第3話 敵

中年の男性が不安と希望に満ちたようなその顔で病室の床に臥していて、私はその横で傷を負った体に鈍い痛みを通しながら、驚嘆による呼吸の忘却で、少し咳込みながら横たわっていた。すると図ったかのようなタイミングでドアの外から声がした。

「西海さん、あなた、早くお逃げになった方がよろしいですよ」

あの看護師だ。私は尋ねた。

「どうして」

「私があなたの寝ていない間に、指紋を検出してないとお思いですか。これを言えばわかりますよね」

看護師は感情のない機械のように淡々としていた。

指紋...そういうことか。私はあの男性には触れていないが、おそらくあの男には私の指紋がついている。つまり、私を殺人犯に仕立て上げようということか。しかし、そんな簡易的な手口ででっち上げができるとは思えない。何せ現場検証はあのシステムだ。カメラ映像は残っていないし、私はかろうじて動ける怪我人、それに何より男性の足の怪我はフェイクだった。仮に、システムの検証が道理の重ね合わせのみならば...いや、それしかあり得ない。ならば、この状況で私を殺人犯にするのは困難。ならば...

「君、君達...は騙せるのか」

その時、階段を駆け上がる甲高い靴の音が、緊張の状態をあらわすように耳にダイレクトに伝わってくる。そして静かに、朧げに、しかし確実に、看護師にこう囁かれた。

「猫は死んでいるのか、考えてみてね」

「何を言って」

するとドアの向こうから今度は廊下中に響く大声がした。

「あなた、そこで何をやっているの」

その声と同時に、足早に逃げ去るような、足音が聞こえてきた。私は考えた。この状況で、最も整合性の取れた無実の証明は何か。

ん、ちょっと待て。私は今このドアを塞いでいる。ドアの塞がれた閉鎖空間。ということは密室。つまり、現状証拠となり得るのは私の指紋だけか。この場合すぐにでも無実の証明をするのは困難。ならば、することは、ドアにつっかえさせた、電球を交換する棒を強引に取り出す。強引に力を入れすぎたせいか後ろにのけ反ってしまった。体が床に打ち付けられる。焦る気持ちが私の体の制御を妨害している。なんとか膝を突きドアをこじ開けた。

するとそこには、二人の看護師がいた。あの看護師はもうすでにいない。私は肩で息をしながら膝をついた。そして少し酸素が不足した頭をめぐらせて、考える。この状況における最大の防御は何か。今私が置かれている状況ははっきり言って良くない。私の指紋を利用して、何をしたのか。あまり時間はない。集中しなければ。私は前髪を一本捻り、その一本に焦点を絞る。一本に見える毛はチラチラと枝毛が見える。その見慣れた物が私の心拍を落ち着かせる。

指紋を利用する...薬による自殺を選んだのは、手袋も何もしていない状態では、刃物は

指紋を利用するには難しい。すでに外傷を負っているにしても、それをこちらの所為にできるか。何よりシステムを騙すのだ。ん、あの男性の耳には埋め込み式のイヤホンがある。あのイヤホンは録音機能こそ持っていないものの、gps機能がついている。位置情報による、システムの空間認識、圧倒的証拠になり得るはずだ。この機能はかなり周知の物のはずだからそれを騙すとすれば...無論、空間認識による再現は本人の動きのみ。考えられるのは、動き。あの男性、そうか、あの異常とも思える怯えは、怯えじゃない。誘導。しかし、自然に泡を吹くなんてできるのか、いや今考えるべきはそこではない。あの芝居からすると、私は何か吹き込んだ事になるのではないか、つまり自殺教唆。それが一番現実的だ。ならば、指紋を利用するのはあの男性に直接的にではなく、この状況を作りだすのにおいての間接的な場所ではないだろうか。そこがどこであれ、今からそれ自体をどうこうするのは不可能。そうして私が弾き出した結論は...

