカちゃんも、置いてきぼりだよ」
マミちゃんとマキちゃんは、タカシとルリちゃんに向かって、アッカンベーをしました。言いつけたいなら、言いつければいい。待ってられないんだもん、このノロマ!
タカシに脅かされて、怖くて縮み上がってしまうのは、一人の時のマミちゃんだけです。マキちゃんとで二人になれば、何も怖くないし、何も気にしないでいられるんです。
マミちゃんとマキちゃんはニヤリとすると、また走り出しました。
二人が逃げて行くのをみたタカシが、悔しがって泣き出しました。顔を怒りで真っ赤にして、腕を振り回しながら追いかけてきます。
「キャーッ。タカシが来るう!」
マミちゃんとマキちゃんは、キャアキャア笑いながら、
「鬼さん、こちら。ここまでおいで。追いつけるんなら、やって来い!」
と叫んでは、また走ります。タカシは、
「お姉ちゃん!お姉ちゃん!」
と喚きながら、必死に追いすがってきます。こういう時のタカシは、からかえば、からかう程、怒って泣いて、面白いんです。
一方のルリちゃんはといえば、タカシの後を追って小走りについてはきますけど、やっぱり何も言いません。笑ってもいなけりゃ怒ってもいず、もの静かな表情のまま、動く人形のようでした。
そして、サトミちゃんはポツーンと一人ぼっち。まだマキちゃんの家の前に立ったまま、寂しそうにこちらをじっと見ています。マミちゃんとマキちゃんが一緒になると、サトミちゃんはいつも忘れられてしまうんです。仲間外れとかイジワルとかじゃなく、ただ忘れられてしまうんです。
さて、マミちゃんとマキちゃんは、タカシを大声でからかいながら「坂の下」に着きました。
そこでやっと、ノロノロ三人組を待ってあげる事に決め、足を止めます。
マキちゃんの家から五分くらいの所にある坂道は「心臓破り」と呼ばれています。とっても急な坂道で相当に長く、まるで山みたいに聳えているからです。道の左側には、小さな家がズラリと並んで建っていて、右側は宅地用の空き地が続いています。今そこは、青々とした雑草が一面に茂っていて、風にざわめき揺れていました。
車はほとんど通りません。車だってこんな急坂は登りたくないんでしょう。マミちゃんは、この坂を、車が珍しく上がっていくのをみたりすると、車がゼイゼイ息を切らしている音が聞こえる気がするんです。それほど、ものすごい坂なんです。
マミちゃん達も、この坂を登るには色々と工夫が必要です。
マミちゃんとマキちゃんが手をつないだまま待っていると、まずタカシが追いついてきて、ギャアギャア何か叫びながら、マミちゃんを叩き始めました。そこで、マミちゃんは、タカシの頭を一発はたいて、静かにさせなければなりませんでした。全く、手がかかる弟です。
次に、ルリちゃんがやって来ましたけど、無表情のまま、やっぱり黙っています。本当に、ルリちゃんて変な子です。タカシの方がまだマシです。こんなに静かだと、からかっても鬼の役だって出来やしませんもの。マキちゃんはルリちゃんをジロッと見て、フンッと鼻を鳴らしました。
そして、最後にサトミちゃんがゆっくり到着。
「ごめんね、サトミちゃん。置いていっちゃったね。でも、追いついたからいいよね。ねえ、ねえ、いつもの作戦会議、一緒にしようよ」
マミちゃんがそう言えば、マキちゃんも
「ごめんね、一緒にやろう」
と誘います。
サトミちゃんは、微笑んで「いいよ」と言いましたけれど、同時にちょっと困った顔もしました。毎朝、行われるこの作戦会議が、サトミちゃんは苦手なんです。どうにもよく理解できないんです。
タカシの方は、今ひっぱたかれたばかりだというのに、また甲高い声で文句を言い出しました。リンゴみたいなほっぺに、涙のしずくをくっつけたままで。
「どうしてそんな事するのさ。学校に遅れるよう。僕まで遅刻させないでよ。作戦会議なんてバカみたいだ。くだらない事してないで、さっさと行こうよ」
ピーチクパーチク、うるさいったら、もう。一日中ブーブー言って、まるでアブかハエです。
マミちゃんは聞かなかったことにして、右手をマキちゃんの肩に、左手をサトミちゃんの肩に回して、円を作りました。タカシとルリちゃんは輪の外。チビ二人は、発言できないんです。命令に従ってりゃあいいんです。
「さあて、諸君・・・」
マミちゃんは押し殺したような声で言いました。できるだけ声を低くして、恐い感じを出します。
マキちゃんがブッと吹き出したので、、マミちゃんはおっかない顔で睨みました。ここで笑っちゃダメなんです。
「さあて・・・」
もっと低い声を出します。マキちゃんは無理矢理まじめそうな顔を作って、口をへの字にしています。変です。今度はマミちゃんが、ブブーッと吹き出してしまいました。
いかん、いかん、ここは真剣に。映画で見たスパイみたいにしなくちゃいけないんですから。
「さあて。今日はいかなる方法で坂を登るべきかね、諸君。うん?」
いい感じです。とってもエラそうに聞こえるじゃありませんか。マキちゃんも続けて言います。
「何か考えたまえ、サトミ隊員」
サトミちゃんは、ますます困った顔になりました。一生懸命に考えようとはするんですけれど、サトミちゃんはいつも何も思いつけません。だって、そうでしょう?坂の登り方なんて。ただ歩いて上がるしかないじゃありませんか。
「ええっと・・・。うーんと・・・。わかんないよ」
マキちゃんが恐い顔をしてサトミちゃんを怒鳴りつけます。もちろん、ただ怒るフリをしてるだけですけど。
「いかんな、サトミ隊員っ。そんな事では、秘密諜報員にはなれんぞ!」
「ひみつちょうちょういん?それって何さ」
タカシったら。ちょうほういん、だよ。何もわからないクセに、すぐ話に入りたがるのも、タカシのうるさい所なんです。
でも、相手にならないでいると、もっとうるさい事になるので、マミちゃんはイヤイヤ答えました。
「スパイの事だよ」
「スパイって何さ。何してる人?早く行こうよ。なんで、毎日、それをやんなきゃならないんだよう」
「坂を登るには、作戦が大事なの」
「作戦?何、言ってんだよう。ただそのまま歩けばいいじゃないか。本当に、お姉ちゃんはバカだな、もう」
どうせ、バカですよ。あんたとは違いますよ。マミちゃんは、心の中でブツクサ言います。
タカシは、この町で一番、頭がいい子だって有名なんです。勉強も二、三年はすすんでますけど、それだけじゃなく、とにかく何でも完璧に出来るんです。お母さんは、タカシを天才だといいます。うっとりとタカシを見つめては、将来が楽しみだってニコニコします。マミちゃんは、そんな事を言われたためしがありません。
タカシは天才、私は違う。マミちゃんは、そう思う度に泣きたくなっちゃうんです。
でも、今は泣かずにすみました。
マキちゃんが咳払いして、犬の唸り声みたいなすごい声で、こう言ったからです。
「では、マミ隊員。君の作戦を言ってみよ。忘れるなっ。我々の運命は、君の肩にかかっているんだあ」
マミちゃんの目がキラリと光りました。マミちゃんは、作戦を立てるのがとても上手なんです。勉強はイマイチでも、こういう事なら任せておいて!
マミちゃんは、あたりをグルリと見回しました。どこもかしこも、暑い太陽の下で、照り輝いています。汗がツウッと額を流れて、目に入りました。ジワッとしみたので、慌てて頭を振ります。
その時。坂の右側の空き地に、青々と茂りうねっている雑草が目に飛び込んできました。風に吹かれ、ザワザワと流れる様に揺れ動いて、まるで海の波みたい。そう思った途端、ピンッときました。いい事、思いついた!
秘密諜報員らしくする事なんかすっかり忘れて、、マミちゃんは、息せききって話し出しました。
「こういう事にしようよ。この町は、不思議な水の国だって、そういうつもりになるの。私達は、いつも水の中で暮らしてる。見て!今、この道にも水が溢れてる。坂の上まで水が満ちてる。その中を泳いで、坂の上まで行くの。泳いでいるつもりになるの!」
そう叫んだ途端、マミちゃんとマキちゃんの目からは、いつもの坂道が消えました。
その代わり、二人は脇の下まで、キレイに澄みきった透明な水につかっていたのです。
うす青く輝いて、冷たすぎず熱すぎず、ほんのちょっぴりひんやりするぐらいの、気持ちいい水。
マミちゃんは、Tシャツから出ている腕に、水の冷たさを感じました。マキちゃんは、ワンピースの裾から出ている足に、揺れ動く水の作る渦巻を感じました。ワンピースの赤い花模様が、水の中で溶けた様ににじんで見えます。
二人は足を動かしてみました。水の中では、なんて軽くなるんでしょう。体がフワッと浮き上がります。立ったまま足をバタバタさせると、水が重くしっとりと動き、小さな泡が足にまとわりつきながら、水面へと浮かび上がってきます。
体をそっと回すと、バチャバチャという音が聞こえます。風がサアッと吹くと、水がさざ波立ち、二人へと寄せてきます。キラキラ光る小さな波が、チャプンチャプンと鳴っています。
もう、じっとしてはいられません。今すぐ、この水の中に潜りたい。思いっきり泳ぎたい。
「泳ごう、泳ごう!」
マミちゃんが叫ぶと
「私、平泳ぎする!出来るんだから。見ててよ!」
マキちゃんの叫び返します。
二人は、バッシャーンと大きな音を立てて、水に飛び込みました。体を打つ水の強さが、ちょっと痛いくらいに勢いよく。そして、深く潜りました。
ブクブクブクブク。二人の口から泡が出てくる音です。それ以外、何の音もしません。遠くから聞こえる車の警笛も、セミの声も、鳥達のさえずりも、全てが消えました。水の中では、泡の音しかしないんです。
うす青い水の中の世界に、マミちゃんとマキちゃんは、体ごと入りこみました。全身が、ひんやりとした冷たさに包みこまれます。
そこから見える景色は、何とまあ面白いんでしょう。見慣れたいつもの風景が、まるで違って見えるんです。
下に目を向ければ、アスファルトの道路が、いつもの様に見えます。でも、今は、水の動きでユラユラ揺らめいて、普段はまっすぐの車線も、斜めになったりジワ―ッとぼやけて広がったり、生き物みたいに動きます。
頭を下げて、更に深く潜ってみました。
五本の指が水を掻くと、なめらかなゼリーの様に水がすり抜けていきます。小さな泡が、螺旋を描いてクルクルと昇っていきます。
指の先が、ヒヤリと冷たいアスファルトに触れました。ひっかくと小さな破片がはずれて、水の中をあっち行きこっち行き、魚みたいに動き回ってユラユラ走り、水面を目指して浮かび上がっていきます。
ザパアッ。マミちゃんとマキちゃんは、アスファルトの水底を蹴って、同時に水面から顔を出しました。プハアッ。大きく息継ぎをします。
二人の目に水滴が落ちて太陽の光にきらめき、そこいら中が眩しく輝きに満ちて見えました。頭を振ると、髪の毛から、真珠の様な丸い水の粒が、四方八方へと飛び散ります。
マキちゃんが、手で顔を拭ってマミちゃんを見つめました。マミちゃんのまつ毛は濡れて重くなり、ピチャピチャと張り付きます。
マミちゃんは首を勢いよく傾げて、耳に入った水を出しました。
二人は顔を見合わせて、はじける様に、声を立てて笑い出します。手でグルグル水を掻き回します。腕にかかる水の重み、渦を巻くその流れが、本当に気持ちいい。
マミちゃんとマキちゃんは、また息を大きく吸い込んで、一緒にバッシャーンと水に飛び込みました。今度はカエルの様な平泳ぎで、深く潜ったまま、並んでグングン進んでいきます。水に浸かった家々が、どんどん後ろに流れていきます。門も塀もドアも、あっちへユラユラ、こっちへユラユラ揺れて、まるで魔法にかかったみたい。
水底から上を見上げると、どこの家の物なのか、朝顔の鉢植えがプカプカ浮いて流れていくのが、二人の目に入りました。
マミちゃんとマキちゃんは、顔を見合わせて吹き出しました。笑い声の代わりに、口から大きな泡がブクブク漏れ、真ん丸の空気の玉に、差し込む日の光が当たってチラチラきらめきました。
二人の細い腕が、力強く水をかいていきます。泳ぐスピードを上げると、全身を冷たい水の流れが通り過ぎます。顔に当たる水流が、体を洗い流すように押してきて、髪の毛が後ろになびき、海藻みたいにヒラヒラ揺れました。
もっと力強く泳ごう。もっと早く。ぐーんと思いっきり体を伸ばして、さっと足で水を蹴り、更に潜って、もっともっと水をかいて。どんどん進んでく!マキちゃん、こんなに平泳ぎが上手になったんだね。
道の横に、バラの花が見えました。水の中でも、見事に咲いています。ピンクに白、赤。
いつも見慣れたその色が、水の中ではもっと鮮やかに見えることを、二人は知りました。
マミちゃんはマキちゃんを、マキちゃんはマミちゃんを見つめ、二人は顔いっぱいに微笑みました。
その途端、マキちゃんは、水を吸い込んでブクブクとむせかえりました。口から出た泡のカーテンをかきわけて、マキちゃんは慌てて浮上します。
マミちゃんも電柱の横を蹴って、勢いよく水から飛び出しました。プハアッ。クジラみたいに水を吹き上げます。ああ苦しかった。ちょっと長く潜り過ぎたね。マキちゃんは、ごほごほ咳き込みながら笑っています。
それから、二人はラッコみたいに仰向けになって、水にプカプカ浮かんでみました。
そっと目を閉じます。耳は水の中に沈んだまま。だからシーンと静かです。髪が水草のように揺れ動く度にパシャパシャと、かすかな水の囁きが聞こえてくるだけ。
マミちゃんとマキちゃんは、同時にクルリと半回転して、またグーンと水に潜りました。
水の流れを全身に感じ、受け止めながら泳いでいきます。
あっ、右側を見て。マミちゃんはマキちゃんに向かって手を振り回し、合図しました。
空き地の上いっぱいに広がった雑草が、透明な水の中で、長く細い、まっすぐな藻のようにユラリユラリと揺れています。いつもよりもっと濃い緑色。斜めに差し込む光に向かって優雅に伸びて、ここは水の中の草原だっ。二人はまっすぐ、そちらに泳いでいきました。
マキちゃんが手を伸ばして、水草をつかもうとします。でも、何度かんばっても、水草はスルリと手をすり抜けていくのです。マミちゃんもやってみましたけれど、水の中ではうまくいきません。水が流れ動くと草も揺れ、掴もうとしても掴めないのです。いつもは、あんなに簡単にできるのにね。
マミちゃんとマキちゃんは、並んで丈の高い草原の上を泳いでいきます。お腹のあたりを水草がこするのを、かすかに感じながら。まるで空を飛んでいるみたい。アザラシみたいにクルリクルリと回転しながら泳ぎます。水草が二人の体にからまり、また離れて、手や顔や足を、サラリサラリと撫でていくのです。
マミちゃんは、後ろ向きにグルリと宙返りして、生い茂る水草の中心深くにまで飛び込みました。
目に入るのは、まっすぐ細長く伸びる緑のカーテンだけ。なんて美しい光景なんでしょう。両手で草を掻きわけ掻き分け、ゆっくりと泳いでいきます。前の方にマキちゃんの姿が見えました。魚みたいに両腕をピッタリと体につけ、両足を揃えたドルフィンキックで、水草の中を進んでいきます。マキちゃん、まるで人魚みたい。
二人はイルカみたいに体をくねらせながら、水草の林を縦横無尽に泳ぎ回ります。水の流れに逆らわないで、水に体を任せながら、ぐんぐんスピードを上げていきます。
やがて、あまりの速さに何も目に映らなくなり、気がつくと、マミちゃんとマキちゃんは、道路の方に飛び出していました。そろそろ息が苦しいっ。
プハアッ。顔を出して足を着いてみると、水はおへそのあたりまでしかありませんでした。坂のてっぺんは、もうすぐそこです。
マミちゃんとマキちゃんは、全身から水をしたたらせながら、歩いて頂上まで登りました。ぐったりしているけど、爽快な気分。なんて気持ちが良かったことか。
二人は足を引きずりながら、波の打ち寄せる坂のてっぺんに這い上がると、お互いにもたれてドシンッと腰を下ろしました。
あちちちちっ。濡れた体に熱いアスファルトが、焼けるみたいに痛い。びっしょりとお尻に張りついたスカートが、ジリジリいいました。
マミちゃんとマキちゃんは、笑いました。空高く高くまで、響き渡る大声で笑いました。
キラキラ光る水の向こうを見ると、遙か下、坂の一番下に、突っ立ったままのタカシとルリちゃんをサトミちゃんの姿が見えました。何をグズグズしてるんでしょう。
二人は跳ねるように立ち上がり、思いっきり手を振って叫びました。
「早く、泳いでおいでよう!」
タカシとルリちゃんとサトミちゃんは、泳ぎませんでした。三人の目には、水が見えなかったんです。水なんか無いんですもの。目の前にあるのは、太陽に照りつけられて、熱く固く、長々と伸びるアスファルトだけ。いつもの坂道だけです。
タカシとルリちゃんとサトミちゃんは、首を傾げながら、ノロノロと登っていきました。マミちゃんとマキちゃんは、どうしたというんでしょう。まるで泳いでいるみたいに、手足をバタつかせながら、坂道を駆け上っていったけど。二人が遊んでいたのは、タカシにもルリちゃんにも、サトミちゃんにもわかります。でも、どの世界に遊んでいたのかは、全くわかりません。いつもの通り、それはマミちゃんとマキちゃん、二人だけの世界なんです。
3・
「心臓破り」の坂のてっぺんに、やっと5人が揃いました。マミちゃんとマキちゃんも、水の世界から現実に戻ってきて、また一緒に歩き始めます。
この先には短い下り坂があって、そこを過ぎると、ものすごく大きな公園が現れます。稲田公園です。マミちゃんのお母さんは、昔ここに水田があったので「稲田」という名前がついたのだと言っていました。
この公園は、大きな丸を二つくっつけた様な形をしています。数字の八を横に倒したみたいな恰好です。片方の丸と、もう片方の丸の間にはけっこう段差があり、それを二十段くらいの木製の階段がつないでいます。妙なのは、公園全体が、地の底に沈み込む様な低い位置に作られていることです。お料理する時に使うボールの底を思わせます。公園に入って上を見ると、道路を歩く人や走っていく車が、はるか頭上高くに見えるんです。
学校には、この公園を通り抜けて行きます。通学路として指定されているのは、上の歩道なんですけど。でも、別にいいんです。大した違いじゃありません。五人は公園に入っていきました。
稲田公園には、色々な遊具がたくさん置かれています。滑り台、鉄棒、砂場にブランコ。ターザンロープにシーソー。バスケットゴールにサッカーゴール。木々がたくさん、花壇もあります。
でも、マミちゃんの目は何も見ていません。深い物思いに沈んでいるからです。マミちゃんは、マキちゃんと初めて出会った時の事を、思い出しているんです。はっきりした思い出ではありません。まだ五歳だったんですもの。ボンヤリとした淡い淡いイメージがあるだけです。切れ切れに映画を見ている感じ。
それは、シーンと静まり返った光景です。その中に入りこむと、マミちゃんは黙ってしまいます。思い出にじっと浸りたいからです。隣を歩くマキちゃんも黙り込んでいました。
この公園を通る時、マミちゃんとマキちゃんは、二人きりになります。タカシもルリちゃんもサトミちゃんも消え、道を歩く人も、通り過ぎる車も、誰も何も存在しません。五歳だったあの頃に戻るんです。
その頃、マミちゃんはこの町に引っ越してきたばかりでした。幼稚園がいっぱいで途中入園することが出来ず、家で退屈しているマミちゃんの為に、お母さんが稲田公園に連れて来てくれたんです。
晩秋でした。草は白く枯れてねじれ、木々は黄色や赤、茶色の葉をハラハラと散らしていました。冷たい風の吹く、寒い灰色の日。
マミちゃんは、どの遊具でも遊ぼうとしませんでした。五歳のマミちゃんには、アリ地獄の底の様なこの公園が、少し怖かったんです。木や草で覆われた土手が、グルリと公園を取り囲んでいます。小さなマミちゃんには、それが高い高い崖みたいに思えて、なんだか閉じ込められている感じ。うまく体が動きません。
マミちゃんは、八の字形の公園の真ん中にある、本物の木で作られた階段に腰かけて、じっとしていました。細い丸太を並べて作った階段です。
お母さんは、砂場でタカシと遊んでやっていました。
静かでした。他の子供はなぜかいず、木々がハラハラと葉を散らしているのを見つめていると、とてつもなく心細くなったものです。
でも、お母さんの傍には行きたくありませんでした。お母さんには、この気持ちがわからないだろうと思ったんです。
その時。階段の一番上から、誰かが下りてきました。靴底が、木の階段に当たって音を立てます。コトン、コトン、コトコト、コトン。とても気持ちのいい音でした。
誰が来たんだろうと見上げてみると、マミちゃんと同じくらいの小さな女の子でした。
その女の子は、木の階段を一段ずつ、ゆっくりと下りてきます。両足で強くステップを踏みながら、耳を澄ましています。階段の立てる音を聞いているのです。
コトン、コトン、トコトコ、コトン。コトン、コトン、コトコト、トトン。
マミちゃんのことなど気にも留めずに通り過ぎ、階段の一番下まで着くとくるりと向きを変えて、また登っていきます。音に聞き入り、音を楽しんでいます。
コットン、コットン、コトコト、トットン。トットト、コトン、コットン。
すてきな音でした。いつまでも聞いていたい音でした。
マミちゃんは、自分も音を作りたくなりました。そこで、女の子が四度目にそばを通り過ぎた時、立ち上がりました。女の子の後ろについて、自分も階段を登ります。足を高く持ち上げ、かかとから勢いよく降ろすとホラ、音が出ました。
コトン、コトン、トトトト、コットン。
二人の足がリズミカルに動いて、二人分の音になりました。
コトコト、コットン。コットン、コットン。
女の子は振り返って、マミちゃんを見ました。ニッコリ笑ってくれました。
それが、マキちゃんだったんです。でも、その時はまだ名前を知りませんでした。二人は何も、話はしませんでしたから。
マミちゃんとマキちゃんは、今度は二人並んで、階段を下りていきました。前よりもっと強く早く、小刻みにステップを踏みながら。
コトン、コトン、コトコトコト。トトント、トトント、トントントン。
時折、木から枯葉がヒラヒラ落ちてきました。階段にスイッと落ちた葉を踏むと、また違った音が出ます。
コトン、トコトコ、トトン、クシャクシャ。コトン、コトン、シャシャシャシャ、トン。
マミちゃんは、一心に耳を澄ませながら、なんだかとっても幸せになって、フンワリと微笑みました。
マキちゃんを見ると、マキちゃんもこっちを向いて、顔いっぱいに笑みを浮かべていました。
二人はそのまま、何回も何回も、階段を下りたり上ったりしました。落ち葉を蹴ると、パッと葉が飛び散ります。シャシャシャシャシャーン。
その内、マミちゃんは音に合わせて歌いたくなりました。それで、小さな小さな声で歌い始めたんです。マミちゃん自身、声に出して歌っているのか、心の中だけで歌っているのか、わからないくらいの声でした。
「ラーラン、ラララン、ラララ、ラララ。庭にはイチゴ、ラララ、ラララ」
曲名は知りません。歌詞も正しいのかわかりません。誰に教えてもらったのかも、よく憶えていません。ただこの歌は、階段の立てる音、二人の踏むステップのリズムに、それはそれはピッタリでした。
コットン、コトトン。マミちゃんは階段を踏みながら、何度も何度も歌を歌いました。
マキちゃんは、マミちゃんと並んで階段を下りながら、それをじっと聞いていました。そして、一緒に歌い出しました。
「ラーラン、ラララン、ラララ、ラララ。庭にはイチゴ、ラララ、ラララ」
二人の声はだんだん大きくなっていきました。いつの間にか腕を組み、並んでピョンピョン階段を下りたり上ったり。そうしながら、大きな声で歌って歌って歌い続けました。
全てがステキでした。灰色の空も、冷たく澄んだ風も、舞い踊る落ち葉も、全てが、ただもう美しく見えました。
マミちゃんとマキちゃんは、お母さん達が「帰りますよ」と言うまで、そうしていました。ルリちゃんを連れたマキちゃんのお母さんと、タカシを連れたマミちゃんのお母さんは、頭を下げ合ってはオシャベリしていて、なかなかマミちゃん達を呼ぼうとはしませんでした。
やっと声を掛けてきた時には、すでに夕闇が迫り、公園の中は赤く染まっていました。
タカシがぐずついて泣いていましたけれど、お母さんは相手にせず、優しい優しい目で、マミちゃんとマキちゃんを見つめていました。
マミちゃんは、マキちゃんにギュウッと手を握られて、ハッと思い出から覚めました。五歳のマミちゃんは消え、大きくなったマミちゃんに戻りました。でも、あの時と同じように、今もマキちゃんと手をつないでいます。
マキちゃんは、マミちゃんの耳に口を近づけて囁きました。
「ラーラン、ラララン、ラララ、ラララ。庭にはイチゴ、ラララ、ラララ」
そうなんだね。マキちゃんもやっぱり、あの頃に戻っていたんだね。
4・
公園を抜けると、広々とした道路が現れます。歩道はなくなるんですけど、全然、危なくありません。ここも、車がほとんど通らないんです。
道は、川の流れの様にS字を描いて、あちこちカーブしています。両側には小さな家が並んでいて、所々に、草ぼうぼうの空き地が挟まっています。
この静かな住宅街が、実は一番の難所なんです。
稲田公園から五分くらいの所に、古びて傾いた家が一軒たっています。両隣は空き地です。
この家には、クルクルパーマで腰の曲がった、五十歳くらいのおばさんが住んでいて、黒い犬を飼っています。隣の空き地のど真ん中に、汚れた大きな犬小屋が堂々と置かれ、犬はいつもそこにいました。赤い首輪をしてはいますが、鎖も綱もつけてありません。つまり、放し飼いなんです。
すごく大きな犬です。立ち上がると、おばさんの腰のあたりまで、背が届きます。真っ黒な短い毛がツヤツヤしていて、がっしりと丈夫そうです。ギラギラ光る黄色っぽい目と、鋭くて大きな歯を持っています。フサフサしたしっぽは、先がクルリとカールしてますけれど、生まれてから一度も、しっぽを振ったことはないでしょう。子犬の頃からイジワルでした、という顔つきをしてますもの。
犬の種類はわかりません。知りたくもありませんけど、例え、知りたいと思っていたところで、じっくりと見ることもできないのでは、どうしようもありません。
なぜ、見られまいかって?わかりきったことです。追いかけて来るからです。
ウォンウォン激しく吠えながら、マミちゃん達を、いや、そこを通る子供なら誰でも彼でも、ひたすら追いかけ回します。サトミちゃんなんか一昨日、スカートの裾に噛みつかれたんです。
ちなみにこの犬、大人の事は追いかけません。大人しく草の中に座って、すました顔をしています。だから、大人はこの犬を、ぜんぜん怖がっていません。いい犬だと思ってるんです。
それでも一度、マミちゃんのお母さんが「犬をつないで下さい」と、おばさんに頼んだことがありました。おばさんは、
「ウチの犬は、子供を追いかけたりしません」
と答えました。そのまま、つないでくれません。学校の先生や近所の人達も、頼んでくれました。危ないから、放し飼いは止めてくださいって。おばさんは、
「ウチの犬は、子供を追いかけたりしません」
と答えました。それで、ホラ、今でもつながれないままなんです。本当に困っちゃいます。マミちゃん達は、毎日、追いかけられてるんですもの。
最近は、この犬のいる空き地を目にすると、タカシとルリちゃんは足が動かなくなっちゃうんです。だんだん歩くのが遅くなって、目に涙が滲んできます。時には逃げ帰ろうとするんです。
マミちゃんとマキちゃんとサトミちゃんは、年上なんですから何とかしなくちゃいけません。毎朝、どうにかうまくやるしかないんです。だって、学校には行かなけりゃならないんですもの。他に道は無いんですから。
そして今日もまた、いつもの難所が見えてきました。
「みんな、静かに!」
マキちゃんが鋭く命令を発しました。気持ちを静めて覚悟を決め、大きく深呼吸を繰り返します。
「息を止めてっ。抜き足差し足、忍び足だよっ」
犬のいる空き地の向かい側、それは道路の右側なんですけど、そこを歩くのは良いやり方ではありません。かえって、犬の目に留まりやすくなるんです。車が来ないのをいい事に空き地から飛び出し、道路をヒュッと横切って追いかけてきます。だから、あえて犬のいる側、道路の左端を通った方がいいんです。
犬小屋が置かれている空き地は、高いコンクリートの土台の上にあります。土がいっぱいに盛り上げてあって、更に雑草がこんもりと茂っています。道路から見上げると、ミニタイプの丘の様です。犬は高い所にいるので、自分の真下にあたる道路の端は、見えにくいらしんです。もっとも・・・匂いは別なんでしょうけど。
という訳で、犬の目につかない様に、道路の左端に寄り、コンクリートの土台にギリギリまで密着して、腹這いになりながらソロソロ進むのが、一番安全だという事になります。
「行くよっ」
先頭を行くマキちゃんが、そーっと腹這いになりました。道路にうつ伏せになるので服が汚れます。肘を立てて前進するので、腕も汚れるし痛いのです。でも、いいんです。噛まれるよりマシでしょう?
マキちゃんの次に続くルリちゃんも、ソロソロと腹這いになりました。その次はタカシ。でも、四つん這いになったタカシの口元は震えて、今にも泣きわめき出しそうでした。
「嫌だよう・・・嫌だ・・・もう嫌だあ」
やっぱり!後ろにいるマミちゃんは、タカシのポチャポチャしたお尻を、思いっきりつねり上げました。
「うるさいっ。噛まれるよ。静かにしなっ」
低い声で脅しつけると、タカシは黙りました。でも、今度は進めなくなってしまったんです。カチンコチンに固まって動きません。
マミちゃんは、タカシのお尻にパンチを食らわせました。
「進めったら、この臆病者が。早く進めっ」
タカシはやっと、ギクシャク進み始めました。マミちゃんもすぐ、タカシの後を追って匍匐前進です。全身をイモムシみたいにくねらせながら、つま先で力一杯に道路を蹴って、
少しずつ少しずつ動きます。足がつりそう。でも、構わない。犬に見つかったら最後、こんな痛みじゃ済みそうにありません。
しんがりはサトミちゃんです。一度、噛まれたサトミちゃんは、誰よりもこの犬を怖がっていますけれど、精一杯の勇気を振り絞ってついてきます。がんばりやさんなんです。
ソロソロ、ソロソロ。数珠つなぎになった五人が、そーっとそーっと進んでいきます。緊張と恐怖で、心臓がバクバクいっています。はたして、見つからずに突破できるでしょうか。
先頭のマキちゃんが、真ん中へんで止まりました。静かにゆっくりと半身を起こし、草の間から顔を出して、犬小屋の方をうかがいます。後ろに着いているみんなも、腹這いの姿勢のまま止まりました。
「どう?犬、いた?どんな感じ?」
マミちゃんは押し殺したような声で尋ねました。でも、マキちゃんは凍りついたようにじっとしたまま、何も答えません。
「マキちゃんってば!どうなのよ?犬、何してる?寝てる?」
運が良ければ犬は寝ていてくれます。でも、大抵の場合は運が悪くて、犬が昼寝するのは午後になってから。
マキちゃんは黙ったまま、肩ごしに振り返りました。目をいっぱいに見開いて、泣きそうな顔をしています。
「寝てるかって?ううん、犬は寝てない」
今日はついていない日だということです。マミちゃんは、体がスウッと冷えてきました。ものの例えではなくて、本当に体温が下がってきたようです。汗に湿った服がひんやりとして、体がゾクゾクします。
「寝てないの?何してるの?こっちに気が付いてる?」
「目が合っちゃったよ・・・」
犬と目が合ったあ?多分、最悪です。いや、確実に最悪です。だって、グルルルルルという唸り声が、頭の上でもうしているじゃありませんか。怖い、見たくない。でも、見ないともっと怖い。マミちゃんは、ソロソロと目を動かして上を見上げました。
犬が真上に立っていました空き地のふちに立って、ギラギラ光る眼でこっちを睨んでいます。口が開いていて、ピンクの歯茎と尖った牙が見えます。よだれも。
しっぽはユラユラと動いています。嬉しくて、しっぽを振っているんじゃありません。攻撃に移る前、勢いをつける為に揺らしてるんです。 足はピンッと張っていて、背中は弓なりに曲がっています。猫じゃあるまいし!
マミちゃんの目が、キョトキョト勝手な動きを始めました。体が動きません。冬のうんと寒い日にそうなる様に、カチコチに固まって小さく震えてきます。動けないっ!
でも、動かなきゃいけないんです。見つかってしまったからには、力いっぱい駆け出して、逃げ切るしかないじゃありませんか。
担任の先生は「逃げ出しちゃいけない。堂々と立って、恐がっていないことを見せれば大丈夫だ」
と言います。なら、自分がやってみればいいんです。絶対に出来やしません。あの歯ときたら、まるでオオカミです。肉食獣を前に、堂々と立ったりできるもんですか。
立つんだ、どうしても!走れ、逃げるんだ!
マミちゃんが勇気をふるい起こして叫ぼうとした時、マキちゃんがパッと立ち上がりました。マミちゃんの視線を瞬時に捉えて叫びます。
「逃げろ!マミちゃん、逃げるんだよっ」
言うなり、ルリちゃんの手をひっつかんで、走りだします。
マミちゃんもタカシの手を握り、引き起こそうとします。タカシは何やらギャアギャアわめきながら、立ち上がろうとしていますけれど、うまく立ち上がれずにしゃがみこんだまま、もがいています。
マミちゃんは、力いっぱいタカシの手を引っ張るんですけど、引くタイミングと、立とうとするタイミングが合わないので、転ぶばかり。これだから、気の合わない弟ってのは困るんです。
「バカッ。立つんだよう!」
怒鳴っても、タカシは泣きわめくばかりで立てません。
もう遠くまで走り去っていたマキちゃんが、突然、足を止めました。ルリちゃんの手を振りほどくと、
「ルリッ、逃げな!さっさと逃げろ!」
わめくなり、ためらいもせずに向きを変え、自分は逆に、マミちゃんの方へと走ってきます。
マミちゃんにぶつかる様にして、飛び込んできたマキちゃんは、タカシの襟首をガシッと掴んで、マミちゃんと一緒に引っ張り始めました。タカシは転んだ姿勢のまま、道路の上を引きずられていきます。数メートルは進みました。
「早く立てったら、このトンマ!」
マミちゃんとマキちゃんが叫べば叫ぶほど、タカシの足は空回り。
その横を、サトミちゃんが駆け抜けて行くのが見えました。ボーッと立ちすくんでいるルリちゃんの手を掴んで、走り続けます。ルリちゃんは、つんのめりながらもサトミちゃんに助けられて逃げて行き、前方の角を曲がって見えなくなりました。
良かった。少なくとも、これでルリちゃんは大丈夫。
その時。マミちゃんとマキちゃんの周りが、ふいにシンッとしました。来るべきものが来た、というあの感じです。
道路につっぷしているタカシの突き出たお尻ごしに、犬が道路に飛び降りたのが目に入りました。
先生は以前「あの空き地の高さから、犬が道路に飛び降りることはないだろう。だから、心配いらないさ」と断言したものです。
それがどうです。飛び降りたじゃありませんか。唸りながら、ジリジリと迫ってきているじゃありませんか。先生に見せてやりたいもんです。大人ってのは、本当に何もわかってないっ。
いや、そんな事を言ってる場合じゃありません。
「ウァン、ウァン、ウァン!」
ものすごい勢いで吠えながら、犬が飛び出しました。一っ跳びでタカシの真後ろにやってきて、タカシのお尻の上で足を踏ん張ります。最初はどこに噛みつこうか、考えているに違いありません。
「噛まないでぇ!」
タカシが泣き叫び、悲鳴を上げました。
その声を聞いた途端、マミちゃんのカチコチの体からフッと力が抜けました。手足は自由に、なめらかに動くようになり、頭がす―っと冷静になっていくのがわかります。
マミちゃんは、呟きました。
「私がタカシを助けるよ。だって、私はお姉ちゃんなんだから」
マミちゃんは、サッとランドセルを下ろすと、両手に抱えて立ち上がりました。タカシから手を離したので、いきなり支えを失ったタカシは、バタンと道路に倒れ込みます。
なぜって、マキちゃんもまた、同時にタカシの手を離して立ち上がったからです。
マミちゃんと全く同じ様にランドセルを両手に持ち、ドッジボールの時、ボールを構えるみたいな恰好で振り上げています。
マキちゃんは、ドッジボールがすごく上手なんです。負けることは滅多にありません。もっとも、ドッジボールじゃ、負けたからって、噛みつかれたりはしませんけれど。
マミちゃんとマキちゃんは、ランドセルを構えて、二人一緒に叫びました。
「あっち行けえ!あっち行けええっ!」
タカシは泣き叫びます。犬は踏ん張ったまま吠えまくります。その時、
「オイッ、コラア!大丈夫かあ!」
という声が、後ろから響きました。
さっと肩ごしにふり返ると、スーツを着たおじさんが、真っ赤な顔をして走ってきます。ゼイゼイ息を切らしながら、ドタドタ駆けつけたおじさんは、
「オイッ。やめろ!ホレホレ、帰った帰った。いい子だから。ホレホレ、シッ、シッ」
そう怒鳴りながら、茶色の薄べったい鞄を、犬に向かって振り回します。
知らないおじさんです。太っていて、お腹がタヌキみたいにでっぱっています。マミちゃんのお父さんよりも年上で、あまり強そうではありません。それどころか、おじさんは、かなり怖がっているように見えました。
でも、犬は突然やる気をなくしました。吠えるのを止め、くるりと後ろを向くなり、なんと逃げ出したじゃありませんか。
ジャンプして空き地に戻った犬は、まるでふてくされた様にうなりながら、犬小屋の前をグルグル回りました。そして最後に、しっぽをダラリと垂れて小屋に引っこんでしまったんです。
おじさん、すごい。かっこいい!
マミちゃんとマキちゃんは、おじさんをウットリと見つめました。タカシは道路に座り込んだまま、ボーッとしています。おじさんもボーッとしていました。脱力した様にその場に突っ立ったまま、自分が逃げ出す前に、犬の方が逃げ出してくれたのが信じられない、という顔をしていました。
マミちゃんとマキちゃんは、顔を見合わせました。二人とも、顔は汗だらけで真っ赤、目には涙がにじみ、胸はドキドキしています。おじさんと同じで、まだ息も切れています。でも、気分は最高!
おじさんは強く戦ってくれました。私達も強く戦いました。みんな、本当に頑張ったんです。
マミちゃんとマキちゃんは、大きな声で言いました。
「おじさん、ありがとう。本当にありがとう」
いつもの様に、二人の声はピッタリと揃っていました。
おじさんは、ノロノロとこちらを向いて、なぜそこに二人がいるのかわからん、という顔をしました。まだボーッとしているみたいです。それから、照れくさそうに笑い、
「おじさんも怖かったよ」
と呟きました。マミちゃんとマキちゃんも笑いました。
おじさんは、マミちゃん達に手を振って、そのまま歩いていきました。
途中で、腕時計を覗き込みました。一回、つまずきました。しゃがみこんで、靴紐を結び直しました。カバンの中を掻き回しました。それから、カーブを曲がって見えなくなりました。
マミちゃんとマキちゃんと、まだ座り込んだままのタカシは、ぜんぶ見ていました。じいっと見つめていました。おじさんの姿が見えなくなるまで、ずっとずっと見送っていました。おじさん、ありがとう。おじさんにとって、今日がいい日になりますように。これからもずっと、おじさんが幸せでありますように。
5・
マミちゃんとマキちゃんとタカシは、元通り、ランドセルを背負って歩き出しました。
ふう。やれやれ。朝から冷や汗かきましたけど、もうそれも済んだこと。危ない所を切り抜けて、マミちゃんとマキちゃんは、一段と元気になりました。クスクス笑いながら、並んで勢いよく歩いていきます。
今はもう、あんな犬、ちっとも怖くないもんね。明日になればまた、怖い思いもするかもしれないけど、明日は、まだまだすっと先。今、悩む事じゃありません。
マミちゃんとマキちゃんは、スキップして飛び跳ねます。スキップ、スキップ、ピョンピョンピョン。右に跳ねて、ハイ!左に飛んで、ホイ!
タカシは足を引きずりながら、ノロノロとついてきます。面白くなさそうに二人を睨んで、ブーブー文句を言っています。
「待ってよう、待ってよう、お姉ちゃん!お母さんに言いつけてやるう。あの犬の所でだって、お姉ちゃんがあんなに引っ張るから転んだんだよ。いつだって、お姉ちゃんは・・・」
まだ、犬の事をぼやいてんの?しつっこいなあ、もう。
犬の空き地を過ぎて三分くらい歩くと、曲がり角に出ます。サトミちゃんが、ルリちゃんの手を握ったまま待っていてくれました。
「大丈夫だった?噛まれた?どうやって逃げられたの?」
サトミちゃんは興奮した顔で、次々と質問をしてきます。マミちゃんはニッコリして、
「うん、大丈夫だった。心配させてごめんね」
そう答えました。一瞬、マキちゃんと一緒に戦った事や、かっこいいおじさんの事を話してあげようかと思いましたけど、やっぱりやめました。あの特別な体験が、ちゃんと伝えられるとは思わないし、サトミちゃんにわかってもらえるとも思いません。第一、話した途端、つまらない事に変わってしまうような気がしたんです。マキちゃんも、
「待たせてゴメン。ルリの事、ありがと」
と言っただけでした。
「お姉ちゃん・・・」
ルリちゃんが、蚊の鳴く様な声でマキちゃんに呼びかけ、小走りに近づいてきます。安心したのか、ちょっと涙ぐんでいるようです。
こんな時でも、ルリちゃんの滑らかなおかっぱ髪は、一筋だって乱れません。静かでお行儀の良い動き。ルリちゃんみたいな子がお姉ちゃんだったら、タカシと上手くいくかもしれません。
でも、マキちゃんはルリちゃんを乱暴に押しやって、ぶっきら棒に言いました。
「大丈夫だって言ってんじゃん。メソメソするんじゃないわよ、この泣き虫。ちゃんとついて来なさいよ、弱虫がっ」
マミちゃんは、首を傾げました。こんなに冷たい言い方は、マキちゃんらしくない気がします。今日のマキちゃんは、どこといって、いつもと変わらないように見えますけれど、何か変です。ルリちゃんに、やけにイジワルです。今も、目を細めたすっごく怖い顔で、ルリちゃんを睨みつけているじゃありませんか。
ルリちゃんなんかどうでもいいけど、マミちゃんは、マキちゃんが心配です。
マキちゃんは、ルリちゃんを肩で突き除けると、マミちゃんの手をギュッと握って元気に言いました。もう、ニコニコ笑っています。
「さあ、行こ行こ。次はいよいよ『橋渡り』だよ」
橋渡り。イエーイ!ドキドキ大冒険の始まりだいっ。
「よっしゃあ!見てなよーっ。すっごい事、してやるからねー」
マミちゃんとマキちゃんは。キャアキャア笑いながら走りだしました。学校はもう、目の前です。
でも、学校に着く前にもう一つ、面白い事があるんです。
曲がり角から学校の門までの道は、ごく緩やかな坂道になっています。距離は短いけれど幅は広く、暗くて静まりかえった、ジメジメした道です。
坂の右側は、学校を囲んでいる石壁。左側は、古い古い木造の、傾きかけた小さな家々が並んで建っています。どの家も、うっそうとした大きな木々に取り囲まれていて、昼間でも、まるで夜みたいに暗く沈んでいます。家の形や壁の色でさえ、見えにくい程でした。
それらの家々と坂道の間には、細い川が流れています。いや、正確に言うと流れてはいません。どんよりとした茶色の、実に汚らしい水がよどみ、嫌な臭いを放っています。
底は全く見えません。満々と湛えられた、じっと動かない水面には、小枝や葉っぱ、ビニール袋、タバコの吸い殻、空き缶なんかがたくさん浮いていて、とっても気持ちが悪いんです。
木造の家々に住んでいる人達は、その川を渡らないと道に出られません。だから、家一軒一軒の門の前に、小さな橋が一つずつ、かかっています。幅二十センチくらいしかない、ただ木の板を「橋」と呼べればの話ですけど。もちろん、手すりなんかついていません。
坂の上まで、家は五軒。板の橋も五枚です。
橋と橋との間は、そんなに開いていません。縦に置いた畳一畳分くらいでしょうか。飛び移れそうで移れなそうな、そんな距離です。
一番目の橋に、まず着いたのはマミちゃん。深呼吸すると、ソロリソロリと橋を渡り始めます。その後ろに、マキちゃんが続きます。両手を広げてバランスを取りながら、慎重に渡ってきます。
やっと追いついたタカシは、橋の前で地団駄ふみながら、またまた喚き始めました。
「その橋、渡っちゃいけないんだよっ。その橋は、その家の人の物だろっ。お母さんに言われたじゃないかあ。なんで毎日こうなんだよ。落ちたら、どうするんだよう。ベチャベチャになっちゃうじゃないか。やめてよ、やめてよ、もうやめてよ!」
タカシこそ、何で毎日毎日、同じ文句を言うんでしょうか。どうせ聞いてもらえないのに、飽きもせず。
ルリちゃんとサトミちゃんは、もっと利口です。何も言わず、タカシの後ろに立ったまま、じっとこっちを見つめています。
マミちゃんとマキちゃんは、橋の真ん中に向かって、少しずつ前進します。あちこちに茶色のヒビやささくれが目立つ木橋の、ミシッミシッという音を聞いていると、ドキドキしてきます。いつかこの橋、ボッキリと折れるんじゃないでしょうか。それはいつ?今日かもしれない・・・。
「今日こそぶっ壊れるね、この橋。私達、ヘドロの水中に沈んでもがく事になるんだよう」
マキちゃんが、耳元で低く囁きます。
落ちたらどうなるんでしょう。マミちゃんは、背中がゾゾーッとしました。水の中に何がいるのか、全然わからないのに。ヘビとかいたらどうしよう。
「ウジ虫がいるかもね。ヒルとかヘビとか、ネズミが泳いでいるかもよ」
マキちゃんが、また囁きます。マミちゃんは前を向いたままで、後ろのマキちゃんに囁き返しました。
「そしたら、私達、ヘビにグルグル巻きつかれるんだよお。泳ぐ事もできずに死ぬんだ。もがいて手を伸ばしても、つかまるものは何もない・・・ああっ。あれは何だあ!」
マミちゃんは、突然、大声で叫びました。
マキちゃんはビクッとして飛び上がりました。本当に、二十センチは飛び上がりました。バランスを崩しかけて、たたらを踏みます。
肩ごしにそれをチラリと見たマミちゃんは、体を二つ折りにして笑い転げました。
「マミちゃん!私、落ちるところだったじゃないっ。やめてよね、もう!そういう事すると・・・うっ、うわあ!マミちゃんっ、大変!大変だあっ」
マキちゃんが叫ぶのと同時に、マミちゃんの襟元に、冷たい物がベチャリと落ちてきました。
「ギャアアアアア!」
マミちゃんは、両手で襟元を引っ掻き回します。足をバタバタさせたはずみに、片足が橋を踏み外しました。
おっとっと、落ちるう!片足が宙に浮き、スニーカーのかかとが汚い水をかすって、小さな水しぶきが上がります。上体が反って、今にも倒れそう。
マミちゃんは腕をグルグル回してバランスを取り戻そうとするんですけだ、てんでダメ。もうダメ。落ちる、落ちる!
タカシがギャーギャー泣き叫んでいるのが聞こえます。サトミちゃんも何やらワアワア言っています。二人とも喚くだけ?役に立たないんだから。
後ろから、マキちゃんの手がさっと伸びました。マミちゃんの両脇にグッと差し入れ、しっかりと支えてくれます。
やれやれ。やっと両足が、橋に戻ってくれました。マミちゃん、ゼイゼイハアハア、息がつけません。胸はドキドキ。急に汗が噴き出しました。振り返ると、マキちゃんがニヤニヤしながら、丸い小さな葉っぱをクルクル回してみせました。
「やーい。引っかかったあ。襟に入ってたのはこの葉っぱ。こんな物、怖がってやんの」
クルリと向き直ったマミちゃんは、
「ふざけないでよ!」
と怒鳴って、マキちゃんの腕をドンッと押します。マキちゃんはよろめきました。
「何すんのよっ」
マキちゃんは、マミちゃんの足を蹴り飛ばします。
「わあっ!お、落ちるう」
あやうく尻餅をつくところだったじゃない。もーう、怒った!
マミちゃんはマキちゃんに掴みかかると、両肩をドンッと押しやりました。マキちゃんは、マミちゃんのお下げを引っ掴んで、バランスを取り戻します。イタイ!仕返しに、マミちゃんもマキちゃんの髪を引きむしります。マキちゃんが、また蹴りを入れてきました。こいつっ。マミちゃんは、お腹にパンチを見舞って、耳を引っ張ります。
「どわああっ!」
二人とも、あっちにフラフラ、こっちにフラフラ、足が狂ったようにバタバタ激しくステップ踏んで、橋はギシギシミシーッときしみます。体がグラグラ揺れて、立っていられない。片足がフワーッと浮かび上がって体が斜めに傾いていき、もうダメ、もうダメだあ。
「お、お、落っこちるう!」
タカシとルリちゃんとサトミちゃんが、ギャアギャア叫びながら、駆け寄ってきます。タカシは泣いています。
その途端、マミちゃんとマキちゃんは二人同時に、さっと体を立て直し、強く橋板を蹴って、ピョーンッと高くジャンプしました。そして、次の瞬間には、両手を広げ、両足を揃えて見事な着地。細い橋の上に、揺らぎもせずしっかりと。
「なあんてね、なあんてね、落っこちるなんて、ウソだよお!」
マミちゃんとマキちゃんは、笑い崩れました。誰が落ちるもんですか。ふらついたのも、よろめいたのもウソ。叩き合いも、蹴り合いも、怒鳴り合いもウソ。ぜーんぶ、ウソだもんねえ。
二人はヒイヒイ笑いながら、タカシとルリちゃんとサトミちゃんを見やりました。その三人の方は、笑っていませんでした。何だかゲッソリとした顔をしています。面白くないんでしょうか。変なの。
マミちゃんとマキちゃんは、顔を見合わせて、ニヤリとしました。実はこれからが本番なんです。すごい一発勝負。
二人は頭をピンと起こして、背中をまっすぐに伸ばします。お互いに十分な距離を取り、橋の上の横並びにしっかりと立ちます。呼吸を整え、心を静めて、口をキリッと引き結び、ハッと気合を入れます。
足元には汚い川、目の前には、川に架かった残り四本の橋が見えています。
いま立っている一番目の橋から、次の二番目の橋までは、とても遠く離れて見えました。
でも、近いようにも見えます。それがこの橋の、何とも言えず良い所なんです。遠すぎれば、諦めなければなりません。近すぎれば、スリルがありません。とってもいい距離。走り飛びをするには・・・ね!
マミちゃんとマキちゃんは、膝を屈伸してほぐし、同時に力を溜めます。そのリズムに合わせて両腕を大きく前後に振り、勢いをつけます。
そして、せーの!今だ!
二人の足が、バーンと音を立てて橋を蹴ります。両手は高く、頭の上まで振り上げられ、足がグルグルと宙を駆けていきます。飛べ、空高く!もっともっと、高く飛べ!
