第五話『墨染の君』

 吉乃きつのは産後の肥立ちが悪く、若くして帰らぬ人となった。

そして信長から発せられた願いに、帰蝶きちょうは耳を疑う。

「帰蝶、遺された三人の子の、母となってはくれぬか」……と。


何故なにゆえ私が――。何故なにゆえ私が吉乃の子の? 鳳蝶あげはをこの腕に抱けぬ私が……」


「すまぬが、もう……、 鳳蝶あげはは星になったと思っ――」


 ――!!

帰蝶の腕がくうを舞い、信長の左頬を強く平手打つ。

唖然とする夫を、燃やし尽くすほど血に焼けた目で見据え、彼女は庭で遊ぶ子供達のもとへと走った。


 迷い無く、鳳蝶あげはと同じ年頃の信忠を胸に抱き、珍しく声を上げ泣き喚く。

信雄と徳姫も帰蝶に寄り添い、子を失くした母と、母を亡くした子らの、いびつ母子おやこが輪を成した。


 人に弱みを見せられぬ信長の、胸中を知る者は誰もいない――。

桶狭間おけはざま(名古屋)戦いに於いて、今川軍 二万五千に対し五千という圧倒的兵力差でありながらも見事に勝利し、尾張おわり(愛知西部)平定した信長は、お陰で三河みかわ(愛知東部)取り戻す事に成功した家康いえやすと清洲同盟を結んだ。


 しかし、東からの侵攻を回避できるようになり勢力拡大に躍り出た事で、かえって敵は増えた実状。

彼の心は四面楚歌が響き渡る真中に置かれ、鳳蝶あげはを人質に取られる事を、今尚酷く恐れている……。


 初めて愛息を胸に抱いた時、“この子を脅しの道具にされれば、全てを投げ打ってしまうだろう”と感じたのだ。――だから手放した。

情けなく、帰蝶へ素直に打ち明ける事などできなかったが、左頬に震える手を当て、柱の陰でうずくまり嗚咽を漏らした。


 ◇


 奥御殿に戻った帰蝶は、縁側に座る信長の背中に違和感を覚える。れど繊細な者の心の機微に疎く、うっかり傷つける発言をしてしまう彼女は、果然構う事なく尻を叩いた。


「信長様、父上は貴方に惚れ込み、稲葉山いなばやま(岐阜)義龍よしたつではなく“信長に”と仰ったのです。それなのに……。どうか、私の生まれ育った城を、父と母との大切な思い出の城を取り返して下さい……! すれば子を育てる事に専心できましょう!」


 彼女が焚き付ける熱で、押し寄せる葛藤の波と闘っている事ぐらい、信長には易々と理解できた。とは言え既に幾度も撤退を余儀なくされているのだ。

それでも「待っておれ。必ずや其方そなたの為、己の為、斉藤に打ち勝つ!」と、頭とは裏腹に心が力強く宣言した。


 何とか願いを叶えてやりたいと尽力を続け、家臣 秀吉ひでよしの功労もあり稲葉山いなばやま城はついに落城――。

とうとう斎藤家は滅亡し、信長は美濃みのを掌握した。


 帰蝶きちょうは“岐阜城”と名を改め贈られた古巣で、様々な思いは交錯すれど、吉乃きつのが残した子供達を大切に養い育てるのだった。


 ◇


 ところが、帰蝶が母親代わりとなり過ごす日々も、僅か数年で変化のときを迎える――。

まだ幼い徳姫が、同盟を結んだ家康の嫡男ちゃくなんのもとへ嫁ぎ、信雄も伊勢いせとの(三重)和睦わぼくの為に北畠きたばたけ家の養嗣子ようししとなったのだ。


「女、子供はいつも、男のまつりごとの道具……」


 北近江きたおうみ 浅井家への(滋賀北部)輿入こしいれが(嫁入り)控えている信長の妹 おいちと、仲良く池の鯉を眺めながら帰蝶がぽろりと嘆く。

二人のどちらも、声を掛けそびれた信長が立ち去っていく事に気付かなかった――。


 信長との結婚前、帰蝶には政略結婚の末、死別した夫がいた。彼の死は明らかに不自然で、帰蝶と父 道三どうさんの間に遺恨が残った。彼女はそんな過去を思い浮かべこぼしたのだが、信長は責められていると感じ自戒に徹する。妹や子の事だけではない――自分との結婚自体、彼女は悔やんでいるのだろうと、落胆する程に……。


 ◇


 一方、花菖蒲が彩り優雅な紫に染まる京では。

政治手腕と武勇に優れた誉れ高き将軍 足利 義輝あしかが よしてるが、殺害される事件が起きていた――。




✴︎次回、第二章『桔梗咲く道』に入ります。





“本能寺の変”には『黒幕』がいた――。

この作品は史実を基にしたフィクションであり、作者の妄想が多分に含まれます。何卒ご容赦頂けますと幸いです。

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