新世界のラーサ 〜ヒューマノイドは人間を夢見ない〜
金魚姫
DAY1
目覚め
一条の光が、空を切り裂いたような轟音とともに存在を忘れられて久しいパラボラアンテナに直撃した。激しい火花が散り、アンテナに幾重にも絡み合っていた蔓草が炎を上げた。長年放置されたことによって錆びつき、劣化していたアンテナは落雷の衝撃に耐えることができず、最後の断末魔をあげて根本から地面に崩れ落ちた。炎の魔の手は近くの木々や下草に伸び、瞬く間に勢力を拡大する。海をひっくり返したように際限なく降り頻る雨を持ってしても鎮火にはしばらくの時間を要するだろう。
けれど彼女が目を覚したとき、室内は至って静かだった。今なお外で絶え間なく鳴り響く雷鳴も激しく木々を打ち付ける雨の音も聞こえなかった。
一回、二回と瞬きをする。ぼやけていた視界は次第に焦点が定まっていく。辺りは暗幕を落としたように真っ暗だった。
彼女は両手を腰の横につき、ゆっくりと上半身を起こした。身体を起こしても辺りが薄闇に包まれていることに変わりはない。それでも次第に瞳が闇に慣れてくれば、暗闇の中からほんのりと部屋に存在する物体の輪郭が浮かび上がってきた。さらに目を凝らせば、よりはっきりと部屋の様子を窺い知れる程度には視界が晴れてくる。
荒れ果てた部屋だった。
壁も天井もあるところは剥がれ落ち、あるところは植物の侵食を受けて草が顔を出している。床には大きな亀裂がいく筋にも走っている。本来灯りを灯すはずの場所には、明かりを発する蛍光灯の類が影も形も存在していなかった。
彼女が横たわっていたのは病院の診察台のような台だ。塩化ビニール製の表面は固く、骨組みの冷たさを直接伝えてきている。彼女の寝ていた台の横に並ぶようにもう一台あり、そちらは柔らかそうとまではいかなくともクッション性の素材でできている。その上に一人の人間が横たわっていた。性別はわからない。肌は木炭のように黒く、衣服は朽ちて風化しかけていて、ところどころから垣間見える身体は例外なく骨張っている。閉じられた瞼は眼窩の中に沈み込み、口は中途半端な形で開かれたまま動かない。
遺体の頭には機械が嵌めていた。今は機械と頭の間にすっかり隙間ができてしまっていたが、生前は円を描くその機械が側頭部をぐるりと囲っていたのだろう。機械は後方のコンソールにいくつもの配線で繋がっていた。
見覚えのない部屋だった。
彼女は台から足を下ろして立ち上がる。一瞬、背中側でなにかが引っ張られるような感覚があった。カコン、と台の上に音を立てて落ちたのはプラグだ。けれど、彼女は特段気にしない。隣の台に歩み寄る。遺体の胸元にラミネート加工された名札がついていた。ホワイトアッシュのボブヘアの女性だった。
「……R*SA=MARIE・GRADOLL?」
彼女は写真の横に記されている名前を読み上げる。ファーストネームは一部が欠けていて判別ができなかた。ラ……なんだろう? ラーサ?