マミちゃんとマキちゃんの、しなやかに伸びた体が、空に舞い上がります。力いっぱい広げた両手が、風を掴んで風に乗り、髪はなびいて吹き乱され、パタパタと踊り狂います。馬が柵を飛び越えるように、二人は強く、優美に飛びました。
そして一瞬後、一番高い所に浮かんだと感じたその時、体をまっすぐに伸ばします。目を閉じ、間隔を鋭く研ぎ澄まして。
ヒュウウゥ。マミちゃんとマキちゃんの体が、風を切って落ちていきます。まるで矢の様に。何も考えず、残っているのは感覚だけ。
片足が二番目の橋に触れました!目がパッと開かれます。すぐさま、もう一方の足を振りおろし、勢いよく橋板を蹴ってジャンプ!また空中へ舞い上がります。
空を駆けていくよ。もう何も怖くない。何だってできる。そう、きっとうまくいく。これが最後の橋。行こう、進もう、私達ならきっと出来る。
ドーンッ。マミちゃんとマキちゃんは、膝を曲げ、両手で五番目の橋に着地しました。
ゆっくりと体を起こしてみます。大丈夫、しっかりと橋に立っています。そのまま動かずに、自分達が本当にやり遂げたのかを確認します。
やった。落ちなかった。私達は、今日も見事に飛んだんだ。いつもだけど。
二人は体を真っ直ぐに伸ばして、顔を見合わせました。マミちゃんの顔は輝いています。マキちゃんの顔も輝いています。
木漏れ日がチラチラと光って頬に当たります。汗の粒が、ダイヤモンドみたいにきらめきました。マミちゃんとマキちゃんは、はじける様な笑い声を空高く響かせます。なんて美しい夏の日。なんて楽しい夏の日。今日もやっぱりステキな日。
タカシの声が割り込みました。
「いい加減にしてよ、お姉ちゃん。僕、もう学校に行くからね。こっちが置いていってやる。帰ったら、お母さんにぜんぶ言いつけるからね。落っこちてたら、どうするつもりだったのさ。それに・・・」
まったく、もう。やっぱりタカシとは、どうにもこうにも気が合わないっ。
6・
学校の門から中に入ったら、教室に飛び込むまで、特に何もありません。マミちゃんとマキちゃんは、この間を、ものすごいスピードで力いっぱい駆け抜けることにしています。
ハッハッと弾む息、蹴り散らされる校庭のじゃり、宙を飛んで下駄箱に放り込まれる靴。的が外れて落っこちる靴。全てが、早回しのフィルムの様に流れて、あまりのスピードに、何もかもがぼやけて見えてしまうんです。
上靴は手に持っていきます。廊下のリノリウムを靴下でツーッと滑っていくと、スケートしているみたいで、面白いんですもの。ツツーッ、ツツーッ、スイッ、ヒュウン。どっちが早くつけるか競争だっ、いや、ダメだ。だってもう着いちゃったもの。
ガラガラガラ。マミちゃんとマキちゃんは、教室のドアを勢いよく開けます。滑りが良すぎる木製のドアは、バーンとすさまじい音を立て、威勢よく跳ね返ってまた閉まりかけます。
おっと。サトミちゃんがまだ来てないんだっけ。マミちゃん、マキちゃん、サトミちゃんは、同じクラスなんです。廊下を覗いても、サトミちゃんの姿はありません。まだ下駄箱の所かな。まあ、いいや。先に入ってましょう。
マミちゃんとマキちゃんは、ドアの敷居をピョーンと元気よく飛び越えて、教室の床に着地。そのまま、ツツーッと滑っていきます。使い込まれた木の床はスベスベで、廊下よりも気持ちよくスピードが出るんです。
「おっはよう!おっはよう!」
二人が大声で叫ぶと、真っ先に駆け寄ってきたのはマリちゃんです。ミュージカルやお芝居が大好きで、将来は絶対に舞台女優になると言ってます。細かく縮れた髪がモコモコフワフワしてるので「アニー」の役なんか向いてるかもしれません。
「ねえねえ、劇団四季の『夢から醒めた夢』の歌、歌おうよう」
三か月前、学校からこの劇を見に行っていらい、マリちゃんはその歌に夢中なんです。
「ベエーッだ。四季より、宝塚の方かいいもんね」
ニヤニヤしながら言ってきたのは、いっちゃんです。いっちゃんは、雪よりもっと白い肌をしていて、目がいつでも夢見るように宙を向いています。夏でもいっぱい服を着重ねして、暑い暑いとフーフー言います。今日も、白い羽がフワフワいっぱいついているマフラーみたいな物を首にまいて、白い毛糸の手袋をはめています。宝塚のファンなので『ご贔屓さん』の恰好をマネしてるんです。もっとも、トップさんが身に着けているのは、毛糸の手袋じゃないと思うんですけれど。
「おーい、君ら。今日も橋を飛んで遊んでただろ。あんな事ばっかりしてて、よく遅刻しないよなあ」
話に割り込んできたのは、マサくんです。クラスで一番、頭のいい子。ご両親とずっとアメリカにいたんで、英語だってペラペラ。でも、ちっとも威張らないんです。
マサくんの言う通り、マミちゃんとマキちゃんは、今まで一度も遅刻した事はありません。あんなに遊んでるのに変だなあって思うんでしょう、みんな。先生やお母さんも、よくそう言います。
でも、大人と子供じゃ、時間の流れが違うんです。大人にはほんの一瞬の事でも、子供には長く感じられるんです。ウラを返せば、長い時間を遊んだようでも、本当は一瞬の出来事なんです。だから、マミちゃんもマキちゃんも、一瞬の時を長く使って、色々な事が出来ちゃうんです。
始業のチャイムが鳴りました。ようやく教室にたどり着いたサトミちゃんも含めて、みんな慌てて席に着きます。
マミちゃんの仲良しの席は、全員、遠く離れています。近くに座らせると、オシャベリがうるさくて、自分の声も聞こえんのだ、と先生は言うんです。
でも、マミちゃんは、先生がそうしてくれて嬉しいんです。だって、授業中にノートを回して文通ごっこができるんですもの。直接、口で話すより、ずっと面白いんです。先生も、それぐらいはいいかなって、見逃してくれてるみたいです。
ガラガラガラッとドアが鳴って、先生が入ってきました。針金みたいに痩せて、汚れたメガネをかけている男の先生です。まだ四十歳くらいなのにすごい猫背で、体がくの字に曲がっています。それで、おなか痛がってるみたいに見えちゃうんです。
先生はいつもの様に、ドアからずっと後ろに下がって立ち、腕だけを伸ばした妙な格好でドアを開けました。
今、クラスでは、ドアの上に黒板消しとかチョークとか、消しゴム、小枝、セミの抜け殻なんかを挟んでおいて、入って来た人の頭に落っこちるようにする、というイタズラがはやっているんです。マミちゃんのおじいちゃんが、子供の頃によくやったんですって。マミちゃんが、その話をクラスでしたら、みんなとても喜んでしまって、それから毎日、先生を狙ってドアに何かを挟んでおくんです。
最初は失敗続きでした。黒板消しや本なんかすぐ目に入るから、ドアを開ける前に先生にはバレちゃうんです。先生は、黒板消しが落ちてくる前に手で受け止めて、ブーブー文句を言う子供達に、
「こんな古い手に、引っかかるような先生じゃないぞう」
なんて、ニヤニヤしてるんです。古い手って言われたって、仕方ないじゃありませんか。元はと言えば、おじいちゃんのアイディアなんですから。
でも、この前の月曜日は、本当にうまくいきました。
マサくんが、校庭で見つけた芋虫を、ドアに挟んでおいたんです。大人の中指よりもっと大きくて、ムッチムチに太った芋虫です。濃いこげ茶色の体に、赤い点々がついていて、もぞもぞ動くたくさんの足は黒でした。
グニャグニャウネウネ、暴れてくねる芋虫を、潰さないよう、ドアにガッチリ挟み込むのは大仕事。マサくんと手伝った男の子達は、みんな大汗かいていました。
おかげで大成功。先生は、その日もいつもと同じように、チラリとドアの上を見ましたけれど、それほど、注意深くは確認しなかったんです。大きな物が挟んでいなかったので安心して、子供達はもう飽きて止めちまったんだ、と思ったらしいんです。
油断した罰はすぐ下りました。
先生は極端に猫背なので、体より頭が先にドアを通ります。だから芋虫は、先生のボサボサに突っ立った髪のど真ん中に、見事、着地したという訳です。
ポトンッという感触に、先生は妙な顔で立ち止まり、手でそっと頭を触ってみました。そして、それが何だかわかった途端、キエエエッーという声を張り上げて、猛烈に髪をかきむしり始めました。芋虫はすぐ床に落ちましたけれど、かわいそうに、半分つぶれていたんです。
クラスのみんなが、涙を流して笑い転げる中、先生だけは、凍りついたような顔でもがく芋虫を見つめていました。先生だって男の子なんでしょうに、芋虫が恐いんでしょうか。変なの。
でも、先生は本当にイヤだったみたいで、気でも違ったみたいにハンカチで頭を拭きながら、真っ赤な顔で黒板の前に仁王立ちして、
「先生はもう二度と、絶対に絶対に、油断したりしないからなあっ」
と叫んだものです。
それからというもの、先生は、ドアというドアが怖くなってしまったみたいです。
先生の名前は、タカハシノブヒロと言います。でも、みんなタカノブゥ先生って呼んでます。ブゥの所を、豚の鳴き声みたいに発音するのがミソ。
マミちゃんは、タカノブゥ先生が好きです。クラスのみんなも、学校も大好きです。でも、二つだけ嫌いなものがあります。算数のテストと、給食に出るシイタケ。なのに、学校はこの二つがやけに好きみたいで、いやに頻繁に登場するんです。
今日も、黒板の前に立ったタカノブゥ先生が、マミちゃんの大嫌いな言葉を言いました。
「算数のテストだ。どうせやるなら仕方ない、頑張ってやるに限るぞ」
タカノブゥ先生は、さっさとテスト用紙を配り始めました。それをじっと見つめながら、マミちゃんの顔は、どんどん下向きになっていきます。
胸がずーんと沈み込む様な気もち。こんな気分でいるのは、きっと自分だけでしょう。マキちゃんもサトミちゃんもマリちゃんも、算数が得意なんですもの。いいえ、どの教科もよくできます。他の科目はマミちゃんも好きですけど、算数だけが、どうにもこうにも、お話しにならないくらい、出来ないんです。
いっちゃんも、算数はぜんぜん出来ません。でも、他の科目も全部ダメだから、別にいいんだよって笑っています。いっちゃんの言う通り。一つだけ出来ない、というのが問題なんです。
マミちゃん以上に、算数のテストの点を気にしているのが、マミちゃんのお母さんです。マミちゃんがテストを持ち帰って見せると、お母さんはチラッと点数を見ただけで紙を投げ出し、深い深いため息をつきます。
そして、暗い声でうめく様に言うんです。
「どうして算数だけダメなの?脳みそ欠けてるんじゃないの?」
「算数を解く部分だけ、脳から抜け落ちてるのよ」
算数だけ、算数だけ、だけ、だけ、だけ、ダメ、ダメ、ダメ。
何度も何度もこう言っては、また深いため息をついて涙ぐむんです。マミちゃんは、いつもお母さんを泣かせてしまうんです。
お母さんの顔を思い浮かべて、マミちゃんの胸はズキンッと痛みました。机の上の消しゴムとエンピツがぼやけて、涙が一粒、ポタりと落ちます。
今日のテストだけは、どうしても良い点を取らなきゃいけないんです。昨日の夜、お父さんと一緒に、算数を二時間も勉強したんですもの。お母さんは、それをじっと見守りながら、厳しく言いました。
「お父さんは、大切な時間をわざわざ使って教えてくれてるのよ。だから、次のテストでは、きっと良い点を取るんですよ」
マミちゃんは、頭を抱えました。お母さんの言うような、良い点が取れるでしょうか。また七十点だったらどうしましょう。六十点台だったら?お母さんに合わせる顔がありません。五十点ぐらいだったら・・・考えたくもありません。家出するしかないのかも。
だって、タカシはいつも必ず百点を取るんですもの。どの科目も百点以外はもらったことがありません。お母さんは、タカシのテストを見ては、厳しい顔をしてこう言います。
「百点じゃなければ、〇点と同じ」
先月、マミちゃんが六五点を取った時なんか、お母さんはショックで、夕飯も作れなくなっちゃったんです。
不安で怖くて、マミちゃんの心臓はドキンドキン、ズキンズキンを痛み出しました。体が震えて、気持ちが悪い。実はマミちゃん、最近、後頭部が少し軽くなった気がしてならないんです。脳から、算数をやる部分が、抜け落ちている証拠です。脳みそが欠けてるから軽いんです。お母さんが言う通り、私は少しおかしいんだ。
だったら、今日のテストもきっとダメでしょう。怖い、怖い、怖い。
マミちゃんがカタカタ震えている間に、テスト用紙が全員に渡ってしまいました。もちろん、マミちゃんの机の上にも載っています。逃げも隠れもできません。
マミちゃんは、目をギュッとつぶりました。これが夢ならいいのに。いやいや、夢の中にまで算数に入りこまれたくはありません。でも、やっぱり夢ならいい。覚めれば、泣いて終わりだもの。もう、頭の中はグッチャグチャです。
トントンと肩を叩かれて、マミちゃんは飛び上がりました。タカノブゥ先生が前に立って、心配そうにマミちゃんを見つめています。
「大丈夫か?具合、悪いのか?」
そうだよ、先生。私、頭の具合が悪いの。お母さんがそう言ったんだもの。先生に話してしまいたい。タカノブゥ先生の優しい目を見ていると、心が弾けて泣いてしまいそうです。私、どうしたらいいの?
マミちゃんは黙って首を振りました。必死に体を固くしてぐっと我慢します。先生に話しても、どうしようもない事です。タカノブゥ先生が困ります。かわいそうだもの。
先生は、まだ心配そうにしていましたけれど、いつまで待っても、マミちゃんが何も言わないので、首を傾げながら黒板の前に戻っていきました。
マミちゃんの心臓は固まったまま、動いていない様な気がします。頭は、さっきよりも軽くなっているみたいです。
「じゃあ、始めるぞ。ヨーイ、ドンッ!」
先生の合図で、みんなが一斉にテスト用紙をつかみます。紙のひるがえる音が、教室中に響きました。
マミちゃんも何とか鉛筆を手に取り、問題に目をやりました。
その途端。
突然、頭が真っ白になりました。目の前が真っ白のなったんです。空白、空っぽ、真っ白け。
先生に教えてもらった事も、お父さんに教えてもらった事も、自分で必死に勉強した事も、きれいにすっ飛んでしまいました。何もかも、頭から抜け落ちてしまったんです。
残ったのは、真っ白なのに闇の中にいるような、変な世界だけ。
マミちゃんには、もう何も書けません。何も見えません。目の前には、白い砂漠がどこまでも広がっているばかりです。
こんなになったのは、生まれて初めてです。全身から汗が噴き出しました。どうしよう。私、どうしちゃったの。やっぱり頭がおかしいの?
マミちゃんがうろたえている間にも、時間はどんどん過ぎていきます。あっという間に、テストは終ってしまいました。マミちゃんの肩はがっくり落ちています。
テストの後半で、何とか気持ちを落ち着かせたマミちゃんは、白い霧をかき分ける様にして、もがきながら、いくつかの問題は解きました。でも、答えが合っている保障はありません。何を書いたかも覚えていないんですもの。
このテストが返ってきたらどうしましょう。お母さんには見せられません。ランドセルのポケットに隠す?それが見つかったらどうする?
そう思うと、マミちゃんは怖くて怖くて、机の上に突っ伏してしまいました。どうしたらいい?どうすればいいのよう。
ボーンッ。マミちゃんの頭に何かが勢いよくぶつかりました。慌てて顔を上げると、マキちゃんがニヤニヤしながら立っています。いつの間にか、算数の時間は終っていたようです。
「何、ボケーッとしてんの?次の時間はプールだよ。プール、プール、プールのお時間!」
そばでは、いっちゃんも澄ました顔で、ビニールのプールバックを振り回しています。さっき頭に当たったのは、どうもこれっぽい。
「マミちゃん、早く着替えなよ。プールだってばあ。聞こえないの?」
はっきり聞こえてますって。プール。この世に、これほど楽しいものがあるでしょうか。夏といったら水泳。学校でも最高にステキな時間です。一日中、プールならいいのになあ。
マキちゃんが、マミちゃんの目の前でバンバン手を叩きました。
「プールの授業、二時間しかないんだよ。早く水着とって来てよ。マミちゃんが着替えなきゃ、始まんないでしょ」
「もういいっ。私が取って来る!」
マリちゃんが、イラついた様子で叫びました。教室の後ろにあるロッカーまで、一目散に走っていきます。机と机の間の通路は狭いので、あっちにぶつかり、こっちにぶつかりして、机も椅子もガタガタいいましたけれど、マリちゃんは気にもしません。
ロッカーから、マミちゃんのプール用バックを引っ張り出します。キラキラした銀色の、星とハートのマークが一面に描いてある赤いバックです。
それを手に取るなりマリちゃんはさっと振り返り、まるで野球の選手みたいに、バックを、思いっきり放り投げてきました。プール用バックには、ホックもファスナーもついていないんですけど。
案の定、クルクル回転して飛んでくるバックは、中に入っていた水着や、タオル、帽子、目薬をぜんぶ床にまき散らし、空っぽになってマミちゃんの足元に落ちました。
「コラアッ!やめてよねえっ」
マミちゃんはパッと立ち上がると、空のバックを拾い上げ、ブンブン勢いよく回しながらマリちゃんを追いかけ始めました。
「ギャアアア!ヒエエエエッ」
マリちゃんは教室中を走り回り、逃げ回ります。二人が駆け回るので、机に足がぶつかり、椅子に腕がぶつかりして、あっちでもこっちでも椅子が倒れます。机の方はさすがに倒れませんでしたけど、押しやられたり滑ったりで、キチンと並んでいた机の列は、見る影もなくグッチャグチャ。教室中が、大きな笑いに包みこまれます。
その時、ガラリとドアが開いて、タカノブゥ先生が顔を覗かせました。
「何やってんだあ!あと五分でプールの時間だぞっ。まだ一人も着替えていないじゃないかあ」
と叫びます。クラスの女の子達は、
「キャア!先生のエッチ!」
ワザとらしく悲鳴を上げます。男の子達も黄色い裏声で、
「先生、エッチィィッ。嫌だわあ!」
とふざけます。タカノブゥ先生は真っ赤になって、
「着替えてもいないのに、まだ服のままのクセに、何がエッチだあ。そういう事は、水着になってから言いなさい!」
喚いて行ってしまいました。みんな、手を叩きながら笑い転げます。タカノブゥ先生って、なんか面白いんです。
マキちゃんが、先生の声マネで号令を掛けます。
「一人も着替えておらんぞーう。さっさとしろーい!」
みんな、一斉に服を脱ぎ始めました。
マミちゃんの学校では、男の子も女の子も、同じ教室で着替えをします。
「男の子と一緒なんて。女の子が可哀想だわ」
マミちゃんのお母さんは、よくそう言いますけど、なんで可哀想なのか、マミちゃんはさっぱりわかりません。うちのクラスじゃ、男子も女子も仲がとってもいいし、第一、女の子はみんな専用のタオルを持っているから大丈夫。首元にホックで止めるデザインで、これをかぶるとテルテル坊主の様になりますけど、着替えるにはとっても便利なんです。男の子の方が可哀想なんじゃないの?今だってホラ、女の子は、教室のアチコチ好きな場所に陣取って、平然と着替えをしてるけど、男子は教室の隅に固まって、
「女子!こっち見るなよう」
なんて騒ぎながら、ビクビクしているじゃありませんか。
お母さんの言う事って、時々よくわかんない。
さあ、みんなの着替えが終了しました。
タカノブゥ先生は、心配のし過ぎです。一旦始めれば、水着になるのは早いんですもの。三分と掛からず準備完了。残りは二分。それも大丈夫。みんな、プールまで猛ダッシュしますから。
マミちゃん、マキちゃん、サトミちゃん。いっちゃんも、マリちゃんも、マサくんも。クラス全員が、水着と帽子をしっかりつけて、ヨーイでかまえて、そしてドン!一斉に掛け出します。
教室のドアが、バーンッとすさまじい音を立てて開きます。弾丸の様に廊下に飛び出し、下駄箱を駆け抜け校庭へ。ザラザラした熱い砂の上を、裸足で走ります。眩しいギラギラの太陽。まるで海にいるみたい。
みんな、子供の形をしたボールの様に、走りながら跳ね回ります。プールだ、プールだ、ワーイワイ。両手を振り上げ、熱い空気を吸い込んでジャンプ、ジャンプ!
