DAY6205
小さな出会い
梢が風に揺れている。
その音を聞きながらラーサは目を覚ました。幹に寄りかかって眠っていた彼女の顔に、木漏れ日が差していてほんのりと暖かさを感じた。空を見上げれば、覆い被さるような木々の枝葉の合間から青い空とギラギラと白く燃える太陽が見えた。
「う〜んっ」
立ち上がり、伸びをする。手足をぷらぷらと回し、動きを確認する。
背もたれ代わりにしていた樹は大樹と言っても過言ではない。幹周りは両手を広げたラーサ五人分はあるほどに太い。それでもこの樹木も森全体で見ればありふれたもので、これと同じような大きさの木々は見渡す限り、あたり一面にある。でも、一晩の寝床として利用させてもらったのはほかでもないこの樹である。「夜はありがとうね」労うように彼女は幹を撫で付ける。カラカラに乾燥している樹皮がパラパラと剥がれ落ちた。
根本にはクッション代わりに幹と腰の間に挟み込んでいたトラックジャケットとグレー色の大型バックパック、刃渡三〇センチはあるサバイバルナイフ、そしてリボルバー式の拳銃が一丁、無造作に地面の上に置かれていた。
ラーサはジャケットを拾い上げる。
「あっ……汚れてる……」
白地のトラックジャケットには土汚れがついて黒くなっていた。バサバサとジャケットを払って土汚れを落とした。表面に付着した土は落ちたが、生地の中の方に入り込んでいる年季の入った汚れは落ちない。「白いジャケットにしたのは間違いだったかな……」彼女は眉根を寄せる。よし、次にいいジャケットがあったら今度は黒にしよう。それなら夜月とお揃いになるし、ちょうどいいかも。
ジャケットを羽織る。サバイバルナイフはレッグホルスターとともに右足の太ももに巻きつけ直した。拳銃は弾がきちんと装弾されていることを確認してから後ろ腰にスカートの間に差し込んだ。拳銃はジャケットの裾に隠れて見えなくなった。
バックパックを肩に下げ、一宿の礼を世話になった樹に告げる。
「じゃあ、行きますか」
森を旅し始めてから半年が過ぎていた。
本当は目覚めたあの日のうちに森の中へ出て行きたいくらいだった。それができなかったのはあの施設が迷宮のように入り組んでいて、出口をなかなか見つけられなかったからだ。出口を聞こうにもいるのは物言わぬ骸のみ。それでも収穫がなかったわけではない。出口を見つけるまでの間、彼女は施設に所蔵されている本を片っ端から読み込んだ。半分は学術書で最初の一ページ目で理解を放棄するような内容ばかりだったが、もう半分は娯楽小説やコミックの類で、彼女が親しんだのはもっぱら後者だった。おかげで施設を抜け出すまでの間は退屈せずに済んだ。
施設を抜け出してまず初めに気がついたのは、外の世界はさまざまな音にあふれているということだった。彼女がいた施設は、多くの設備がとっくの昔に壊れて使えなくなっているというのに、防音設備だけはほぼ完璧と言っていい状態で保全されていたのだ。彼女は長い時間をしんと静まり返った暗い屋内で過ごさなければならなかった。
歩きながら彼女は木々の間を飛ぶ小鳥の囀りに耳を傾け、どこか彼方で聞こえる動物の鳴き声に耳を澄まし、木の幹や土の中で脈動する虫たちの息吹に想いを馳せた。木立の間を駆け抜ける風がそれらのメロディーを一つにまとめ上げる。生命の息吹を感じられる自然の音楽に身を任せるのがとても心地よかった。
見たことのない植物や花、虫や動物を見かけるたびにラーサは歩みを止めてそれらを観察した。ヘンテコな形の花をつける植物、色鮮やかで綺麗な鳴き声の小鳥、いっぱいの脚を器用に動かして土の上を移動する奇妙な虫――それら全てが彼女にとっては興味深いもので、宝石のように輝いて見えた。
特に興味を惹かれた対象はスケッチすることもあった。バックパックの中には施設で見つけたスケッチブックとペンが入っていて、それで模写をするのだ。スケッチブックのページはすでに半分以上が彼女の絵で埋まっていた。
ふと、どこからか水音が聞こえた。
ラーサはスケッチする手を止めて辺りをキョロキョロと見回す。川のようなものは見える範囲にはない。もう一度、彼女は耳を澄ませる。やはり、確かに聞こえていた。彼女はスケッチブックをバックパックに仕舞い直すと、水音が聞こえてくる方へ歩みを再開させる。
最初は息を潜めて耳をすまさなければ聞こえてこないような微かな音だったのが、次第に大きさを増していく。
一キロほど歩いたところに、川幅一メートルほどの小川を見つけた。
「やっとあった……」
ラーサは安堵のため息をつく。そろそろ水が枯渇し始めていて、補給しなければ危ないところだったのだ。彼女はバックパックの中から手のひらサイズの四角い水タンクを取り出し、水を汲む。
透き通った水で、水底まではっきりと見ることができる。川面には人の顔が浮かんでいる。銀髪をハーフツインにまとめた自分の顔だ。
「……やっぱ綺麗」
まじまじと見つめて、思わずうっとりとしたため息が口をついて出た。誰に見せるわけでもないが、彼女は今の髪型が気に入っていて、結構似合っている方だと自負している。叶うなら、ほかの誰かからの感想も聞いてみたいところだ。
彼女の旅に目的はなかった。旅をすることそれ自体が目的のようなものだから。けれど、強いてあげるとするなら自分以外の人間を探すことになるのだろう。しかし、その目的が達せられるのがいつの日になるのか、彼女にはわからなかった。もしかしたらそんな日は来ないのかも知れないとさえ思えた。なにしろ、彼女が旅を始めてから半年、自分以外の人間に出会ったことはまだ一度もなかった。
自分の顔に見惚れている間に、約300ミリリットル程度入る水タンクはとっくに満杯になって水を溢れされていた。タンクの蓋を閉め、バックパックに保管しておく。これで二日は十分に持ち堪えることができるだろう。
ガサガサッ。
背後で音が聞こえた。
ラーサは弾かれたように振り返った。危険な獣かも知れないと警戒感を強めた。
獣ではあった。けれど、背の低い羊歯の茂みの間から顔をぴょこんと覗かせたのは、全身を黒い毛で覆われたクロガネギツネだった。こちらから危害を加えなければ、無闇矢鱈に人を襲うような種類ではない。しかも、クリクリとした瞳はまだ幼さを湛えていて、幼獣であることがわかる。
「ほっ」ラーサは息をついて警戒を解いた。「やあ、こんにちは。きみも水を飲みに来たの?」
声をかけるが、クロガネギツネの子どもはじっとラーサを見つめるのみ。あたしがいるから警戒してるのかな? 彼女は立ち上がるとクロガネギツネの子どもの様子を窺いながら、ゆっくりとその場から後退る。すると、クロガネギツネの子どもはそこでようやく草むらの中から這い出るように姿を現した。
その姿を見てラーサは息を詰めた。
脇腹のあたりを怪我している。黒い体毛に紛れて判別しにくいが血も滲んでいるようだった。
クロガネギツネの子どもはそこで力が抜けたように地面に倒れ伏した。
「大丈夫⁉︎」
ラーサは慌てて駆け寄った。
硬質な感触の体毛を掻き分けて怪我の様子を探ってみると、なにかに噛みちぎられたような傷があった。兄弟同士での喧嘩か、もしくはほかの動物に襲われたのか。いずれにしろほかの動物からの攻撃にあったようだ。クロガネギツネは本来、その名前の通りに鋼のように硬い光沢を帯びた体毛を備えている。成獣であればそう簡単に深傷を負うこともなかっただろう。まだ幼く、体毛が硬い毛に成長しきる前にこんな怪我を負ってしまったこの子は災難というしかない。
傷口に触れると、クロガネギツネの子どもは「クゥ〜ン」と辛そうな鳴き声をあげる。これが弱肉強食の自然の摂理と言ってしまえばそれまで。けれど目の前で辛い怪我にうめく相手を見つけて見捨てておけるほどラーサは非情ではない。
ラーサはサバイバルナイフを抜き取ると、近くの樹に歩み寄った。
「ごめんね。あの子を助けるにはきみの力が必要なんだ」
ラーサはサバイバルナイフの刃を横に構えると、肩から上の位置の幹に叩き込む。そのまま下に刃をスライドさせる。それで数十センチほどの樹皮を切り取った。
ラーサは首を巡らせる。目当てのものはすぐに見つかった。エロベラ。水辺に棘のように群生するその植物の葉を一つもぎ取った。
エロベラの葉を千切ると、中からゼラチン状の物質が分泌される。これには抗炎症作用や抗菌作用の効果があり、傷口に塗れば治癒促進の効果がある。これをクロガネギツネの子どもの傷口に塗り込み、ついで剥いだ樹皮に塗布する。樹皮には繊維が含まれている。傷口に巻けば包帯と同じように止血効果が期待できるだろう。
医者でないラーサにできる応急処置はこのくらいだ。あとは自然の治癒力に期待する以外に手はない。