「目の前で、男性が...自殺...しました」



         ***


私は参考人として警察署にいる。あの病院には自殺した男性の他に、5人の不審人物が確認されたそうだ。無論その5人はシステムと警察の連携で拘束された。私を含め、参考人は同一の警察署で取り調べ、のような、いや、取り調べを行われている。すでに決めてかかったような言い方をされるので、私は黙秘し続けている。ここで不利な発言をしてしまったらその言質のみで事態が動きかねない。だから私はあの時も状況を伝えるだけにしておいた。真実は現場が教えてくれるはずだ。

「もはや証拠は出かかっているんですよ、いい加減諦めたらどうでしょう」

「黙秘なんて今の時代役に立ちませんよ」

と言った事をなん度も二時間近く言われ続けている。どうしてこう結論を急ぎたがるのだろうか、黙秘が役に立たないのはシステムの解析が起因しているだろう。ならば、その解析を持って無実を証明して貰おうというのに。最近の取り調べには、解析カメラが取り入れられている。私の表情や仕草を解析して、いくつか兆候がリストアップされる仕組みになっているらしい。私は取り調べを受けるのはありがたい事に初めてだ。この説明は取り調べを受ける人間の権利を考慮して、最初に説明される。

取り調べをしている警察の貧乏ゆすりが聞こえてくる。しかし、聞こえるだけだ。私は今目を瞑っている。なるべく表情に出さないためだ。そのうち机を小刻みにつつく音も混じってきた。そして、密度が低いが故に良く響く、机を勢いに任せて叩く、音が聞こえた。

「いい加減にしろよ、あんた、自分のやってる事を理解してるのか」

痺れを切らした警察が怒鳴る。おそらくこの映像は使えないんじゃないだろうか。警察は続けて言った。

「あの場にはあんたと被害者、それにあの女しかいなかった、そして被害者が自殺するまで、部屋にはあんただけだった」

私は大声で捲し立てられて少し怯んだが、視界がないので身体の動揺はそこまででもない。しかし待てよ、あの女、と言ったのか。

この場での呼称の仕方、私は目の前にいてしかも容疑者として扱われているのだから、あんたと呼ばれてもそこまで追求の対象にはならない。しかし、この場に居らず、しかも私と接した態度からして、あの看護師も不審人物の一人のはず。それを踏まえた上であの女という呼称の仕方は何か引っかかるものがある。まず警察が結論を急ぎたがるという点、ありがちなのだろうか。確かに、現場証拠を表面的に見れば私の犯行としてみる他ない。屋内、映像記録なし、密室、残されるのは服用した薬物と、イヤホンからのシュミレーション映像。しかし、有罪にするには大きなものが欠けている。それは動機だ。これが欠けていては決定打がないようなもので、結論を出す事は叶わない。故にそれを自白という形で創り出してしまおうということなのか。うーむ、どうも引っかかる。結論を急いでどうする。別件で忙しかったりするのだろうか。事件の早期解決も重要だろうが、正確に逮捕しなければ元も子もない。未だ警察の怒号が飛び交っているが、それは私の意識の外側でしかない。私はただ自分の脳みそと対談する。目を瞑っていると、集中するのが楽だ。

整理する、そもそも私が何者かに狙われるかの経緯は、あの看護師に扮した女性の発言から、私は何かを知っている。というか知っていた。しかしそれを忘れてしまっている。私を狙う者たちはその確認をしようとした。そして病室で私の向かいにいた男性、その人は最初私を後ろから殴打した。それに殺意はなかった。それは私がナースコールを鳴らそうとしたから、覚えていると思っての事だろう。しかしシステムに対する矛盾を提示した瞬間、自殺。そしてあの女性が残した発言

「猫が死んでいるのか」

そして警察の、あの女という呼称の仕方、事実と矛盾点を羅列するとこんな感じだ。

予備知識として、裁判にはシステムが協力する。被疑者に対する、弁護や論難をする際に、事実情報の開示がシステムによって行われる。しかし、システムの統計値などを参考にしたとしても、最終決定は裁判長により行われる。私を狙う者達のして欲しくない事、それは私の知り得た情報の公表のはず。そのうえで警察にあけわたすような形になっている。そうか、一見これは矛盾に見えるが、一つの情報を加える事で、それは解消される。私を狙うものが警察に協力者を持っている。

だからこそのあの女という呼称なのではないか。しかしこの映像は残るはず。

その時私の脳裏に血液の流れを確かに感じさせる、閃きが起きる。

相手が警察、だとしたら。





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