マミちゃんは、声を立てて笑います。すぐとなりを走るマキちゃんの、スラリと伸びた長い脚。勢いよく地面を蹴るそのリズムに合わせて、走れ走れ!マキちゃんがマミちゃんを見て、くすぐったい時の様な笑い声を響かせます。プール大好き、学校も大好き!
7・
大騒ぎのプールの時間が終わったら、その後は国語の授業。それから、大好きな給食の時間がやってきます。
マミちゃんには不思議でたまらないんですけど、学校の給食って(シイタケを除けば)、どうしてあんなにおいしいんでしょう。レストランよりホテルより、正直、お母さんのお料理より、ずっとおいしいんです。世界中で、こんなにもおいしい食べ物を出せるのは、学校だけじゃないでしょうか。マミちゃんは、毎日、給食を待ち望んでいるんです。一日三食、給食だったらいいのになあ。
そう話すと、お母さんは、
「失礼ねえ。学校のお鍋や包丁には、魔法でもかかってるのかしら」
と笑います。お父さんは、
「大きな釜でドサッと作るから、おいしいのさ」
と言います。
しかも、今日の給食ときたら最高中の最高、ものすごいご馳走が出るんです。
なんと、ヤキソバにフルーツポンチ、牛乳にキナコ揚げパンときたっ。もう、この世に未練なし。死んでもいいっ。
給食当番の子達が、給食を取りに行きました。
マミちゃんとマキちゃん、サトミちゃん、いっちゃん、マリちゃんは、自分の机をガガガガーッと動かしてくっつけ、一つの大きなテーブルに変えます。給食は、好きな子と好きな場所で、食べてもいい事になってるんです。この前の学級会で、そう決まったんです。タカノブゥ先生は、賛成ではなかったみたいですけど、みんながあんまり頼むので、少しの間やってみようかと言ってくれました。これがまたステキ!クラスの子達はみんな、いそいそとテーブルを作っています。
リカちゃん以外は。リカちゃんは、いつも一人で食べるんです。時々、タカノブゥ先生が、一緒に食べようって誘うんですけれど、リカちゃんは黙って首を振ります。
リカちゃんは、赤っぽい茶色の、ものすごく多い髪を、二つに分けて結んでいます。目も口も鼻も小さくて、背は高めだけれど、やせっぽちです。
給食の時間に一人ぼっちだからといって、リカちゃんがみんなに嫌われてる、という訳じゃありません。悪い子だとか、イジワルだとか、そんな風に思われている訳でもないんです。
ただ、リカちゃんと話をしていても、なんとなく食い違ってしまって落ち着かないし、あんまり気が合わないかも・・・って、そう感じるんです。
他の子達も、そうなんでしょうか。クラスのみんなが給食のグループを作った時、リカちゃんはフッと、取り残されるみたいに、グループに入り損ねてしまったんです。
マミちゃんは、時々、リカちゃんを給食グループに入れてあげたいって思います。一人ぼっちで食べるなんてかわいそう。そう思うとお腹の中がグルグルして、給食のおいしさまで減ってしまうんです。
だから、この日のマミちゃんは、リカちゃんを給食仲間に入れようって決心したんです。シイタケがいっぱい入っている豚汁の日だったら、そうは思わなかったでしょう。でも、今日はヤキソバの日です。キナコ揚げパンの日です。一人っきりで食べる子がいちゃいけない、そんな日なんです。
「ねえ、リカちゃんも入れてあげようよ。一人ぼっちはマズイよ」
机をズルズル引きずりながら、マミちゃんは思い切って言ってみました。
イスを運んでいたマキちゃんは、マミちゃんを見て顔をしかめると、
「リカちゃん、別に平気そうじゃない。マミちゃんてば、勝手に同情してんの?それって失礼じゃないの?」
厳しい口調でそう言いました。うーん、そうかもしれない。マミちゃんは、急に恥ずかしくなりました。
自分の机を、マミちゃんの机にピッタリくっつけて置きながら、いっちゃんも言います。
「給食は、本当に仲のいい子とだけで食べたいよう。それだけの事だって。別にリカちゃんが嫌いなわけじゃない。今のままがいいだけなんだよ。うまく言えないけど・・・」
マミちゃんは黙るしかありません。いっちゃんの気持ちもわかりますから。
イスにドシンッと座りながら、マリちゃんが口をとがらせました。
「私さ、リカちゃんのこと無視したり、悪口を言ったりとか、いじめた事なんか無いよ。リカちゃんが話しかけてきたら、ちゃんと答えるよ。でも、私に話しかけてこないもん。リカちゃんの方が、私を嫌ってるのかもしれないじゃん」
そうなのかな。だとしたら、リカちゃんに迷惑だよね。マミちゃんが頷きかけた時、今まで黙っていたサトミちゃんが口を開きました。机に頬杖をつき、校庭の朝顔をじっと見つめています。
「みんな、仲間外れにされる気持ちが、わかってないんだよ」
マキちゃんが、カッとした口調ですぐさま言いかえしました。
「はあ?サトミちゃんだってわかんないくせに」
サトミちゃんは、パッと顔を上げてマキちゃんを見ました。ちょっと怒った表情です。サトミちゃんがこんな顔する事、滅多にないのに。
「私にはわかるよ。仲間外れにされる気持ち。マミちゃんやマキちゃんには、わかんないよ。でも私にはわかる」
マミちゃんはびっくりして聞きました。
「サトミちゃん、みんなに好かれてるじゃない。仲間外れにされた事なんか、ないでしょ?」
サトミちゃんは静かに首を振りました。
「私もうまく言えないよ。ただ、みんなに好かれていても、仲間外れだって感じる事はあるんだよ。私だけ入っていけない。そんな気持ち、わかるんだよ」
マキちゃんは、まるでサトミちゃんにひっぱたかれでもした様に、ビクッとしました。
「自分だけ入っていけない気持ち?自分だけ取り残されるみたいな?そんな気持ち?」
突然、マキちゃんらしくもなくオドオドした様子になって、自信なさげに聞き返します。
サトミちゃんは、ジロリとマキちゃんを見返しました。
「そう、そういう気持ち。マキちゃんなんか、味わったこと無いでしょ」
マキちゃんは口をキュッとへの字に結んで、悲しげな目でサトミちゃんを見詰めていました。しばらく凍りついた様に、じっとそのままでいましたけれど、いきなりブルブルッと頭を振って手をパンパン叩くと、
「わかったよ、わかったよ、もういいよっ。マミちゃん、リカちゃんを呼んできてよ。仲間に入れてあげようよ」
そう叫ぶなり、イスにドシンと腰かけて、そっぽを向きました。サトミちゃんの方は、自分が言い過ぎたと思ったんでしょう。真っ赤になって下を向いています。いっちゃんとマリちゃんは、まだ何か言いたそうでしたけれど、マキちゃんが急に怒り出した理由がわからないので、とまどいながら口をつぐみました。
でも、マミちゃんには、マキちゃんが悲しんでいる様に見えました。辛い思いを隠しているみたいに感じます。でも、一体、何を悲しんでいるのかはわかりません。今は。
マミちゃんは、リカちゃんを呼びに走りました。
さて、色々と揉めた事は確かですけれど、給食当番の子達が教室に入って来た時には、みんなにウキウキする気持ちが戻っていました。
当番の子は十人。白衣に白い帽子、マスクを着けて、二人一組で、アルミ製のケースを運んできます。長方形のケース、これにはヤキソバとキナコ揚げパンが入っているんです。銀色のバケツみたいなものを運んでいる子は、特に慎重に歩いてきます。中味はフルーツポンチですから。他の物は、例え落っことしたとしても、埃を払えば食べられそうですけど、フルーツポンチはそうはいきません。ひっくり返しでもしたら、クラス中の子から飛び蹴りを食らうのは、ほぼ確実です。牛乳を運ぶ係がその後に続き、最後の二人は食器や箸なんかを、大汗かきながら持ってきます。重くてご苦労様ですけど、これはどうでもよろしい。正直、今日のメニューなら、手づかみだって食べちゃいます。
みんな、姿勢を正して席に着きました。大好物を前にすると、自然にお行儀も良くなるものです。
マミちゃんのグループでは、マミちゃんの隣がマキちゃん。マミちゃんの前はいっちゃん。マキちゃんの前がマリちゃんで、サトミちゃんの前がリカちゃんです。でも、リカちゃんを誘って、本当に良かったのかな。リカちゃんはお尻をモゾモゾさせて、不安そうな顔をしています。何を離せばいいのかわからないし、だからといって、今みたいに、みんなでニコニコ笑いかけてばかりじゃ何か変です。まあ、いいや。いずれ慣れるでしょう。マミちゃんは、あんまり気にしないことにしました。
だって、ホラホラ。ヤキソバのいい匂いが漂ってくるんですもの。たまらない。
給食のヤキソバは、給食でしか食べられない特別な味。麵の太さも、ソースの濃さも、野菜の歯触りも肉のバランスも、香りや温かさも、マミちゃんの好みにピッタリ。クラスのみんなの好みにもピッタリ合っているとみえます。だって、麵の一本だって残ったことがありませんものね。
給食当番の子達が、長い配膳用テーブルにケースを並べていくのを見ていると、ますますお腹が空いてきました。
毎日、キナコ揚げパンの日だったらいいのになあ。給食のキナコ揚げパンは、細長い楕円形をしています。外側はカリッとしていて、中はフンワリとなめらかです。温かくはないけれど冷たくもなくて、口にするとほっこりした気分になれます。甘味と塩味がちょうどよく混ざったキナコがたっぷりとかかっていて、サラサラとべたついてないのに、パンからこぼれ落ちたりもしないんです。
給食以外では、絶対に手に入らない夢のパン。一度、お母さんに「作って」って頼んだことがあるんですけど、
「無理。料理ヘタだから」
あっさり断られました。まあ、マミちゃんも本気で頼んだ訳じゃなかったので、諦めも早かったんです。
学校で毎日、このパンを出してくれるなら、欠席する子なんて一人もいなくなるでしょう。以前、マサくんが、高熱があってフラフラしてるのに、それを隠して登校してきた事がありました。キナコ揚げパンを食べ終わるなりぶっ倒れて、早退しましたっけ。
タカノブゥ先生は、
「そうまでして食べたいかなあ」
と不思議がってましたけど、マミちゃんは、どうして先生が不思議がっているのかが、不思議でした。マミちゃんだって、マサくんと同じようにしますもの。キナコ揚げパンさえ食べてしまえば、後は野となれ山となれ。そうでしょう?
マキちゃんが、マミちゃんに肩をぶつけてきました。横目でチラッと見ると、マキちゃんはもうニコニコしています。これぞ、給食の魔法です。
マキちゃんは、マミちゃんの耳に口を寄せてささやきました。
「きっといつか、あのヤキソバをケースごと食べてやる。丸ごと全部、食べてみせるよ」
マミちゃんは、マキちゃんをグッと睨みつけました。頬を膨らませて、わざとらしく口をとがらせて、
「じゃあ、私はキナコ揚げパンを独り占めだよ。泣いて頼んでもあげないからね」
マミちゃんとマキちゃんは、同時に吹き出しました。あんまり勢いよく笑ったので、二人の唾が、思いっきり飛び散りました。
「きったないわね!唾を飛ばしたいなら、二人だけでかけあってなさいよっ」
マリちゃんが叫びます。
「変な雨が降ってきたあ!」
いっちゃんも喚きます。
みんな、ドッと笑いだしました。しかも、なかなか止まらないんです、これが。お腹がよじれて、喉がヒイヒイ言います。マミちゃんは笑い過ぎて、体が二つ折りになってしまいました。心臓が、口から飛び出しそうです。
「ウゲエエエッ」
マキちゃんが舌を突き出しました。
「笑い過ぎて吐くう。ウッゲエエエエッ」
大げさに呻きながら、マミちゃんの膝に吐くフリをします。
「イヤアアッ」
マミちゃんが手足をバタつかせると、また笑いが爆発しました。
マリちゃんといっちゃんは、お互いにもたれ合って、涙を流しながら大声で笑っています。サトミちゃんも、口に手を当ててクスクス。リカちゃんだけは、笑えないようでした。
オズオズとした微笑みを浮かべてはいますけど、目がキョロキョロと落ち着かなくて、本気で面白がってはいないみたい。まあ確かに、あんまり面白くなかったかも。グループ以外の子には・・・ね。
でも、それを気にしている暇はありませんでした。給食当番の子が、
「準備完了!みんな、並んでえっ」
と叫んだからです。やったあ!もちろん、並びますとも。みんな、弾かれた様に立ち上がりました。
「列の真ん中へんに並ぶよ、わかってる?」
マキちゃんが号令をかけます。
列の前の方に並ぶと、当然、ケースの上の方に並べてあるキナコ揚げパンがまわってきます。それは良くないんです。真ん中へんにあるパンが、一番おおくキナコが付いているから。まあ・・・そんな気がするってだけですけれど。並び方にも注意しないとね。さあ、行こう!