それでも彼女の手当は一定の効果があったようだった。地面に横たわったままのクロガネギツネの子どもの様子を見守ってしばらくすると、立ち上がって彼女の元に歩み寄って来られる程度には元気が回復していた。ぺろぺろと手を舐めてくる様に彼女は思わず頬が緩む。
「まだ治ってないんだから〜。あんまり動いちゃダメだぞぉ」ラーサは周囲を見回す。「そういえばきみ、ほかの仲間はどうしたの?」
クロガネギツネは大規模な群れを作るような動物ではない。けれど家族で固まって小規模のグループを作っていることが多い。ましてこのクロガネギツネはまだ子どもだ。一人で行動しているとは考えられない。となると――。
「もしかして逸れちゃったの?」
「クゥーン」
頷くようにクロガネギツネの子どもは鳴く。まさか言葉が理解できているとは思わないが――いや、もしかしたらニュアンスぐらいは理解しているのかも?――ラーサの心は少し躍った。
「クゥ〜ン」
クロガネギツネの子どもが今度は甘えるような声をあげた。なにかを訴えるような円な瞳でラーサを見上げてくる。
「……もしかしてお腹が空いたの?」
返事はないがおそらくそんな気がした。彼女は食に頓着しない。だからこういうとき、なにを与えればいいのかわからなかった。
クロガネギツネは肉食だ。やはり肉を与えた方がいいのだろうが、あたりを見回しても獲物になりそうな動物は見当たらない。川に魚でもいればいいのだが、目の前の小川は水深が浅く、クロガネギツネの子どもの腹を満たせそうな大きさの魚が泳いでいるとは到底思えなかった。もっとも、仮に獲物となるような動物がいたとしても――いくら弱っているクロガネギツネの子どものためとはいえ――命を狩り取るというのは気が引けて実行に移せなかったかもしれないが。
どうしよっかな……。ラーサはクロガネギツネの子どもが食べられそうなものを探してあたりを探索した。
ふと頭上を見上げて、いいものを発見する。赤と黄色のクラデーションをもつ果実、グローザが一〇メートルほどの高さのところにいくつもなっていた。
あれがいい。
ラーサは指を弾く。手近な枝に手をかけ、幹を足で蹴り上げて体を持ち上げる。彼女の身体は軽々と持ち上がり、リスのようにあっという間に彼女は樹のてっぺんまで上り切ってしまう。枝から手のひらサイズのグローザの実をもぎ取るとほのかに甘い香りが鼻腔をくすぐった。
いい具合に熟しているものを三つ収穫して、その場から地面に飛び降りた。
「うっ……」着地の瞬間に足の裏からビーンと衝撃が伝わり、足全体が痺れた。苦悶と苦笑の声が喉から漏れた。「あははっ……流石にあの高さから飛び降りるのはキツかったか……」
クロガネギツネの元に戻ってグローザの実を差し出すと、最初は果実に鼻先を近づけてクンクンと匂いを嗅ぐだけだったのだが、一口齧ってみればもう気に入ったようでガツガツムシャムシャとあっという間に三つの果実を平らげてしまった。
「そんなに美味しかった?」ラーサはクロガネギツネの子どもの頭を撫で付ける。「『明日死んでもいいように今日、最高の食事を取らなきゃ』だよ。……死んでほしくはないけどね」
太陽の位置が中天を過ぎて、西の空に傾き始めていた。
森の中を吹き抜ける風の流れも変わっていた。
これからどうしよう。いつまでもクロガネギツネの子どもと一緒にここにいるわけにもいかない。でもそしたらこの子はどうするの? ここに置き去りにするの? 手当したとはいえまだ万全の状態じゃない幼い子どもなのに? そうしたなら遠くない未来にこのクロガネギツネの子どもは狩りをすることもできずに餓死してしまうだろう。
ラーサが身動きを取れないでいると、不意に仔クロガネギツネが頭を振り上げた。鼻先を上に突き上げてくんくんとなにかのにおいを嗅いでいる。
「どうしたの?」
まさか。彼女は立ち上がると辺りを見回した。見渡す限り木々ばかり。
それでもよくよく耳を澄ましてみると彼方から「クンッ! クンッ!」という動物の鳴き声が聞こえた。ラーサはクロガネギツネの子どもを小脇に抱き抱えると、急いで鳴き声がする方向へ駆け出した。
風のように木々の合間を駆け抜けて、ラーサは足を止めた。前方約五十メートルほどの距離のところにクロガネギツネの小集団を見つけたのだ。八から一〇匹程度はいた。みんな、しきりになにかを探している。「クンッ! クンッ!」という鳴き声は彼らのものだった。
