第三話『隠密の子』

帰蝶きちょう様、そのお加減はいかがですか」

家臣の伝五でんごと共に訪ねてきた光秀は、帰蝶の前に土産の干し柿や蒸かし芋を並べ、ふっくら丸々とした赤ん坊と彼女を交互に、優しい眼差しで見遣みやった。


「ええ、まずまずです」


「あれから信長様は――」


「それはもう大層お喜びで。『鼻はわしに似ておるの、目は帰蝶かの』と、いつまでも腕に抱いておいででした。『吾子あことはこれ程可愛いものか』と目を細められ。『名は鳳蝶あげはじゃ』と。私は『それではあまりに女子おなごの名では』と申しましたが、あの気性ですから」

帰蝶は満更でもない表情で軽口を叩く。


左様さようでしたか。信長様が木瓜紋もっこうもんではなく揚羽蝶紋をよくお使いになるのは、“戦場いくさばでも帰蝶様を近くに感じていたいとお思いだからだ”と噂する者もおります。これからはお二人をと、名付けられたのでしょう」


 咄嗟にも洒落た事を言う光秀に、帰蝶は懐疑的だ。

「そうでしょうか。結局その日もまた私は、つまらぬ事をこぼしてしまい……。『目に入れても痛くない』と仰られるので、つい。『ならば、信長様の目の中に入れ、鳳蝶あげはを私のそばにずっと置いてくださればよいのに』と」


「……」

 

 父 道三どうさんを討った帰蝶の兄 義龍よしたつは、生前父に認められた信長をうらやんでいた。

膨らみ続ける嫉妬と憎悪が執着へと変わり、信長の弟 信勝をそそのかしては収まりかけた叛意はんいを増幅させる――。

信勝と義龍が“信長の嫡男ちゃくなん誕生”を知れば、共謀し鳳蝶あげはを狙うだろう。


 って鳳蝶あげは甲賀こうか(滋賀南端)惣国そうこくへ、伝五でんごと共に預けられる事となっていた。

守る為とは言え、生まれて数ヶ月の赤子あかごを手離さなくてはならない母の心を、芯まで理解する事など出来はしない光秀と伝五は、何と返せば良いのか思案に暮れる。


「ふふ。弁が立つ光秀でも、何も申せませぬか……。信長も同じように押し黙っておりました」


「これは参ったな」と光秀が後頭部に手をやると、透かさず伝五が鳳蝶あげはを抱き上げる。


「帰蝶様、鳳蝶あげは様はの伝五が、大切にお守り致します」


「宜しく頼みますよ、伝五。光秀も何から何まで世話になり、有り難く存じます」

帰蝶は畳に頭を付け、泣き顔を見せぬよう唇を噛んだ。


「帰蝶様、そのような――。浪人となった私達が今こうしていられるのも、越前で暮らす手筈を整えて下さった貴女様のお力添えがあったからこそ。お父上の御命おいのちを護れなかったこんな石ころに……。

我々はただ、帰蝶様の御役に立ちたいのです」


 鳳蝶あげはが伝五の腕の中で泣き声を上げ、帰蝶はひっそりと着物の袖で涙をぬぐう。精一杯の笑顔を作ってから頭を上げ、最後にもう一度鳳蝶あげはを抱いた。


 そして彼は、世に知られる事の無い“隠秘の子”となったのである――。






“本能寺の変”には『黒幕』がいた――。

この作品は史実を基にしたフィクションであり、作者の妄想が多分に含まれます。何卒ご容赦頂けますと幸いです。

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