8・
「ああ、おいしかったあ」
マミちゃん、給食を食べ終わって大満足です。今日は最高の日だ。ただ一つ、文句があるとしたら、このメニューの日は二倍の量で作って欲しい、という事です。ヤキソバも、キナコ揚げパンも、フルーツポンチも、食べ終わった後ですぐ、もう一度食べ直したい気になっちゃうんですもの。ああ、タイムマシーンで、給食を食べ始める前まで戻りたい。
いっちゃんが、お腹を撫でながら言いました。
「今日、みんなでウチに遊びにおいでよ」
「やったね、行く行くっ」
マリちゃんが、ガッツポーズで歓声を上げました。
「マミちゃんも行く?」
サトミちゃんに聞かれて、マミちゃんも勢いよく頷きます。もちろん行きたい。
いっちゃんのお家は、中華料理屋さんなんですもの。一階がお店で、二階が家族の住む家になっています。遊びに行くと、いっちゃんのお母さんは、店の余り物をオヤツに出してくれるんです。これは絶対に逃せません。オヤツに、エビチリだの肉団子だの、春巻きや麻婆豆腐、そんな物を出してくれる家、他に無いでしょう?いっちゃんの家にはゲームがないし、マンガもないけど、そんな事はどうでもいいんです。あのオヤツさえあれば、みんな満足、幸せです。今日は杏仁豆腐がついてるといいな。 マミちゃんは、
「お母さんがいいって言ったら行くね。電話するよ」
そう答えました。ところが、
「マキちゃんは来る?」
いっちゃんが尋ねると、マキちゃんはいっちゃんの顔を見ずに、
「今日はダメ」
そっけなく、冷たく断ったんです。そして、みんなが何か言う前に、素早くイスを押して立ち上がり、マミちゃんの腕を引っ張って、無理矢理に立ち上がらせると、ドアに向かってズンズン歩いていきます。
「どこ行くの?」
マミちゃんが尋ねても、マキちゃんはキッと前を見つめたまま答えません。タカノブゥ先生の、
「おい、まだ給食の片づけ、済んでないぞ」
という声にも知らん顔で、ガラリとドアを開け、廊下にマミちゃんを引きずり出しました。ドアがピシャリと閉められ、なんだか周りが急にシーンとしました。他のクラスの子達も、まだ片づけ中なんでしょう。誰もいません。
マキちゃんは、注意深くあたりを見回すと、やっとマミちゃんの手を離し、ボンヤリと壁に寄り掛かりました。自分の上ぐつを見おろしたまま、フウッと深いため息をつきます。
マミちゃんは、そっとマキちゃんの隣に立ち、同じポーズで壁に寄り掛かりました。
二人とも、しばらくジッと黙っていました。教室のみんなの声が、なぜかとても遠くに聞こえました。
やがて、マキちゃんは、足で廊下のリノリウムをダンダン蹴りつけ始め、いきなり口を開きました。
「マミちゃん、いっちゃんの家には行かないで。私と一緒にいてよ。今日は、ママがルリと出かけるから、私は留守番なんだ。一人でいるのが嫌なの」
「いいよ」
マミちゃんは答えましたけど、内心では不思議でした。一人ぼっちでいるのが嫌なら、どうして、みんなと一緒にいっちゃんの家に行って、いつもみたいに楽しくワイワイガヤガヤ、賑やかに過ごさないんでしょう。
すると、まるでその言葉が聞こえた様に、マキちゃんは、つっかえつっかえの妙な口調で話し始めました。
「みんなと一緒にはいたくない。今日だけは、マミちゃんといたいの。淋しいんだ、とても。ママがルリだけ連れて出かけるなんて。ひどいよ、ひどいんだよ」
「わかるけど・・・」
いやいや、わかりません。ちっとも。そんなにひどい事だと思えないし、ここまでマキちゃんが淋しがるのも、なんか変です。
マキちゃんの目がジワリッとうるみました。ポトリと落ちた一粒の涙に、マキちゃん自身がびっくりしたみたい。慌てて、ブルブルッと頭を振りました。手の甲で、乱暴に目をこすり続けます。
マミちゃんは、変に落ち着かない気分でした。どうにも納得できません。一人で留守番させられるってこと以外にも、何か事情がありそうです。
マミちゃんがマキちゃんを見つめると、マキちゃんもマミちゃんを見つめました。ジッと強い眼差しで。それが、マキちゃんの精一杯の様でした。
だから、マミちゃんは何も聞きませんでした。かわりに、心の中で一生懸命、マキちゃんに語りかけました。
「大丈夫だよ、マキちゃん。私がいつだって傍にいる。どんな時も、私はマキちゃんの味方だよ」
声にはならない言葉です。でも、マキちゃんには聞こえたのかも。マキちゃんはかすかに頷いて、口を引き締めると、そのままスタスタと教室に入ってしまいました。
マミちゃんは廊下に残って、首を傾げました。朝から、マキちゃんは何か変です。どうしたんだろう。
教室のドアがガラリと開いて、マミちゃんは飛び上がりました。いっちゃんが、慌てた様子で、コソコソと出てきました。
「ねえねえ、マキちゃん、どうしたの?何を話してたの?私の事、何か言ってた?怒ってるの?嫌いになったのかなあ」
マミちゃんは、ブンブン首を振ってみせました。
「違う違う、怒ってる訳じゃない。いっちゃんの話じゃないよ。全然、別の事」
「ふん。なら、いいけど」
いっちゃんは、明らかにホッとした顔で呟きました。
マミちゃんは、いっちゃんに笑いかけて、元気に言いました。
「私、もう戻るね。給食の片づけしないと、タカノブゥ先生に怒られちゃう」
「もう怒ってるよ。早く片づけないと日が暮れる、学校に泊りたいのかあ、だって」
マミちゃんはクスクス笑いました。それから、教室に入っていきました。
9・
てんやわんやの学校の一日が終わりました。ゲタ箱で靴をはきながら、今日も色々な事があったなあって、マミちゃんは思います。必ず何か新しい事が起こる。だから、学校は面白いんです。
「じゃあね、いっちゃん、マリちゃん」
「バイバイ、タカノブゥ先生」
「さようなら、だろ。気を付けて帰れよ」
いつもの挨拶。これは毎日毎日、同じ事の繰り返し。昨日もそうだったし、明日もきっとそう。それがまたいいんです。なんか、安心できますもん。
帰り道もまた、マミちゃんとマキちゃん、サトミちゃんが一緒に帰ります。今日は四時間授業だったので、校門の所で、タカシとルリちゃんが待っていました。
タカシは、マミちゃんの顔を見るなり、プンプンに頬を膨らませて、文句を言い始めます。疲れて、かなり眠そうに見えました。
「遅いよ、お姉ちゃん。待ちくたびれたよ。ほら、また靴ひもっ、ほどけてる。宿題は、ちゃんと持ち帰ったの?帰ったら、すぐにやるんだよ。水着!忘れてないだろうね。お母さんに言われただろ。使ったら、必ず洗いなさいって。それに・・・」
あー、ウルサイ。一度くらい、タカシも忘れ物をしてみりゃいいんです。そうしたら、きっとわかるはず。何を忘れようが、世界の終りにはならないって事が。でも、タカシは忘れ物をした事がないから、わからないんです。何しろ、学校に行く時も帰る時も、ランドセルの中身を五回も確認するんですから。どっかオカシイんじゃないでしょうか。そんな子が、私の弟だなんて。
「タカシには、本当に頭が痛いよ。本気だよ。嫌になっちゃう」
マミちゃんが、タカシを無視して歩き出すと、隣を歩くマキちゃんが、言い返してきました。
「ルリよりマシだよ。あんな陰気な子が、私の妹だとはね。あー、嫌だ嫌だ」
マミちゃんは、後ろからついてくるルリちゃんをチラリと見ました。相変わらずシーンと、物音ひとつ立てずに歩いています。顔も、嬉しいんだか悲しいんだか、何を考えているのか、さっぱりわからない表情です。夏の暑い午後だっていうのに、汗もかいていないみたい。確かに変な子です。
グイッ。マミちゃんは、いきなりマキちゃんに引っ張られて、よろけました。
「どうしたの?」
「マミちゃん!お化け屋敷に明りが。ねえ、ねえ、ホラ。お化け屋敷を見てよ!」
校門の真ん前、あの急な坂道を上がりきった横手の方に、雑木林があります。どのくらいの広さかわからないくらい、深い林です。背の高い木々がうっそうと葉を茂らせ、晴れた夏の日でも薄暗くて、落ち葉が厚く積もった地面は、ジメジとした感じがします。
その林のずっと奥の方に、三階建ての家が、ポツンと一軒だけ、高くそびえています。校門の所でつま先立ちして見ても、木々に遮られて、二階から上の部分しか見えません。この家の事を、マミちゃん達は「お化け屋敷」と呼んでいるんです。
その名から連想する通り、不気味な家でした。細くてカッチリした長方形の、ビルみたいな造り。濃い灰色のコンクリートで出来ていて、所々に墨汁を流した様な、真っ黒の染みが浮きだしています。壁には、遠目にもはっきりわかるひび割れが何本も走っていました。屋上部分は、ぐるりと鉄柵で囲んでありましたけど、これが真っ赤に錆びていて、一、二か所、壊れて抜け落ちているのが目につきます。
何より気味が悪いのが、窓でした。大きな家ですのに、窓は六つくらいしかありません。どれもこれも、小さな四角形で、カーテンなどはかかっていません。内部は真っ暗。一年中、晴れた日も雨の日も、雪の日も、どんな日でも、窓はただ真っ暗で、灰色の壁にポッカリあいた穴の様に見えました。
人の姿は、一度も見た事がありません。いつも静まり返っていて、林ごど、周りの音ぜんぶを吸い込んでいるみたいでした。
それが今日、マミちゃんは、学校に通いだしてからの四年間で初めて、窓に明かりを目にしました。
マキちゃんの指差す先を見ると、三階部分の一番小さな窓に、オレンジ色の光りが確かに灯っています。
マミちゃんとマキちゃんは、その場に立ち止まったまま、じっとその明りを観察しました。何か変です。
明かりがついているのに、家の中のものが全く見えません。マミちゃんの視力はとてもいいのに、痛くなるほど目を凝らしても、何も見えない。曇りガラスなんでしょうか。オレンジ色と白色が混じり合った様な、妙な色の明りが、窓の形そのままにぼんやり光っているだけ。他の窓は、いつもと変わらず真っ暗です。
「あの光、揺れてる」
マミちゃんは、マキちゃんに囁きました。マキちゃんもそっとうなづきます。
動かずによく見ていると、明りが安定していないのがよくわかります。突然、明りが増したり、薄暗くなったり、はっきりしないけれど影の様なものが、右から左、左から右へとフワフワ移動しては、サッと通り過ぎて消えたり、ユラユラと揺らめいたりするのです。
「人の動きとは思えない。あの中にいるのは人じゃない」
マキちゃんが、落ち着かない声で言いました。思わずゾゾーッとした二人が身を寄せ合ったその時、マミちゃんの服の袖を、誰かがグイッと引っ張りました。チェッ、いいところだったのに。またタカシです。
「お姉ちゃん、何をボケーッとしてるのさ。いつもそうだから、勉強だってダメなんだよ。お母さんがそう言ってたもん。さっさと帰って宿題させてよ」
喚き立てるタカシの後ろで、ルリちゃんとサトミちゃんは静かに待っています。二人とも疲れて、参ったような顔つきでした。
マミちゃんは、タカシの文句なんて聞いていませんでした。今はそれどころじゃありません。
ずっと前から、お化け屋敷を見に行きたくてたまりませんでした。先生やお母さんが、林に入っちゃいけないってウルサク言うから、踏ん切りがつかなかったけど・・・。今日こそ、絶対に見に行かなくちゃ。もう、我慢できません。何が何でも行くんだ。
タカシの手を振りほどくと、マミちゃんは、まっすぐ前を向いてキッパリと言いました。
「私、お化け屋敷のそばまで行ってくる。でないと、後悔する」
マキちゃんも、深く頷きました。
「うん。迷わず行こう。あの屋敷の事が、何かわかるかもしれない」
マミちゃんとマキちゃんは、ゴクリと唾を飲み込んで、ゆっくりと林に向かって歩き始めました。
「お姉ちゃん!」
二人の背後から、鋭く尖った声が響きました。
ルリちゃんの声でした。
マミちゃんとマキちゃんが振り返ると、二人の真後ろに、ルリちゃんが立っていました。いつもの通り、お行儀の良い立ち姿です。でも、その顔は、マミちゃんが今まで見たこともないほど、激しい怒りにゆがんでいました。
風がスウッと吹いて、ルリちゃんのツヤツヤ輝く細い髪を、サラサラと揺らしました。なんてキレイな髪なんだろう。マミちゃんは、ぼんやりと思いました。
ルリちゃんは、ジッと動かない目でマキちゃんを睨みながら、冷ややかに言いました。
「ダメよ、お姉ちゃん。今日はすぐ帰るの。私、ママとお出かけするんだから。とっても大事な用なの。知ってるでしょ。遅れる事は出来ないの」
マキちゃんが、ルリちゃんにグイッと詰め寄ったので、二人の体は触れ合うほどに近くなりました。
マキちゃんは、強くこぶしを握り締めてフンッと鼻を鳴らし、
「それが何よ、何だって言うのよっ」
噛みつくように言いました。口がへの字に曲がり、フルフルと震えています。
ルリちゃんは黙りこくったまま、ジロジロとマキちゃんの顔を見ています。マミちゃんは、ルリちゃんのその表情が、すっごく嫌な感じだと思いました。
ルリちゃんは、しばらくしてからやっと口を開きました。
「そうだよね。お姉ちゃんは行けないもんね。これからだって、ずうっとそうだよ。ママが連れて行くのは、私だけ」
マキちゃんとルリちゃんは、睨み合いました。
静まりかえった時が過ぎました。マミちゃんもサトミちゃんも、タカシでさえ、口が出せませんでした。
やがて、マキちゃんが目を逸らしました。地面をジイッと見つめたまま、つっかえた様なかすれ声で、サトミちゃんに声をかけます。
「ごめんね、サトミちゃん。タカちゃんとルリをお願い。私、一緒には帰れない」
サトミちゃんは、静かな、とても優しい声で答えました。
「いいよ。私に任せて」
「ありがとう」
マキちゃんが、一生懸命に作った微笑みを、サトミちゃんに向けました。その目が滲じんだ涙でキラリと光ります。
驚いた事に、それを聞くなりルリちゃんは、クルリと背を向けて、さっさと坂道を下って行きました。サトミちゃんが、慌てて後を追います。
タカシは、オロオロとした顔で、マミちゃんを見上げました。マミちゃんは、タカシの小さな肩に、そっと手を置いて言いました。自分でも驚くほど、優しい声が出ました。
「サトミちゃんと一緒に行きな。ね、お願い。お願いだから」
タカシは、泣き出しそうな目で頷くと、トボトボと坂道を下って行きました。
マキちゃんは、ジッと三人の後ろ姿を見送っていました。肩や背中が張りつめ、震えています。マミちゃんにも、そのまま伝わってきました。
マミちゃんは、マキちゃんに背を向けると、二歩三歩と林の中に入って行きました。葉を広げた木々のせいで、いきなり辺りが暗くなります。足で地面を蹴り飛ばすと、湿った重い落ち葉がパッと散りました。
マキちゃんとルリちゃんは、どうしてケンカしたの?ルリちゃんは、なぜ、あんな事を言ったの?マキちゃんは言い返せないでいた。何をそんなに怖がってるの?何をそんなに悲しんでるの?
マミちゃんにはわかりません。でも、聞き出したいとは思わなかったし、慰めたいとも、力づけたいとも思いませんでした。
だって、マキちゃんは強い子なんです。マミちゃんには、それがわかっています。だから、きっと大丈夫。マキちゃんは大丈夫。
マミちゃんは足を止めました。マキちゃんの方に向き直り、その背中に、思いっきり呼びかけます。
「マキちゃん!ボケーッといつまでそこに立ってんの?頑張れないなら、置いて行くよ!」
マキちゃんが、パッとこちらを見ました。二人の目がカチリと合います。じいっと見つめ合う内に、マミちゃんの好きなマキちゃんの、強気なあの表情が浮かび上がります。
マキちゃんは、力強く頷きました。フウッと息を吐くと、しっかりした足取りで、こちらに歩いてきます。
二人の間の距離が縮まるにつれ、マキちゃんの顔に笑顔が戻ってきました。負けず嫌いな、いたずらっぽい顔。マミちゃんの大好きな顔。
マキちゃんが林の中に入って来ると、マミちゃんは、手を差し伸べて言いました。
「思い切って冒険しよう。私達は弱虫じゃない」
マキちゃんは、マミちゃんの手をギュウッと握って言いました。
「うん、弱虫じゃない。私達は強い。だから、私はもう大丈夫」
二人はしっかりと手をつなぎ、暗い林の奥へと入って行きました。
10・
そこは広い林でした。二人が思っていたよりずっと大きくて深く、木や茂みも多いのです。
ここ二、三日は、雨なんか降っていなかったのに、じっとりと湿った汚い落ち葉のせいで、足元がフワフワして落ち着きません。
奥に進んでいくほどに暗さは増し、何もかもが灰色に見えました。
むっとする暑さがすっぽりと体を包み込み、シャツがベタベタと体に張り付きます。髪の毛も汗に濡れて、頬や首筋にへばりつき、それがとても気持ち悪いのです。
それに、信じられないくらい静かでした。聞こえるのは、クシャクシャと落ち葉を踏む自分の足音だけ。妙な気分です。
加えて、お化け屋敷そのものも、二人が思っていたよりずっと遠くにあることがわかりました。
マキちゃんが前、マミちゃんが後ろ、二人並んでせっせと歩いているのに、どういう訳かいつまでもお化け屋敷に着きません。緊張を抑えギクシャクギクシャク、一生懸命に歩いているのに。マミちゃん、ちょっと怖くなってきました。
ひときわ、ジメジメした落ち葉の山を踏みつけた時、マミちゃんの足元で小さな物がカサッと音を立て、ヒュッと素早く宙を飛びました。同時に、マミちゃんのスニーカーに、パンッと何かが当たる嫌な音が走ったんです。
ビクッとしたマミちゃんが足を止めると、片方のスニーカーのつま先部分に短いヒモみたいな物がくっついているのが目に入りました。小さくて黒っぽい、それは生き物で、なんと足に飛び付いてきたんです。
マミちゃんは、足をそっと持ち上げて、よくよく見てみました。マキちゃんも、マミちゃんの様子に気づいて立ち止まり、一緒に覗き込みます。
ヌメヌメした、ナメクジみたいな生き物でした。でも、ナメクジよりも長くて黒く、薄べったいんです。じっと動かず、ベッタリとスニーカーに張り付いています。
マミちゃんとマキちゃんは、同時に悲鳴を上げて、飛び上りました。
「ヒイイイイイィッ。ヒ、ヒ、ヒルう!」
そう、これはヒルです。絶対に間違いありません。人の体から血を吸うヒルです。
でも、ヒルがジャンプするなんて、信じられません。飛びついて、喰らいつくなんて。
「ギエエエエエッ」
マミちゃんは、足を必死に振り回しましたけれど、ヒルはペッタリ離れません。ゴツゴツした木の幹にスニーカーを擦りつけてみました。ヒルはペッタリ離れません。地面をドンドン踏み鳴らしても、バタバタ足踏みしてみても、ヒルはペッタリ離れないんです。マミちゃん、泣きそうです。
「やだあ、やだあ、どうしよう。取れないよう!」
マキちゃんが、素早く手を伸ばして、暴れるマミちゃんの足を、両手でぐっと抑え込みました。
「じっとしてて。任せて」
マミちゃんは、じっとしていたくなんかありませんでした。ヒルがくっついてるなんて嫌。いますぐ、振り離したい。
でも、マキちゃんを信じて、暴れるのは止めました。静かに立っている事、そう自分に言い聞かせても、この場からただもう逃げ出したくて、足が勝手に走り出しそう。
マキちゃんは、落ち着き払っていました。地面に平気で手を伸ばし、平べったくて角の尖った石を拾い上げます。
それから、マミちゃんの前にしゃがみこみ、石の角を、スニーカーとヒルの間に、無理矢理、差し込もうとします。ヒルは、頑固に離れてくれません。
「もう、しつこいなあ」
ブツブツ文句を言いながらも、マキちゃんは、まるで手術中の外科医みたいな、真剣そのものの表情で、慎重に石を押し込みます。
もっとも、お医者さんは、
「グエッ、気持ち悪いなあ、ゲロゲローッ」
なんて文句は言わないでしょうけど。
マキちゃんは、両手の指先で石の両端をつまむと、ヒルを持ち上げにかかります。
ウニョーン。ヒルの体は、どんどん伸びていくばかり。引っ張っても引っ張っても、全然、取れません。
マミちゃんは、カッチンコッチンに固まったまま、動けません。これ以上は見ていられないし、見ていたくもないけれど、目を離すこともできないんです。
「ゲエエッ。ちぎれたらどうしよう。離れろっ、取れろよ、このお・・・」
マキちゃんは、ヒルを罵りながら、手を離さずに、引っ張り続けます。
「いい加減にしてよっ」
遂にマキちゃんが怒鳴り、やけっぱちの勢いで思いきり力を込めた瞬間、やっとヒルが取れました。脱力したかのようにポタリと落ち葉の上に着地して、モゾッと動いたかとおもうと、シュッと跳ねて目の前から消えました。
マミちゃんとマキちゃんは、少しの間ボケーッとしていました。汗びっしょりで真っ赤になった顔を見あわせ、力なく笑います。
「こんな事って、信じられないよ」
