〈崩壊時代〉

 その間抜けな声が自分の口から出たものだと、ラーサは気がつかなかった。告げられた言葉が意味するところの衝撃が真っ先に頭のてっぺんから爪先までを駆け抜けて、けれどすぐにそれはあり得ないと理性が考え直した。自分は実際にこうしてここに立って思考しているのだ。かつてデカルトが主張したように、思考している自分の存在はどんな弁論を用いても否定のしようもないのだ。それでラーサは少しだけ気を取り直して強気になった。


「い、嫌だなぁ長老さん。そんなわけないじゃないですか。そんな冗談いくらなんでも笑えない……です、よ――」


 長老の顔は至って真剣そのもので、冗談でも虚言でもないと言外に告げていた。ラーサの言葉はみるみる尻すぼみし、最後は掠れた吐息のような音しか発せられなかった。


 次いで、湧き上がるのは怒りだった。


「なんでそんなこと言うんですかっ」


 ラーサに睨みつけられても、長老は悲しげに瞼を半分下げて悲痛に胸を痛めていると言わんばかりの表情を浮かべるのみで、決して告げた言葉を取り消そうとも、訂正しようともしなかった。


「グラドール殿の話を聞いて……それしか考えられないのです」


「どういう意味ですか」


 長老は瞼を閉じ、逡巡する。「少し、昔話をしましょう」重々しく口を開いた。

「もう遥か昔のことです――そう、今の人間が〈崩壊時代〉と呼ぶ時代のこと。〈崩壊時代〉のことについてはなにか知っていることは?」


「本で読んだくらいです」


「本?」


「あたしが目覚めた投棄施設に置いてあった本ですよ。二〇年くらい前に一九世紀の産業革命の時代から現在までを含めた時代区分として提唱された概念、ですよね?」


「また随分と昔の話が出てきましたね」長老は苦笑した。「その認識は八〇〇〇年ほど古いです。今、〈崩壊時代〉と言えばそれは人類が自らの科学技術で母なる地球を壊滅に追いやってしまったことを理解した時代のことを言います。もっとも、グラドール殿の認識も間違ってはいませんが。産業革命から続く人間の傍若無人な振る舞いのツケが〈崩壊時代〉に顕在化しただけですから。グラドール殿が読まれたという本は、おそらく八〇〇〇年前の〈崩壊時代〉という時代区分が提唱されてしばらくしたころに書かれた書籍だったのでしょう」


 長老はまるで過去からのタイムトラベラーを見るような眼差しでラーサを見つめた。彼女にはそれすらも自分が人間ではない、という長老の言葉の裏付けとされているようで落ち着かなかった。


「あれは地獄のような時代でした……」長老は過去を追想するように言った。「地球の気温は人類が生存するには適さないほど高温になり、人類の生存できるエリアはごくごく限られた地域に限定されて。しかも問題はそれだけにとどまらなかった。一度崩れたバランスはドミノ倒しのように多くの問題を噴出させるもので――オゾンホールの拡大によって有害な紫外線が地上に降り注ぎ、多くの人が遺伝子に損傷を受けました。海面は上昇し陸上面積は減少、作物は育たず飢饉が発生する……そういう時代だったのです。そんな状態に人類が耐えられないことは目に見えていました。そこで、私を含めた当時の研究者たちは同時に人類を救うためのいくつかのプロジェクトを立ち上げたのです」


「知ってます」ラーサは言った。「移住可能な惑星を探索する〈新ボイジャー計画〉、地底に都市を築こうとした〈地底都市化計画〉、地球環境を居住可能な状態に戻そうと試みた〈地球改造計画〉、人工の肉体に意識を移し替えて過酷な地球でも生存可能になることを目指した〈テセウス計画〉、生命力の強い植物と人間を融合させることで生存を図った〈植物化計画〉……」そしてハッとして長老を見上げた。「長老さんがそんな姿になってるのってもしかして……?」


「お察しの通りです。八〇〇〇年前、〈崩壊時代〉のころ私は〈植物化計画〉の研究を主導するメンバーの一人でした」


「……それじゃあほかにも長老さんみたいにその……植物人間になっている人が?」


「それはどうでしょうか」長老は微笑む。「我々の研究は失敗したのです。多くの仲間は〈新ボイジャー計画〉へと鞍替えをして地球を旅立っていきました。もっとも当時はそれが主流派であり、あくまで地球に留まることにこだわる我々は少数派でした。人類の大部分が宇宙船に乗って旅立ってまもなく、研究チームは解散となりました。私がこの姿になったのは一人で研究を続けていた際の……本当に偶然の結果なのです。今でもなにが原因で実験が成功したのか……いくつか仮説はありますが実証はできていません。なので……もしかしたら私の仲間が同じように奇跡的に実験を成功させている確率もゼロとは言いませんが、限りなく低いのではと思います」


 自嘲するような長老の物言いは、彼がかつての仲間を偲んでいるためのもののようだった。


「少し話が逸れてしまいましたね」長老は咳払いを一つした。「話を戻しましょう。私は〈植物化計画〉の研究者であり、専門は生化学でした。けれど、そのほかの研究のことについても大まかには理解しています。そのうえで、私はグラドール殿が〈テセウス計画〉で製造されたアンドロイドではないかと考えているです」


