第三十一話『夢幻の蝶』
「実は……」と言い掛けた
「……
ただ……、その、護衛に付いておられるのは、――
「何!? 帰蝶様は、その事を御存知なのか……!?」
皆から責められる覚悟をも、様変わりした主君の声音が揺らす。
「それが……。帰蝶様がまだ岐阜城にお住まいの頃から、
安土城へ移られてすぐ、自ら正体を明かされたと……」
「六年も前から――!?
明らかに
「私が帰蝶様より聞かされたのも、つい最近のこと。先の戦の前――松姫殿を逃す折です。
信長様には伝えぬようにと口止めされておりましたが、光秀様へ伝えるなとは申されておりませぬ。しかし、報告すれば光秀様がお二人の間で苦しまれるのではと、迷い……。面目次第もございませぬ」
◇
帰蝶が初めて
涙雨の中、愛し子の姿を探したが、一目見ることすら叶わなかった。
紙の蝶に印されていた揚羽蝶紋は、帰蝶が
信長が帰蝶に初めて贈った“
姿は見せずとも、言葉は交わせずとも――。腕に抱く事など叶わずとも。生きて現れてくれただけで、帰蝶には十分だった。
折り紙の裏に『お腹いっぱい食べられていますか?』『風邪などひいてはおりませぬか?』としたため、紙風船を丁寧に
次に通り掛かった時、無くなっている事が嬉しかった。
誰かが片付けたのかもしれない。鳥が持って行ったのかもしれない。それでも彼を感じない日々とは、比べものにならない程の幸せ……。
或る夜。夜毎、夢に見た
小さな灯りで薬学書を読み耽っていた帰蝶は、青白く輝く蝶の大群に包まれる。
「怖がらないでください……帰蝶様」
背後で、凛と透き通る声――。
いつまでもいつまでも、耳に、脳裏に、焼き付けようと……幾重にも。
“怖くて震えているのではありませんよ”と発した涙声は、微かな羽音にさえ吸い込まれる。
“母上と呼んではくれませぬか、
今度は心で問いかけると、一斉に蝶が舞い上がり、戸の隙間という隙間に張り付いた。
「母上……」
夢幻の蝶から解き放たれた帰蝶は、智覚の自由を取り戻し、旋風の如く振り返る――。
謝罪、寂寞、愛念――二人を取り巻く全ての感情を、降り積もり続けた空白を。
未だ腕に残る赤子の温もりと同じ温かさが、彼女の身体へと返る。其処に乳呑み子の匂いはもう無く、信長と同じ雄々……。
逞しい胸に頬を寄せ、広い背中に腕を回す。
互いに、ただ抱擁の強さだけで、想いは――。
◇
光秀は何も言わず伝五の肩を掴み、優しく起こした。そしてしっかりと目を見つめ、受け入れたように大きく頷く。
「
伝五がすぐに許された事に納得がいかない
「隠し事をしておった私に非がありますが、共に浪人となる前から、長く付き合うてきた左馬助殿から疑われるとは……」
またも斉藤家の御家争いでどちらについたかや、
「そう言う左馬助殿も、茶を通じた
「何を言うか! そもそも利三殿が謀反の談合に参加したと言われておるのじゃぞ!」
「やめぬか! 仲違いは思う壺やも知れぬ……!」
有ろう事か光秀に仲裁させてしまい、彼らは身を縮ませた。
思い思いに黙り込み、息が詰まるほど険悪になった空気を打破するべく、仕方なく左馬助が口火を切る。
「茶道といえば……
突然投げ掛けられた際どい問いに、光秀は渋面を作り唸る。
「ん……どうであろう。
決して器用ではなく一度に多くをやれば力尽き、自身を責め立てる弱さはあるのう。
感情に惑わされずに厳正な判断を下す所は、怖いと言えば怖いが……」
「彼に危険因子があるとすれば、隣国で
利三が眉を
思わぬ加勢に調子づいた利三は、「元明殿が伯父の義昭様を頼った可能性は大いにありますな。切れ者の
「流石に義父であられる光秀様を
伝五は光秀を気遣うが、左馬助は乗っかる。
「父や子といえ、何が起こるかは分かりませぬ……。信忠様に限っては、忠誠心の塊ですがなぁ」
光秀は伝五に“大丈夫じゃ”というような眼差しを向け、
「うむ。松姫殿の事で少し言い合いになったとは聞いたが……。先の戦では、我々信長様の本隊が武田領に入る前に勝頼を自害に追い込み、武田氏を滅亡させた信忠様の戦功を、信長様は『天下人の器』と褒め称えられた。信忠様の
「“絶対は、絶対にない”のではありませぬか?」と左馬助が
“本能寺の変”には『黒幕』がいた――。
この作品は史実を基にしたフィクションであり、作者の妄想が多分に含まれます。何卒ご容赦頂けますと幸いです。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます