遭遇
「痛っ!」
穴を通り抜けた先の地面はまた三メートルほど下にあった。ラーサは重力に従いまた地面に背中を打ちつけた。ごちーん、と硬質な音が辺りに響き渡る。地面が土ではなくコンクリートだったのだ。おかげで落下の衝撃は一度目の落下の比ではない。
鈍く残る鈍痛に耐えながらラーサは身体を起こした。辺りを見回す。暗かった。彼女が滑り込んできた穴からほんの少しの明かりが漏れ入ってくるだけで、そのほかに光源は見当たらない。その明かりにしても照らし出せるのはせいぜい入り口から二メートル程度のもので、それより先は暗闇に包まれている。もっとも、それでも彼女が最初に目覚めた施設の方がはるかに暗かったのだが。
入ってきた穴の方を振り返る。外の様子を確認できればよかったのだが、身長一六五センチ程度のラーサでは、三メートル上の高さにある穴から外の様子を確認することはできない。踏み台にできるようなものがあれば話は違ったのだが、それも見当たらなかった。
まあ、あの様子じゃ相当怒ってるみたいだったからしばらくはあたしのことを探してるよね。そう考えればすぐに地上に戻ることもできないのだから、少しの間この投棄施設を探索してみるのもいいかもしれない、と思う。別に先を急ぐ旅じゃないんだし。
「『寄り道が思わぬ好機につながる場合もある』って
投棄施設は人類が使えなくなって放棄した施設の総称だ。ラーサが旅に出る前に施設で読んだいくつかの本にはそう書かれていた(彼女が目覚めた施設も今にして思えば投棄施設だったのだろう)。けれど、本の内容と現実は必ずしも一致しない。本では投棄施設の大部分が原型を維持しているとされていたが、そんな施設を見た試しはほとんどなかった。旅を始めてから何度か投棄施設を見かけたことがあるが、大抵が土の中に埋もれてしまっているか、災害や長い年月の風化で跡形もなく崩れ去ってしまっているかのどちらかだった。
それに比べれば、この投棄施設はかなり状態がいい部類だった。天井からは木の根がコンクリートを突き破って、さながら動脈のように絡まり合いながらさらに床を突き破って下の階へ伸びている。床は至るところが土まみれで本来は鼠色だったはずの床を薄黒く染め上げていた。しかし、少なくとも通路は潰れておらず、建物としての形を保っているのだ。
通路を進むと、少し広い空間に出た。左手には大量の土砂が文字通り壁のように堆く積み上がっており、すぐ目の前まで迫っていた。土の中にはいくつもの小さな椅子が階段上に連なっている。それが通路に従ってどこまでも続いている。天井でも抜けたのかな。頭上を見上げてみればどうやらそうではないらしい。もともとこの施設の中央には屋根がないようだった。ただ、視界いっぱいに土の壁が迫っているせいで空から差し込んでいるはずの光を感じることはほとんどできなかったのだが。
建物はすり鉢構造になっていて、ラーサがいるのは最上階に当たる場所のようだった。壁面にはポスターが貼られていた。すっかり風化して、なにが書かれていたののか判別するのは難しい。唯一判別できるのは〈Stadio〉という色褪せた文字だけだ。
少し離れたところには売店もあった。上にのしかかる土と樹の重さに耐えかねたように半ばから潰れていて、中に入ることはできなかった。足元に〈Heineken〉とラベルの貼られたビンが何本か転がっていた。ラーサは一つを拾い上げて中身の様子を窺ってみる。長い年月を経て、ヘドロ上に変質してしまっているようだった。
ビンを売店のカウンターに置き、嘆息する。少なくともこの投棄施設に彼女の御眼鏡にかなうものはありそうもなかった。
「替えのジャケットでもあればよかったのになぁ」ラーサは呟く。それでも、彼女の声に落胆の色はなく、むしろ嬉々としていた。土で埋まっている反対側を振り返った。「ここってたぶんサッカースタジアム……だよね。すごい、本物って初めて見た」
彼女は土に埋もれていない椅子を探して腰掛けた。茶黒い土の山を見つめて、土の下に埋もれているかつての緑色の芝生を想像する。そこでプレーするのは二二人の選手で、客席は超満員の観客で埋まっている――そういう想像。
「夜月とマキナが来たのもこんなところだったのかなぁ」
「クンッ!」
独り言に返事を返されて、ラーサは声の方を振り返った。胴体に樹皮を巻いた仔クロガネギツネがちょこんと御座りをしていた。キラキラとした瞳で彼女を見上げ、やっと見つけた、とでも言いたげに尻尾を振っていた。
「きみ……こんなところまで追いかけてきたの?」ラーサは口元を緩めた。ピンッと仔クロガネギツネのおでこを指で弾く。「困ったやつめ。仲間のところに戻った方がきみのためなんだぞ?」
そのときだった。
パアァーン! と今まで聞いたことがないような乾いた音が辺りに響き渡った。まったくの不意打ちでラーサはビクッと肩を跳ね上げさせて音がした方を振り返った。音はこの建物の奥の方から聞こえてきたようだった。
「な、なに今の……」
「グフッグフッ!」
仔クロガネギツネは暗闇に向けて牙を剥き、唸るように低く吠える。そして音がした方へと走り出した。
「あっ、ちょっと!」ラーサが呼び止めようとしたときにはもう遅い。小さな黒い身体は闇の中に紛れて見えなくなってしまっていた。「あ〜もう!」頭を掻き、彼女は仔クロガネギツネの後を追いかける。「そっちに行ったら危険があるかもしれないじゃん! もうちょっと警戒心持った方がいいよきみっ!」
スタジアムのさらに奥に行くと、通路が土砂と倒木で埋まっていた。右手には屋内へと繋がる廊下があって、その中からカツッカツッというあの子が地面を蹴り付ける足音だけは聞こえた。どうやら、屋内通路を伝って下の階に向かっているようだった。
屋内でひたすらに下へ続く階段を探して仔クロガネギツネの後を追いかけていると、不意に光を感じた。スタンドへの出入り口から差し込む光だった。スタンドへ出てみれば、壁のように迫っていた土壁がなくなり、なだらかな平地に変わっていた。スタジアムの奥を見やれば土が急斜面を作ってスタジアムの上階まで埋まっていた。スタジアムを半周したおかげで土壁がない場所に回って来られたのだ。
頭上を見上げればオレンジ色に染まりかけている空が見えた。木々の枝葉に遮られない視界いっぱいの空だった。なんらかの事情でスタジアムの下にあった土が崩れたのだろう。それでスタジアムの上に生えていた樹木ごと中に崩落したのだ。辺りには崩落に巻き込まれたと思しき倒木がいくつもあり、観客席の椅子やスタジアムの天井の一部を破壊していた。
仔クロガネギツネは一本の倒木の上にいた。太陽の角度のせいか、オレンジ色の日差しが倒木の上に降り注ぎ、スポットライトを浴びているかのように光沢を帯びた黒毛がキラキラと輝いていた。
「やっと見つけ――」
ラーサは開きかけた口を閉ざす。倒木の影になにか……誰かがいた。
最初はよく見えなかった。
一歩、二歩、と横にずれると視界に飛び込んできたのは倒れ伏しているクロガネギツネたちの姿。一匹たりとも、ぴくりとも動かず血溜まりの海に沈んでいる――ついさっきまで本気の追いかけっこをしていた友人たちの変わり果てた姿にラーサは深い衝撃を受けた。どうして? 誰がこんなことを?