 あらためて突きつけられた言葉が、ラーサに冷たく突き刺さった。咄嗟に反論が口をついて出た。


「それは……おかしいよ。長老さんが言ってることは矛盾してる! だって長老さんが言ったんだよっ、〈テセウス計画〉は失敗したって!」


「ですがそう考えなくてはグラドール殿の存在は納得できないのです」


「どうして!」


「その服です」長老は冷静に応じた。「実に懐かしい服です。どこでそれを?」


「あたしが意識を取り戻したときにいた投棄施設の中ですけど……」


 ラーサは自分の服装を耳回した。どこもおかしなところはない。夜月が来ていたのとほとんど同じ、トラックジャケットとミニスカートだ。中に着ているのだってただのTシャツでおかしなものではない。彼女は眉根を顰めた。


「今の世界にそんな服を着ている人間はおそらくただの一人もいないでしょう」長老は言う。「ああ、時代遅れという意味ではありませんよ。正確を期して述べるのであれば、着たくても着れないのです」


「あの、意味わからないんですけど」


 長老は隣でじっと話の推移を見守っているクロウに目を向けた。


「グラドール殿はこの〈グローリア〉にやってきて不思議には思いませんでしたかな。彼らの服装を見て」


「……みんなおんなじ服を着てることですか?」


「そう。あれは〈アイギス〉と呼ばれるもので……今の人間はあれを着ていなくてはろくに外で活動ができないのです」


「はい?」


 ラーサは思わず耳を疑った。そんなバカな話はないと思った。けれど長老は無念そうに被りを振った。


「事実です。要因はいくつかあります。第一に〈崩壊時代〉に破壊された自然環境のダメージが大きかったこと。また、〈地球改造計画〉の失敗により、地球環境が改善するどころかさらに人類の生存に適さない形で改悪されてしまったこと。あげればキリがありません。ですがいくつもの要因が複雑に絡み合って生まれる結果はいつだって存外に単純なものです。空から大量の有害な放射線が降り注ぎ人体を傷つけ、世界平均気温は八度も上昇し、世界各地で平均気温が四〇度を下回ることは無くなった。〈地球改造計画〉の失敗により、自然の自己回復システムも正常に働いていないおかげで八〇〇〇年の間……生存環境が改善されている様子もありません。そんな状態で人間が活動するために開発されたのが〈アイギス〉なのです。〈アイギス〉には外気を遮断し衣服内の気温を一定に保ち、降り注ぐ放射線を防ぐ機能があります。当然、完全ではありませんが、ないよりはマシです。昔に比べ多くの者が遺伝子変異や暑さに耐えられずに命を落とすようになりました。平均寿命は六〇歳にも満たないでしょう。〈アイギス〉がなければもっと多くの人間が命を落としていたはずなのです。……それこそグラドール殿のような格好で外で生活し、放射線と暑さにさらされていれば半年と持たずに死を迎えていたことでしょう」


 それが理由? ラーサは納得できない。


「たったそれだけの理由……それであたしが人間じゃない理由にはならないんじゃないですか? あたしがクロウやこのコロニーの人たちと違う身体を持っていたとしても――それだけであたしが人間じゃないと決めつけることはできはいはずですっ。それこそ、あなたが知らないだけで〈テセウス計画〉が成功していたのかもしれないじゃないですか!」


「私も初めはそう考えました。ですが実験が成功していたのなら、グラドール殿が八〇〇〇年近くも眠ったまま、意識を失っていたということになる。そして、目覚めたら記憶を失っていた、と。そんなことが果たしてあり得るのか? 人間の意識は長い間機能を停止していた機械の中に止まっていられるのでしょうか? とてもそんなことはありえないように感じます。なら私は――同じくらいに突拍子もなく考えにくいことですが――グラドール殿はアンドロイドそのものでありなんらかの原因で擬似的な意識が芽生えてしまった可能性の方が信じられる。〈テセウス計画〉で設計されたアークシリーズと呼ばれたアンドロイドモデルは、人間の脳構造を完全に再現していましたからな」


 ラーサは長老の言葉を驚き半分、疑念半分で聞いていた。論外だ、彼女は思った。八〇〇〇年も生きて、知らないことはないと云われるくらいに賢い人の口から出てくる言葉とは到底思えなかった。


「……あたしは人間ですよ」


 彼女の言葉に長老は短く息を吐いた。


「平行線ですな。この問題は答えの確かめようがない問題です。ゆえにどちらの可能性を信じるかによって大きく話が変わってくる。けれど、私の考えではあなたは記憶喪失ではなく、もともと目覚める前の記憶を有していないのだと思うのです。だから……グラドール殿が記憶を取り戻すことは……おそらく」


 話を戻すように、長老はそう締め括った。けれど、ラーサにとってはもうそれはどうでもいい話だった。ただ、お前は人間じゃない、という言葉が彼女の尊厳をズタズタにしていて……抑えようのない怒りだけが込み上げてきていた。この怒りさえも本物の感情ではなく、作り物の模造品だと彼は言うつもりだろうか?


「……そんなこと言ったら長老さんだって本当に人間かわからないでしょ」


 ぼそっとラーサは呟いた。隣で聞いていたクロウがギョッとしたように目を向き、

「ラーサ⁉︎」と嗜めるように叫んだ。彼女は止まらない。


「長老さんだって、もしかしたら自分を人間と思い込んでるだけで、もしかしたらその樹が突然変異で意識を持っただけかもしれないですよ」


 ラーサに思いつける最大限の切り返しだった。


 もう長老と話をしていたくなかった彼女は踵を返すと、来た道を引き返した。

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