マキちゃんが手で顔を扇ぎながら言いました。
「私だってそうだよ。ヒルなんて、本物を見たのは、これが初めて・・・」
答えながら、まだビクビクと下に目を向けていたマミちゃんは、見たものが信じられませんでした。
マキちゃんのくつ下、白いハイソックスの、足首に近いあたりに、ヒルが一匹、くっついているじゃありませんか。いやっ、一匹じゃありません。よく見ると、その下に更にもう一匹、ずっと小さいヒルがいて、しっかりとくつ下に喰らいついています。ヒルの親子?まさか、そんなバカな。
「マキちゃんッ、それ見て!ああ、そこ、そこだってばあ!そこ見て!」
マミちゃんが必死に指差す先を辿って自分の足に目をやったマキちゃんは、ヒギャアと叫んで飛び上がりました。電光石火の早業で靴下を引きおろし、靴ごと脱いで、靴下だけを遠くへ投げ捨てます。
「マミちゃん、走って逃げるよ。この場所、ヒルだらけだ。ヒルの巣なんだよ、きっと!早く、早く、脱出だよう!」
片方だけ裸足のまま、くつを履いたマキちゃんは、スゴイ勢いで、林の奥に向かって走り出します。マミちゃんも慌てて後を追いましたけど、マキちゃんの早いこと早いこと、あっという間に、だいぶ引き離されてしまいました。
「マキちゃーん、待ってよう!」
待ってくれる訳がありません。マミちゃんは、力いっぱい走りました。足を勢いよく振り上げて、地面を素早く蹴って、なるべく落葉にくつ底がつかない様に。スニーカーが、パンッパンッと音を立てて地面を打つ度に、ジメジメした落ち葉がグシャグシャ鳴って、またヒルが飛びついてこないかと、マミちゃんは気が気じゃありません。
だいぶ走って、さすがに息も切れた頃、こちらに背を向けて佇む、マキちゃんの後ろ姿が見えました。
ハアハアあえぎながら、マミちゃんが横に滑り込んで急停車すると、マキちゃんは、チラリとマミちゃんを見ました。けれど、すぐまた、目を前に戻します。
マミちゃんは、自分のくつ下やくつに、ヒルがくっついていないか、注意深く確かめました。髪の毛も洋服も、首筋も腕も、ちょっと大変だけど、背中やお尻も、全身をくまなく調べました。なんとか大丈夫。ヒルはついていません。
「マミちゃん、もういいから。前を見てよ。着いたんだよ、ついに」
目を上げて見ると、二人が立っているのは、お化け屋敷の真ん前だったんです。
遠くでイメージしていたより、ずっと大きな家でした。屋根もベランダもひさしもない、ビルの様な家が、頭上高く、暗く灰色にそびえています。
お化け屋敷の周りには、門もへいもありません。ヒビ割れた壁ギリギリまで、細くて栄養不良みたいな木々が立ち並んでいて、花だんとか物干し場とか車庫みたいな、普通の家にあるものが、何一つないんです。
設計も、何か変な感じがしました。土台とか床下が見当たらないからでしょう。ジトジトした地面に直接、ピッタリくっつけて建てられています。そのせいで、本物の大工さんが造ったんじゃなく、家の作り方なんてまるで知らない人が、適当にポンッと置いたみたいに見えるんです。
それに、普通の家っていうのは、崖に建っているんでもないかぎり、ドアが下の方にあって、窓は上にあるものでしょう。この家は逆なんです。地面から灰色のコンクリートで作った階段が、二階部分まで伸びていて、そこにドアがある。幅が狭い階段なのに、手すりがついていないのが、なんだか不安定に思えます。ドアは、丸いドアノブがついた、昔風のアルミ製で、上方に明り取りらしい小さな窓が付いていました。その窓の中は真っ暗です。
なにより気味が悪いのは、一階部分にある窓でした。二人が立っている側には、三つの窓がありましたけど。どれも地面スレスレの、おそろしく低い位置についていて、厚く積もった落ち葉に半分埋もれているんです。こんな妙なデザインは、初めて見ました。
三階を見上げると、四角い窓にたった一つの明りが、まだ揺らめいています。近くで見ると、窓の中でうごめく影が、人の形をしているのが、はっきりと見てとれました。行ったり来たり。あの人影、さっきから何をしているんでしょう。
マミちゃんはゾッと身震いしました。この家から冷気が流れ出しているよう。鳥肌が立っています。
マキちゃんが、ソロリソロリと動き始めました。地面にくっついているかの様な窓の一つに、一歩一歩、足を忍ばせて近づいていきます。マミちゃんも、できるだけ静かに寄っていきました。
マキちゃんは、人差し指を、すぼめた口に当てて、シーッと囁きます。マミちゃんは、あまり息をしない様にしました。ハアハアいう音が、やけに大きく聞こえます。
ビクビクしながら、そうっと窓を覗き込みました。何も見えません。妙に厚いガラスは、茶色のベタベタした、得体の知れないものでひどく汚れていて、中は真っ暗。どれだけ顔を近づけても、カビ臭い匂いがするばかりです。
二人は顔を見あわせました。マキちゃんはおおげさなポーズで肩をすくめると、マミちゃんをグイッと押しのけて、まっすぐ階段に向かいました。キッパリと迷いもなく、一段目に足をかけます。
マミちゃんは、慌てて駆け寄り、マキちゃんの手を引っ張りました。声は出せないけれど、言いたい事はわかるでしょう。ドアまで行くのはやりすぎ。止めようよ。それだけです。
マキちゃんは、マミちゃんを静かに見返しただけでした。それだけで、マミちゃんはマキちゃんの気持ちがわかるんです。やめる気はないらしい。
わかった、わかったよ。マミちゃんも、階段の前に立ちました。マキちゃんだけ行かせる訳にもいかないですもの。
二人は肩を寄せ合って、ギクシャクと階段を登り始めました。慎重に。並んで、ようやく歩けるだけのスペースしかありませんし、手すりが無いっていうのが、無性に怖いんです。その上、コンクリートの角があちこち崩れていて、足を踏み外してしまいそう。
マキちゃんの方が、二歩だけ早くてっぺんのドア前に着きました。強気な表情でチラリとマミちゃんの顔を見るなり、止める間もなくドアノブをつかんで、強く何度も引いたんです。
ガタガタガタ。別に意外でもありませんでしたけど、ドアには鍵がかかっていて開かず、代わりに驚くほど大きな音を立てました。
二人がはっと首を縮めたその時、頭上からギッ、ギッ、ギ、ギィイイッと不気味な音が降ってきました。上を見ると、あの窓、明かりの灯っている唯一の窓が、ミシミシいいながら、少しずつ少しずつ開いていきます。
二人が、顔中を目ばかりにして、凍りついた様に立ち尽くしていると、窓の動きは止まりました。半分ほど開いた窓の中は、乳白色とオレンジ色を混ぜたみたいな、変の色の光りが満ちていましたけれど、他には何一つ見えません。揺れていた人影も消えています。
動くことも出来ず、どのくらい立ったのでしょう。カチリという音が、二人の耳を打ちました。薄っぺらのアルミのドアの向こうに誰かがいる。今のは鍵を開ける音です。誰か出てくる。誰が?お化けなんか本当はこの世にいるわけがない。だから人間でしょうけど・・・でも、どんな人間?
ガチャ。ノブが回り始めました。あと数秒でドアが開きます。もう、あとちょっとで。
その後、どうなったのかはわかりません。マミちゃんとマキちゃんは、階段を何段かとばしながら駆け下りて、一目散に逃げ出したんです。
二人とも、今日この時ほど、早く走ったことはありませんでした。腕や顔を枝にひっかかれながら、細い木々の間を駆け抜け、落ち葉をフッ飛ばし、風の様に走って走って走り続けました。ヒルの巣のことなんて、思い出しもしませんでした。いつ通り抜けたのかも、わかりません。
我に返った時、マミちゃんとマキちゃんは、学校の校門まで戻っていました。鉄の柵に、ランドセルを背負った背中をピッタリと押し付けて、ゼイゼイハアハアいっていたんです。
「マ・・・マミちゃん、大丈夫?」
マキちゃんが、ソロソロと手を差し伸べてきたので、マミちゃんは、その手を握り返して、無理に笑ってみせました。
「死ぬかと思ったよ。でも、私達、よくやったよね!次はさ・・・」
「次って何だ?」
背後から突然、低い声が響いて、マミちゃんとマキちゃんは飛び上がりました。首の後ろがビビッとして、背中がゾゾッとします。まったく、心臓に悪いことばかり。
二人が体ごと振り返ると、閉まった門の向こうに、しかめっ面したタカノブゥ先生が、一人で立っていました。
先生は、ポケットに手をつっこんで、ゆっくりと近づいて来ました。マミちゃんとマキちゃんは、門を挟んで先生と向き合う形になりました。
タカノブゥ先生は、猫背を更にかがめて、狭い柵の間から顔を覗かせ、二人をじっと見つめました。
「お前達、林に入ったのか?あの家まで行ったんだな?」
マミちゃんとマキちゃんは、思わず頷いてしまいました。ウソつくつもりだったのに。先生は、静かな目で二人を見つめて、
「あの家を、お化け屋敷って呼んでいるのは知ってるよ。まあ、そう見えなくもないし、好奇心を持つのもわかる。でも、あそこに住んでるのはオバケじゃない。普通の人間だよ。その人に迷惑だろう」
と言いました。マミちゃんとマキちゃんは、上目使いに先生を見て、蚊の鳴くような声で「ハイ・・・」と答えました。先生はフッと優しく微笑んで、マミちゃんの顔をジイッと見つめ、次にマキちゃんの顔をジイッと見てから、
「まあいい。お前達が、二度とやらないのはわかってる。さあ、家に帰るんだ。気をつけてな」
そう言うと、タカノブゥ先生は、校舎の方にゆっくりと戻っていきました。先生が
少しだけ足を引きずって歩く事に、マミちゃんは、いま初めて気がつきました。
マキちゃんは、両手を口に当てると、大声で先生に呼びかけました。
「なんで、そんなことわかるの?」
「先生も、子供の頃、よくやったんだよ」
タカノブゥ先生は振り向かず、ただ大声で叫ぶように言いました。職員室のドアがガタゴト開き、先生は中に消えました。
マミちゃんとマキちゃんは、ペロリと舌を出して、首をすくめました。
「タカノブゥ先生って、なんかカッコイイよね」
「うん。私、好きだな」
「私も」
二人は、何だかすっかり満足していました。お化け屋敷に住んでいる人には迷惑だったかもしれないけれど、やっぱり行ってみてよかったんです。これから先はもう決して、あの家まで行ってみたい、覗いてみたいって、ジリジリすることはないでしょう。
「帰ろう。帰ろう。すっかり遅くなっちゃった」
マキちゃんは、元気よく言いました。マミちゃんもニッコリ笑って、ポンポンとジャンプしていいました。
「思い切って近づいてみるって、いいね。スッキリするよ。何もわからないままでも、それでもサッパリするよ」
マミちゃんとマキちゃんは、更に二、三回ピョンピョン飛んで勢いをつけると、全速力で走り出しました。
「もっと早く!もっと早く!思いっきり走ろうよ!もっともっと、早く早く!」
マミちゃんは叫びます。バンッバンッとランドセルを揺らしながら、二人は坂を駆け下りていきます。スニーカーがドンッと地面を打つ度に、体がフワリッと浮いて風に乗ります。まるで飛んでるみたい。
マミちゃんとマキちゃんは、両手を水平に広げて、ジグザグに走ります。私達、鳥だよ、鳥になったんだ。この町を見下ろしながら大空を飛び、気流に乗ってどこまでも行こう。ヒュウーン。風を切り、雲を飛び越えて、空の高い高い所まで。ヒュウウウゥ、パタパタ、ヒューン!
二人は、二羽の丈夫な鳥になって、顔いっぱいに気持ちの良い風を受けながら、逞しく飛んで行きました。
11・
二人が「心臓破り」の坂についた時、マキちゃんは、沈んだ声で、こう言い出しました。
「今日は、特別な道で帰ろうよ。なんか、そういう気分なんだ」
坂を下らずに家に帰れる道。それが「もやし工場への道」です。通学路じゃないんですけど、二人はそんな規則を気にした事はありませんから、そっちの道も、時々こっそりと使っているんです。
「心臓破りの坂」の横手に、車どころか、人もあまり通らない小道があります。そのどん詰まりに、クリーム色のトタンで作られた、もやし工場があるんです。
こじんまりとした工場で、細いエントツからは、いつもモウモウとした蒸気が噴き出し、周囲は白いもやで霞んで見えました。
そして、ものすごく臭いんです。何百本、何千本ものもやしを、一日中、茹でている。その臭いの、ひどい事ひどい事。
マミちゃんは、別にもやしが嫌いじゃありません。お母さんの作るもやし炒めはおいしいし、もやしとニラのサラダも、ギョーサによく合います。ラーメンに入っている、もやしも大好き。それでも、やっぱりこの工場の臭いには我慢ができません。物事には限度というものがある、と思うんです。
それじゃあ、なんで、そんな道をわざわざ通るのかというと・・・。その道が、マミちゃんとマキちゃんの秘密の場所へと続いているから。タカシもルリちゃんも、サトミちゃんも、誰も知らない二人だけの場所。本当に本当に、必要な時しか行かない場所。
マミちゃんとマキちゃんは、肩を寄せ合って小道を歩き始めました。臭いがだんだんキツクなって、指で鼻をつまみます。そんな事をしたって無駄なんですけどね。ウーッ、くさいくさい。
もやし工場を囲む白い石壁と、クリーム色に塗られた鉄門の前を、できるだけ急いで通過します。そのまま少し歩いていくと、小道は急カーブして左に折れ、もやし工場は視界から消えます。
そして、突然。目の前に巨大な波が現れるのです。
いえいえ、もちろん、本当の海の波じゃありません。でも、そんな風に見えるんです。
頭上高くから、ザッブーンと崩れ落ちてくる緑色の波。
マミちゃんとマキちゃんは、いったん立ち止まり、目を丸くして波を見つめます。いつ見ても、この光景のすごさには、心奪われてしまうのです。
波の正体は「くず」という、つる草。この草のつるは、マミちゃんの中指くらいの太さがあって、触るとちょっとちくちくします。とてつもなく丈夫で、ちょっとやそっとでは切れません。一本のつるの長さときたら十メートルくらいもあるんです。マミちゃん七人分の長さでです。
つるにびっしりと茂っている葉は、丸みのあるスペードの様な形で、ウラが白っぽいのが特徴です。一枚一枚が、お父さんの手の平くらいに、大きいんです。
その葉を、いっぱいにつけたつるが、四十本、五十本、もしかしたら百本くらいもあるでしょうか。からまり、もつれ合い、風に揺れてうねりながら、まるで巨大な波の様に、マミちゃんとマキちゃんの頭上から、ドドッと垂れ下がっているんです。
小道は、くずの波の下に、迷い込んで消えていました。
昔昔、マミちゃんとマキちゃんが、まだうんと小さかった頃、この場所には、ヒョロヒョロした低木が数本、植えられていました。ところが、いつの頃なのか誰も知らない内に、なぜかくずが生え始め、ヘビが絡み付くように木に絡み付き、てっぺんまで這い登っていったんです。そのままどんどん伸びて、どんどん増えて、遂には、元からあった低木をすっかり飲み込み、覆い尽くしてしまったんです。まるで、大きな緑色の毛布で、すっぽりと包みこんでしまった様に。
つる草のくせに地面を這わず、高い所からなだれ落ちているのは、その下に、埋もれたまま枯れかけている木があるからなんです。テントの支柱みたいに、つる草を押し上げ、支えています。
くずの波は、この小道を行く人に、語りかけているように思えます。ここから先は侵入禁止。立ち入るべからず。
そう言われると、なおさら入りたくなるものです。
少なくとも、マミちゃんとマキちゃんはそうなんです。一度、二人で、この波を這い登ろうとしたんですけれど、ダメでした。どっしりした緑のカーテンみたいに見えても、やっぱりつる草の集合。体重を支えることができず、つるの間から下に、足が突き抜けてしまうんです。
そこで、下をくぐる方法に変更しました。今日も、そのやり方で行きます。
先頭はマミちゃん。海に潜る時と同じ様に、大きく息を吸ってグッと止めます。つる草の下は、かび臭い様な変な臭いがするからです。できるだけ端っこの、つるが少ない所から、腹這いになって潜り込みます。
ランドセルが背中から突き出しているし、中もとっても狭いから、ひっかからないように気をつけて、姿勢をうんと低くするのがコツ。
くずの波の中は、薄暗いけれど、真っ暗ではありません。見上げると、絡み合うつるとつるの間から日の光りが差し込んで、細い光の帯がスウッと輝きます。それは、美しい眺めでした。
横に目を移すと、つる草を支えている細い枯れた木が、ゴツゴツした柱の様に見えます。まだ命を保っているのか、しゃんとしっかり立っています。
下は、コンクリートの小道からむきだしの地面に変わり、土についている手の平と膝が、ジメジメと冷たく感じます。ここには、ミミズとかコバエとか、時にはゴキブリまで住んでいますけど、幸い今日はいませんでした。不気味だけど美しくもある、不思議なお城のように思えてきます。
そのまま、二歩三歩と這い進み、くずの緑のカーテンを両手で押し広げて、外に出ます。入口のつるより、出口のつるの方が根元に近いので、太くまばらで出やすいです。
マミちゃんが、つるの間から顔を出すと、途端にピカリ、夏の日の光りが目を差します。すぐ後ろからマキちゃんも、昔話に出てくるおばあさんみたいな恰好で、腰を折り曲げて、這い出てきました。
二人の汗まみれの顔に、フウッと涼しい風が吹きつけてきます。気持ちいいっ。
マミちゃんとマキちゃんが出た場所は、雑草がこんもりと生い茂る、ごく小さな空き地でした。二人が並んでやっと立てるくらいの狭さ。その先は、険しい崖になっていて、急な斜面がはるか下まで落ち込んでいます、空き地のふちに立って、そろそろと下を覗くと、めまいを起こす程の高さがあるんです。
崖の下は、青々とした雑草が茂る広い空地になっていて、その向こうに、マキちゃんの家へと続く道路や公園、橋が見えました。
マミちゃんとマキちゃんの秘密の場所に行くには、この崖を下りなければいけません。降りられるんです。度胸さえあれば。
その崖には、大きくて平べったい四角の石が、ポツリポツリと間を開けて取り付けられています。その石段は、山を下る坂道みたいに、S字にくねりながら、下の草地まで続いていました。
置かれている石の間隔、石から石への距離は、てんでバラバラです。ポンッと軽く飛び移れるくらい近いものもあれば、次の石までがすごく遠くて、崖土にお尻をつけながら、滑り降りていかなくてはならないものもあります。
たぶんここも、昔は普通の石段だったんでしょう。でも、長いこと誰にも使われないでいるうちに、あちこちの石がはずれて崖下に落ち、今みたいに、隙間だらけの石段になってしまったんです。残っている石も、しっかり崖土についているのもあれば、今にも抜け落ちそうにグラグラしているのもあります。
もし、ゆるんだ石段が、マミちゃんとマキちゃんの体重を支え切れずに外れれば、二人とも、宙を舞ってまっさかさま。でも、それがいいんです。スリル満点のおっかない場所だからこそ、マミちゃんとマキちゃんを邪魔する者は誰もいません。秘密の場所を、守ってくれているんです。
この階段を下りる時は、ためらったり、ソロソロビクビクしていてはいけません。勢いをつけて、一気に駆け下りる。崩れる時は崩れるんです。思い切りが大事です。
まずマキちゃんが、空き地のふちギリギリに立ちます。飛び移る石段までの距離を目で計りながら、かけっこのスタートの時みたいに、足を後ろに引いて構えます。
マキちゃんの邪魔にならないよう、五歩ばかり下がった位置で、マミちゃんも同じ姿勢を取ります。マキちゃんがスタートしたら、その一瞬後には飛び出せるように、深呼吸して心の準備をします。
もし途中で、マキちゃんが怖気づいてスピードを落せば、マミちゃんがマキちゃんにぶつかって、二人一緒に転がり落ちるだけです。二人の息がぴったりと合っている事が、とても大事なんです。
マキちゃんが叫びました。
「行くよう!ヨーイ、ドンッ!」
ヒュッ。マキちゃんが、すごい速さで崖から飛び出し、
宙を舞い、石段の上に降り立ったとみたら、すぐ足で蹴って次の石段へ。そして次へ、次へ、次へ、ためらわずに飛び移ります。トンッ、トンッ、トンッ、トーンッ。
間髪入れず、マミちゃんもスタート。マキちゃんと同じスピード、同じリズムで、石段を蹴って次の石へ。ジャンプしてまた次の石へ。蹴って飛んで、、蹴って飛んで、次の石段は、これは遠すぎるっ。小さくジャンプしてお尻で崖に着地、砂煙を巻き上げながらズズズズーッと滑って、転がり落ちない様にバランス取って。足が次の石段に触れたら、瞬時に体を起こして、同時に小さくジャンプ!また次の石段を蹴って飛んで、蹴って飛んで、大きくジャンプ!