答えはすぐに出た。クロガネギツネたちの骸の山の反対側に誰かいた。姿は倒木の影に隠れてわからなかったが、黒光りするライフル銃の銃口を唸り声を上げる仔クロガネギツネにむけているのだけは見えた。
まずいと思ったのと身体が動いたのはほぼ同時だった。
最大限の力で地面を蹴り付け、仔クロガネギツネを抱き抱えた。
そのコンマ数秒後にラーサの足元を一発の銃弾が掠め飛んでいく。驚愕すると同時に、正確な狙撃だ、と理性の一部がそう断ずる。銃弾が通過した場所は、まさに仔クロガネギツネが立っていた場所だった。
ラーサは右足につけたサバイバルナイフを引き抜くと、振り返りざまに投擲した。ナイフは一直線に相手の元へ飛んでいき、ライフル銃を相手の手から弾き飛ばした。
ラーサは勢い余って体勢を崩し、そのままその場に尻餅をついた。
「あいたー……」
声を漏らしながらも、腕の中に抱えた仔クロガネギツネを庇う手を緩めることはなかった。
改めて相手を見やる。
「っ」
今度こそ言葉を失った。
宇宙のように漆黒の長髪を後ろで束ね、猫のように細長い瞳を茫然と見開いて弾き飛ばされたライフル銃の行方を視線で追いかけていたそいつは、ラーサが旅を始めてから初めて遭遇した人間だった。
男だった。――少年と言った方が近いかもしれない。
最初の印象は黒、だった。褐色の肌に膝丈まである細身の黒いロングジャケット、黒いズボンに黒くて分厚いブーツと目に飛び込んでくるカラーすべての色が濃かった。
「あ、危ないじゃないか! いきなり――」少年は逸る心臓の鼓動を落ち着けるように胸に手を添えたままラーサに目を向けるなり叫んだ。思いの外高い声だった。足元に落ちているサバイバルナイフを拾い上げる。「いきなりこんなナイフを投げつけてくるなんて!」
「ご、ごめん」少年の剣幕にラーサは思わず謝った。「でもそれはきみがこの子を殺そうとしたからだよ」
「この子って……そのクロガネギツネの幼獣のことか?」
仔クロガネギツネはラーサの腕の中で血の池に沈む家族の姿をじっと見つめていた。
「そーだよ」
ラーサは頷く。
「変なこと言うやつだな、あんた」少年は言う。「クロガネギツネは子どもでも油断したらこっちが大怪我を負うことだってあるんだぞ」
「それでもこの子にきみを襲うつもりはなかったよ。それに……この子が怒ってるのはこの子の家族をきみが殺したからでしょ。そんなの怒りを買って当然だよ」ラーサは怒りを滲ませて言った。「どうしてこの子の家族を殺したの。別にきみを襲おうとなんてしなかったはずだよ」
少年はラーサに困惑顔を向けた。
「あんた、本当に変なこと言うやつだな」やれやれ、というふうに首を振って肩をすくめる。弾き飛ばされたライフル銃を拾い上げると、負い紐を肩にかけた。「そういえばあんた。ここら辺じゃ見ない顔だけど〈プロテクシオン〉の人間か? こんなところでなにしてるんだよ」
ラーサは首を傾げた。
「あたしはずっと旅してて……この辺には今日初めてきたんだけど」
彼女の言葉に少年はピタッと動きを止めた。彼女の元まで駆け寄り、まじまじと至近距離から顔を見合わせる。
「あ、あんた今なんて言った?」
「え?」
「ずっと旅してるって言ったか? じゃあこの辺の人間じゃないのか?」
「だからそう言ってるじゃん」ラーサは少年を押しのけて口を尖らせる。「急になに?」
ラーサの問いかけに少年は答えない。まるで神様でも見たかのように瞳を見開いたまま全身を戦慄かせていた。その様子で、なにか尋常ではないことが彼の中で起こっているのだ、ということだけが察せられた。
「あんた、この後どこかに向かう予定はあるのか?」
「別にないけど」
「ならよかった」
「……よかったってなにが?」
「あんた、ちょっとうちのコロニーによってってくれないか。長老やみんなにあんたを歓迎したいんだ」
ラーサはハッとした。今、彼はなんて言った?
「今、みんなって言った?」ラーサは訊ねる。「この近くにきみ以外にも人がいるの?」
「ああ、いるとも」少年は頷く。「その辺も含めて話がしたいんだ。来てくれないか?」
ほかの人間に会える。これまでずっと一人で旅をしてきたラーサにとって、それはこの上ない申し出だった。
「まあ……いいけど」
けれど二つ返事で頷くのはかっこよくない気がして、ラーサはそんなふうに言った。
「助かる」少年は安堵したように微笑んだ。「そういえば、まだ自己紹介もしてなかったな。クロウ・ネスだ。ここから数日行ったところにある〈グローリア〉で狩人をしてる。よろしく」
差し出された手をラーサは握り返す。
「ラーサ=マリー・グラドールよ。……ナイフの件はごめん。あたしもちょっとやりすぎたかもとは思ってる。次からは投げる前に話し合うようにするから」
「……できれば投げないでくれると助かるんだが……」
クロウは苦笑した。
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