第三十二話『ときは今あめが下知る……』
流れ始めた和やかな空気を
「――光秀様に忠告して下さった
正気の沙汰とは思えぬ彼の発言を、
「京都御馬揃えを御所望なされたのは陛下御本人ですぞ。大いに喜んでおられたではありませぬか。陛下の権威と信長様の財力は切っても切れぬ強固な関係……。伝統や規範を重んじ、物事を冷静かつ論理的に考え行動される聡明な陛下と殿下が、人を裏切るような事など有り得ませぬ」
左馬助が同意を求めるべく光秀に視線を
「陛下は人に誠実であられるがゆえ、相手にも等しく誠意を求められる。信長様にそれが欠けていたとしたら……。
実はな、陛下から信長様に譲位の意向が伝えられておったんじゃ。朝廷の衰退や資金難により古来より慣例であった譲位の費用が捻出できず、久しく譲位が行われぬまま天皇が
人の心の奥深くまで潜り込み推し量る
「陛下も流石に機を見ておられるでしょう。民の平穏な暮らしが第一なのですから。これまでも信長様の援助で、皇居の修理、神宮や朝儀の復興も行えた。二条新御所も
だが其れも虚しく、利三が一蹴。
「しかし、一度は受けておいて待ってくれというのは、誠意を欠いておると取られても仕方がないですぞ……」
幾ら談論を続けようとも見えてこぬ敵に、彼らの夜は深く深く更け渡る――。
◇
―本能寺の変、二ヶ月前―
光秀の寝顔を眺めながら、信長は
額に掛かる髪を指先で優しく直すと、光秀の眉がピクリと上がった。何事も無かったかのように
「この先何が起きようと、私を信じてくださりますか……」
「無論」
信長が間髪を入れず返した事で、光秀に纏わり付く迷いが消えた。
「実は、何者かの陰謀に巻き込まれたやも知れず……。私が謀反の存分を雑談したという噂。
「フッ――馬鹿げた話じゃ。気にしておるのか」
信長は
「噂だけなら良いのですが、万が一、信長様の御命が狙われてはと……。落ちぶれ瓦礫の身の上であった私を取り立て、あまつさえ莫大な軍勢をお預け下さった。信長様には返し尽くせぬ御恩がございます。
恐れながら、お聞き願いたき儀が――。是より暫くの間、黒幕を炙り出すため私と不仲を演じてはくれませぬか」
◇
時が来たりて、丹波亀山城に
「敵は、本能寺にあり!」
揚羽蝶紋があしらわれた
そして華やかな愛刀 “
何処からともなく現れた蝶の群れに囲まれ、力が抜けた信長の腕から刀が落ちる。そして蝶の壁の向こうに立つ
「
「父上――、私を……?」
「見紛う訳がない。その目は帰蝶に瓜二つじゃ。やはり鼻は
信長は瞳を潤ませ、一歩、また一歩と、忘れえぬ愛し子に歩み寄る。
「信じて頂けなかった時は、こちらをお見せしようと――」
「あぁ、この揚羽蝶紋には何度も助けられた。
礼を言う。――――。
「父上――。苦しみ、悶え、嘆き、
「
「はい、母上から……」
「帰蝶から――? 成る程、帰蝶の網は
言葉少なに信長は全てを悟った。
「母上に頼まれ、助けに参りました。此処も
「有り難き幸せじゃ……。しかし、
信長は顔つきを変え、刀を拾い上げる。しかし
「光秀様がお待ちです。『最後にもう一度、此の光秀を信じて下さいませ』と」
「光秀が……。ならば、是非に及ばず――」
“本能寺の変”には『黒幕』がいた――。
この作品は史実を基にしたフィクションであり、作者の妄想が多分に含まれます。何卒ご容赦頂けますと幸いです。
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