彼女は次にコンソールに歩み寄った。埃を被った計器盤についているスイッチをいくつか押してみる。反応はない。
彼女は部屋を出る。廊下も先ほどいた部屋と似たり寄ったりの荒れ模様だった。暗闇に包まれ、天井は剥落し、壁に手をつけばボロボロと崩れ落ちる。いくつものミイラと化した遺体が廊下の至るところに倒れ伏していた。
骸の間を彼女は一歩一歩、地面を踏みしめるように進む。けれど、その歩みに躊躇いは一切なかった。ぽっかりと空いた虚な眼窩と一瞬だけ視線を合わせるが、すぐにまた歩みを再開した。
廊下は曲がり角や分岐もなく、緩やかなカーブを描いていた。どこまで進んでも窓ひとつなかった。いくつもの自動扉が道中にあった。固く閉ざされていたもの。半開きになったもの。扉が失われてしまったもの。さまざまだった。
開いている部屋を彼女は一つずつ覗いていった。最も多かったのはさまざまな機械や実験装置が置かれている研究施設のような部屋だった。多数の本が所蔵されている部屋もいくつかあった。
「あっ」
前を見つめていて足元が疎かになっていた彼女は、瓦礫に足を取られバランスを崩した。反射的に近くの自動扉に寄りかかる。それがいけなかった。石になったように固く閉ざされた自動扉は、彼女の重さを支えきれなかった。ガシャーン! とけたたましい音とともに壁から抜け、彼女とともに地面に倒れ込んだ。
少なくない衝撃が彼女の身体を襲う。幸い怪我はなかった。
扉が抜けた先は……用途不明の部屋だった。壁全面が鏡に覆われていた。
鏡に映るのは一人の少女。腰まで伸びる長い髪は銀糸のよう。丸くてはっきりとしたブルーグレーの瞳と小ぶりでツンとした鼻先。陶器のように色白な肌も相まって、まるで人形のような印象を与える。見覚えのある顔だった。髪の長さこそ違うが、紛れもなく名札に貼られていた写真の女性と同じ顔だ。
彼女はむくりと立ち上がると鏡に歩み寄る。鏡に映る姿がアップに変わった。顔を左右上下に振る。自身の動きに寸分の狂いもなく合わせて動く鏡像。四回、五回と様々なポーズをとってみた。ときには鏡面に手を伸ばしたりもした。指先同士が鏡面でぶつかるが、返ってくるのは冷たくて硬質な感触のみ。彼女は人差し指と親指をくっつけては放し、くっつけては放しを繰り返す。柔らかい感触を感じた。
これが、彼女が自分の姿を初めて認識した瞬間だった。
記憶がなかった。
暗い部屋で目覚める前のことはなにもわからない。記憶を手繰ろうとしても世界が途切れてしまったように、もうそれ以上先には進めないことだけがわかる。
ガゴーン。
遠くで硬質ななにかが倒れるような音が響いてきた。彼女は瞬時に後ろを振り返り、音が聞こえてきた方へ耳を澄ませる。もうなにも聞こえなかった。静寂があるのみだった。
音がした方へ進むと暗い廊下の先から一条の光が差していた。暗闇にすっかり慣れてしまっていた瞳には陽の光が強烈で彼女は目を眇めた。
光のなかへ足を進めようとして、足を止めた。それ以上先に道がなかった。廊下が削り取られたようになくなっていたのだ。
明るさに目が慣れてくると、次第に外の世界がはっきりと光の中から浮かび上がってくる。
彼女が立っているのは切り立った崖の中腹だった。岩盤の中から飛び出すように廊下が飛び出している。かつてはこの先にも廊下が続いていたのだろうと想像できた。しかし、今はもう違う。
眼下に広がるのは鬱蒼とどこまでも果てしなく続く樹海。
降りしきっていた雨はすでに止み、重く空を覆っていた雨雲は細切れになっていた。長い年月を感じさせる深緑色や生命力あふれる若葉色が重層的なコントラストを生み出している森を、雲の合間から差し込むオレンジ色の光が鮮やかな朱色で彩っていた。濡れた葉がキラキラと光を反射させて輝く様は、まさに森全体が宝石のようだった。
「っ」
白いパレットに一滴の赤い絵の具を垂らして色をつけるときのような興奮が全身を駆け巡り、彼女は小さく息を呑んだ。瞳を見開くと視界全てを覆う大パノラマがより鮮明になる。釘付けになって、目を逸らすこともできない。
今すぐに森の中に降り立って地面の感触を確かめてみたい。
今すぐ木々の間を駆け回ってみたい。
地平の彼方まで続く樹海の中をどこまでも巡ってみたい。
強烈なまでの情動が彼女の胸の中で暴れ回った。理由はわからない。
けれど本能が確信していた。
自分はそのためにこの世に生まれたのだ、と。
これが最初の記憶。
彼女――ラーサ=マリー・グラドールの物語はここから始まった。
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