ラーサの腕の中で仔クロガネギツネも「クーン!」と吠えた。
「もしかしてあれがきみの家族?」
仔クロガネギツネは尻尾を振る。
視界の先では我が子の鳴き声に反応して、クロガネギツネの集団がこちらの存在に気がついているようだった。長居して不要な刺激を与えてもいけない。ラーサは仔クロガネギツネを地面に下ろすと「じゃあね。もう群れから逸れちゃだめだよ」と言って静かにその場から後退った。
けれど、仔クロガネギツネは群れとラーサの間でどちらに向かうべきか躊躇うように右往左往している。
「なにを迷ってるの」ラーサは笑った。「きみが行くのはあっちだよ」
群れの方を指さして、ラーサは踵を返して駆け出した。数十メートルほど進んだところで足を止め、振り返る。流石について来ないだろうと思っていた。間違いだった。足元には走って追いかけてきたのだろう「ハッハッ」と荒い息を吐く仔クロガネギツネが彼女を見上げていた。
ラーサはその場にしゃがみ込み「しょうがないなぁ」と甘えん坊の頭を撫でた。
「走って追いかけてくるなんてすっかり元気になったみたいじゃん。あんまり無茶するなって言ったのに」ラーサは苦笑する。「あたしのこと気に入ってくれたのは嬉しいけど……きみを連れて行くことはできないよ。きみには家族がいるでしょ? なら家族のところに戻らなくちゃ」
「く〜ん」
「ははっ、そんな声あげてもだ〜めっ。あたしがきみと一緒に行くこともできないよ。他のみんなをびっくりさせちゃうからさ。――ほら、わかったら家族のところに帰りな。みんな心配してるよ」
群れは追いかけてきてるかな? 確かめようとラーサは視線を上げた。
群れはすでにそこにいた。仔クロガネギツネとラーサを取り囲むように。
あっ、まずい。ラーサは泣きそうになった。
群れの大人たちは例外なく牙を剥き、「ガフッ! ガフッ‼︎」と威嚇の声を上げている。どうやらラーサを敵と認識しているようだった。
ラーサが逃走の体制に入るのと彼らが猛然と襲いかかってくるのはほぼ同時だった。彼女は隙をついて包囲網を強行突破すると全速力で逃げ出す。
「ちょ、誤解誤解! あたしはきみたちの子どもを返しにきただけだから!」
彼女の悲鳴も怒りに燃えるクロガネギツネたちには聞こえない。後ろを振り返れば、彼らはまだ追いかけてきていた。先頭にいるのはあの仔クロガネギツネだ。
「ねえきみが追いかけてくるからほかのみんなも追いかけてきてるんじゃないかな⁉︎」
右に逃げようとすれば一匹が行手を塞ぎ、反対に逃げようとすれば別の一匹が待ち構えている――そうやって彼らは正確な連携でラーサを追い詰めていく。かといって彼女が反撃に出てしまっては元も子もない。この状況を打開するには、とにかく彼らを撒いて彼らが諦めるまで身を隠せる場所に避難することだろう。
彼女は逃げの一手に徹しながら、油断なく周囲に視線を配り続けた。だから足元が疎かになっていたのかもしれない。
濡れた羊歯に足を取られ、派手に転倒した。
さらに地面は傾斜になっていて、そのまま地面を転がり落ちる。最後には斜面はほぼ垂直に近い角度になっていて、ラーサは三メートルほどの高さから地面に落下し背中を強打した。
衝撃に揺らぐ視界の中、彼女は自分が転がり落ちてきた斜面の土の中に金属の塊のようなものを見つけた。地面に埋まるようにしているそれは、形状からして支柱のようだった。支柱の横には腹這いになれば人が一人やっと通れそうな小さな穴が空いている。
地中に埋まっている人工物と言われてラーサに考えつくものは一つしかない。
投棄施設だ。
あの中に逃げ込めばクロガネギツネたちをやり過ごせるかもしれない。しかし、小さな穴を通り抜けた先がどうなっているのかは想像もつかない。実は中は土や瓦礫で塞がれていて人間が入り込む余地なんてないかもしれない。
迷っている時間はなかった。クロガネギツネたちの鳴き声と足音はすぐそばまで迫っていた。
起き上がると同時に走り出す。ラーサが身体を小さな穴の中に滑り込ませたのとクロガネギツネたちが斜面の下に降り立ったのはほぼ同時だった。
クロガネギツネたちは突然見失ったラーサの姿を探してしきりにあたりの様子を探っていた。
姿は見当たらなかった。
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