「次でストーップ!」
宙を飛んだマキちゃんが大きく叫び、バンザイをする様に、両手を空に向かって広げます。そして着地!一秒後、マミちゃんも、マキちゃんのすぐ後ろに着地!
ついに到着したのです。大切な、二人だけの秘密の場所に。
12・
その場所は、石段の十二段目。崖の、ほぼ真ん中にあります。そこだけが、ほんの少し、歩幅にして三、四歩ぐらいの小さな平地になっていて、しっかりした石が三枚、並んで置かれています。昔は踊り場だったのかもしれません。
ここに立つと、まるで空に浮かんでいるみたいです。
マミちゃんとマキちゃんは、そっと寄り添って、静かに腰を下ろします。両足を石の端から外に垂らし、ブラブラしてみても、何にも触れる事はありません。自然のリフトに乗っている様。
目の前には、うっすらと赤く染まった広大な空。西に傾いた、燃える太陽。ピンクと紫色にたなびく雲。オモチャみたいに小さな、家や車や道路。
ちょっとだけ涼しくなった風が、夏の香りを吹きつけてきます。
カナカナカナカナ・・・。ひぐらしの鳴く声。リーン、リリリン。どこか懐かしい風鈴の音。
空には、カラスが何羽か、黒い影絵の様になめらかな動きで、スウッと通りすぎていきます。
これこそが、夏の夕方です。いつまでもきっと忘れる事のない、二人だけの夏の夕方です。
マミちゃんとマキちゃんは、しばらく黙って座っていました。マミちゃんは目をつぶり、何も考えず、ただ感じていました。こんなにも美しい夏の日を。
「ルリは、ママとオーディションに行ったんだよ」
マミちゃんは、ゆっくりと目を開いて、横に座っているマキちゃんを見ました。
マキちゃんは膝を抱え、頭を上に向けて、空を舞うカラスをじっと見つめていました。まるで独り言の様に、ポツリポツリと話続けます。
「うちのママさ、昔はモデルだったんだよ。だから、私やルリのことも、モデルとか女優とかにしたいって思ってる。それで、色々なオーデションに連れて行くんだ。でも・・・合格するのは、いつもルリばっかり。ルリだけが選ばれるんだ。テレビのCMや、雑誌にも出たんだよ。すごいよね、確かに。でも、私はダメ。一度も選ばれた事が無い。あきれるよね」
マキちゃんの声が、かすれて途切れました。いっぱいの涙がこぼれ落ちない様に、大きく目を見開きます。
「私は可愛くない。キレイじゃない。だから選ばれないんだよ。でも・・・前に、前にね、オーディションの審査員のおじさんがね、こう言ってきれたんだよ。可愛いのは妹さんだけど、個性的なのはお姉さんの方だねって。褒めてくれたよ。合格はしなかったけど・・・。でも、褒めてくれたんだから」
マキちゃんの頬を、涙の粒が転がり落ちました。後から後から、涙は止まることなく、マキちゃんの頬を濡らします。
「ママはもう、私をオーディションに連れていかないいんだ。どうせ受からないからって、私は置き去り。ルリだけを連れていくんだ。ママは、私のこと見捨てた」
マミちゃんは、何も言えませんでした。マキちゃんの悲しみが、自分の事の様に感じられて、息が苦しい。
その時。マキちゃんが、いきなりパッと立ち上がりました。強く固く握りしめたこぶしで、乱暴にゴシゴシと目をこすります。見上げたマミちゃんの瞳と、見下ろすマキちゃんの瞳がぶつかり合った時、マキちゃんの涙は消えていました。そこにあったのは、怒り。激しい、燃える様な怒り。
マキちゃんは、声を限りに叫びました。
「マミちゃんには、わかんないよ!私の気持ちなんか、絶対にわかるもんか。だって、だって、マミちゃんは可愛いもん。すっごい美人だもん。ママは、いつも言ってるよ。この町で、マミちゃんほどキレイな子はいないって。ルリだって可愛いけど、マミちゃんには敵わない。マミちゃんだったら、モデルでもアイドルでも、何にだってなれる。息を飲むほど美しい子だって。そんなマミちゃんに・・・そんなマミちゃんに・・・私の気持ちなんか、わからないんだよ!」
マキちゃんは、またワッと泣き出しました。地団駄踏んで喚き叫んで、今にも崖から飛び出してしまいそう。
マミちゃんは、マキちゃんを見つめたまま、身動きも出来ませんでした。マキちゃんの言葉が、頭の中でガンガン鳴っています。可愛い?私が美人だって?
そうかもしれない。マミちゃんは心の中で呟きました。そうなのかも。
よく考えてみると。マミちゃんは、物心ついて以来、会う大人みんなに、可愛いと言われ続けてきた気がします。
例えば、お母さんがよく行く、花屋の太ったおじさん。マミちゃんを見る度に目を細めて、
「こんなキレイな子、見た事がないなあ。大きなおメメが空を映しててな。将来は女優さんだね。今からサイン、貰っとくか」
そう言っては、小さな花を一鉢、ただでプレゼントしてくれるんです。シンピジュームという、高価な蘭をくれたこともありましたっけ。
家の近所で、駄菓子屋をやっているおばあちゃんは、
「雪みたいな肌に、バラ色ほっぺで、まあまあ、あんたはまるで妖精だよ。テレビに出りゃあいいのにさあ」
シワだらけの頬を両手で挟んで、じっとマミちゃんを見つめます。そして、練りアメをおまけしてくれるんです。
お世話になっている、小児科のお医者さんもそうです。四十度の熱で、クシャクシャのパジャマ姿、マミちゃんがゲロゲロ吐いている時でさえ、
「いやあ、品のいい子だ。シャープな顎のラインから高い頬骨の形まで、実に気高い美しさだ」
マミちゃんの骨格を絶賛します。くれるのはお薬だけですけれど。
近所の人、お母さんのお友達、親戚のおじさんやおばさん、みんなが、マミちゃんのことを、美しいって褒めます。女優さんになれる、モデルにしたら?アイドルはどう?キレイだ、可愛いって、もうそればっかり。
でも、マミちゃんは、褒められて嬉しいと思った事はありません。むしろ嫌でした。
だって、マミちゃんのお母さんは、
「なんて可愛いおじょうさんでしょう!」
と言われる度に、実に不愉快そうな顔をするんです。マミちゃんをジロリと見て、吐き捨てる様に、こう言うんです。
「美人でも、バカじゃ何にもなりませんよ。この子は算数ができなくて。本当に出来ないんです。顔が良くても、頭が空っぽじゃあ意味ないわ」
深々とため息をつきます。言われた相手は黙り込み、目顔でマミちゃんを慰めようとします。なんとも恥ずかしくて、情けなくて、惨めなことでした。
その時の気持ち、お母さんの口調、お母さんの表情、全部を思い出すと、マミちゃんの胸に猛烈な怒りが湧き上がり、一気に爆発しました。
弾かれた様に立ち上がったマミちゃんは、マキちゃんの腕をひっつかみ、グイッと引き寄せて、思いっきり怒鳴りました。
「マキちゃんだって、私の気持ちはわからないよ!美人だから、それが何?何になるっていうのよ?うちのお母さんはね、私の事、脳みそ空っぽだと思ってるんだよ。タカシは天才、私はバカッ。算数できないから・・・全然、できないから。マキちゃんはいいじゃない!頭良くてさ、勉強できるんだからさ!」
マミちゃんの目からドッと涙があふれ出しました。情けないと思っても、止まりません。ずっと我慢してきた気持ちが一気に弾けて、マミちゃんは、顔も覆わずに泣き喚きました。
マミちゃんとマキちゃんは、まるで赤ちゃんみたいに、ワアワアと手離しで泣き続けました。崖に寄り掛かって足を突っ張り、顔を大空に向けて。こぶしを強く握りしめ、滝の様に涙を流しながら、声を張り上げ、思いっきり泣きました。精一杯の思いをぶちまけて、心の底から泣きました。
ここでは、どんなに泣いても、誰にも見られることはありません。すっきりするまで好きなだけ、泣いて泣いて泣いてもいいんです。
ここにいるのは、マミちゃんとマキちゃんの二人だけ。二人だけの世界ですもの。
どれくらいの時がたったのか、マミちゃんとマキちゃんは静かになりました。二人とも、泣き疲れてしまったんです。
崖土に背中をつけたまま、ズルズルと座り込み、足を投げ出します。体中がグッタリとしてだるく、まぶたが重くなって、眠気が差してきました。涙は一滴も残っておらず、喉は痛く、頭は霞がかかった様に真っ白くなって、ボワーンをしています。何も考えられず、何も思わず、ただただ、夕もやに包まれた空を見つめていました。
マミちゃんは、ちょっとウトウトしながら、かすかに笑いました。疲れたけれど、涙がぜんぶ出てさっぱりしました。声が枯れるほど叫んでスッキリしました。とても楽になれました。
ダラリと力なく垂れていた手に暖かいものが触れました。マキちゃんの手です。マミちゃんは、ギュッと強く、その手を握りました。マキちゃんも、ギュッと強く、握り返してきました。
マミちゃんがマキちゃんを見ると、マキちゃんもマミちゃんを見ました。二人とも、ちょっぴり照れくさそうにフフッと笑いました、乾いた涙がくっついて、ほっぺがカピカピです。くちびるをなめると、しょっぱい味がしました。また、二人でフフッと笑いました。
マキちゃんがグーンと背伸びをして、満足そうに深く息を吸い込みました。マミちゃんは、強張った両足を撫で擦って、しびれを取ろうとしました。
マミちゃんのスニーカーのそばで、何かがクニャリと動きました。ん?重たい頭を起こして、下を覗きこみます。一瞬、グラリと目が回りました。体がふらつくので、転落しないよう、両手をしっかりと崖について、もう一度、よくよく見てみます。
二人が座っている場所の、もう一段下の石段に、何か大きな、灰色をした生き物がいます。マミちゃんは、目をこすりました。
自分の見ているものが、信じられません。慌てて、マキちゃんの服のそでを引っ張り、
その生き物を指差しました。
不思議そうに首を伸ばし、下を覗いたマキちゃんの目も、真ん丸になりました。口はポカンと開けっ放し。
マミちゃんとマキちゃんは顔を見あわせ、金切声を上げて、同時に飛び上がりました。
「へ、へ、へ、ヘビーッ!」
下の石段にヘビがいます。ちゃんと生きている、本物のヘビです。二人の足のすぐそばに!
青っぽい灰色をした、長い大きなヘビでした。ザラザラした体には、細かい模様があるみたいですけど、よく見えません。胴体の真ん中へんだけグルグルととぐろを巻いていて、首としっぽをまっすぐに伸ばしています。変な格好。丸みのある頭は少し持ち上げられていて、口元から何かがチラリと覗いています。たぶん舌でしょう。むっちりと引き締まった体。痩せてはいません。ヘビって何を食べるんだろう。
マミちゃんとマキちゃんは、その場に突っ立ったまま、動けませんでした。ヘビの方もピクリとも動きません。二人の事なんか眼中になくて、どこかよそを、ボケーッと見ている様子です。でも、どこを見ているのかはわかりません。ヘビの表情って、つかみにくいんですもの。
マミちゃんは、マキちゃんを肘でこづいて囁きました。
「ねえ、このヘビさあ、毒ヘビかな?」
マキちゃんは、鼻で笑い飛ばしました。
「そんなわけ無いじゃない。日本には、毒ヘビなんていないもん。あれ?いたっけ?とにかく、この辺にはいないよ」
二人は、マジマジとヘビを見つめました。ヘビはまだ動きません。ちょっと何かしてくれないかなあ。ニョロニョロ這うとか、舌をチロチロさせるとか。口をガアッと開けてくれたら、牙が見えるのに。ああ、牙が見たいなあ。
「ねえ。ちょっとだけ触ってみようか」
マミちゃんはニヤッとして、マキちゃんに囁きました。
「ダメだよ、マミちゃん。噛まれるよ。痛いよ。それに、喰いつたまま、離れなかったらとうするの」
マミちゃんは、静かにマキちゃんを見返しました。
「私達なら、大丈夫。二人なら、どんな事にだって立ち向かえるよ」
マミちゃんは、すっとしゃがみこむと、ソロソロ、ヘビに向かって手を伸ばしました。マキちゃんは肩をすくめて少し笑い、
「そうだね。私達は大丈夫」
マミちゃんと一緒に手を伸ばします。
ヘビは遠くを見つめたまま、知らん顔をしています。どうしたら、こんな姿勢のまま、固まっていられるんでしょう。
二人の指先が、ヘビの胴体の真ん中へんに、そっと触れました。冷たいだろうと思っていた体は妙に温かで、ザラリと心地よい手触りでした。すごい。実にすごい。ヘビは、まだ動きません。
すーっと、しっぽの方まで撫でていきます。なんてすごい生き物なんでしょう。マミちゃんは、何も考えないまま、ヘビの体を持ち上げようとしました。腕に抱けたらいいなって、なぜか一瞬そんな風に思って、それでついしちゃったんです。
ヘビは、いきなりシュッと体をくねらせて、石段にベタンとしっぽを叩き付け、すごい勢いで宙に身を躍らせました。そのまま、ヒュウッと崖下に落ちて行きます。
「落ちたよ、落ちちゃったあ!大変、大変だあ!」
マミちゃんとマキちゃんは、悲鳴を上げて身を乗り出し、必死にヘビの姿を探しました。ケガしてないかなあ、死んじゃったらどうしよう。
でも、大丈夫でした。
下の空き地の雑草の中に、ドサリと荒っぽく着地したヘビは、体をゆっくりと縮めたかと思うと、信じられないスピードで滑り出し、アッという間に茂みの中に消えました。
それを見て、パッと立ち上がったマミちゃんは、足をバタバタさせながら叫びます。
「逃げた!逃げた!逃げたよう!」
マキちゃんも、ピョンピョンとジャンプしながら叫びます。
「早く、早く、追いかけよう!」
二人は、ためらわず飛び出しました。出来る限りの速さで、残りの石段を一気に下っていきます。
どんどん走れ!怖がらずに。走って飛んで、もっと高く、もっと速く。大声で笑いながら、両手をいっぱいに広げて、力いっぱいジャンプして。きっと、どこまでだって行けるよ。
マミちゃんとマキちゃんの背中が、真っ赤に染まりました。沈んでいく夕日が、真っ赤だから。二人の体は今、夏の輝きに包まれているんです。
辛い、空しい、苦しい、悲しい。そういう気持ちになることもあるでしょう。それが、なくなることは無いんです。時には、いい解決方法が見つかる場合もあるけれど、どうにもならない事だってあるんです。
そういう時は、無理に解決しようとしなくていいんです。
元気いっぱい、思いっきり遊んで、辛さなんて吹っ飛ばしてしまいましょう。
大好きな友達と仲良くして、空しさなんて忘れてしまいましょう。
ドキドキの大冒険に挑んで、苦しみなんか捨ててしまうんです。
悲しかったら、泣けばいい。大声張り上げて泣ける場所を、見つけておきましょう。
あなた達には、そうした力があるんです。
いつもの帰り道 ふれあいママ @Fureaimamamasami
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