第四章 - Ⅲ

「秋とはいえ、やはり夜は冷えるな。加えて、どこか空気が張り詰めている。タカト、クレイン、用心しろ」

 深紅の長いマフラーを纏ったホノカの先導により、僕たちは夜の帳が降りきった街を歩く。

「ヒドゥンの気配……ではないけれど、私も感じるわ。もしかしたら、あの灰色女かも」

「コルネイユ先生が我々のことを追っている可能性もある。彼女がどれほどの実力者かは分からないが、あまり舐めて掛かっていいような相手ではなさそうだな」

 僕のことを何の躊躇もなく「殺す」と豪語する辺り、人間ひとりくらいであればあっさりと始末ができるほどの技量は持っていると想像できる。無論、僕に対しての脅しの可能性も否定はできないが。

「でも所詮は研究者でしょう? 私たちと違って戦闘訓練を受けているわけでもないはず。大丈夫よ、私たちはあのディカリアの連中と戦ったんだから。私にとってはあの灰色女の方が気掛かりだわ」

 コルネイユ先生と灰色の髪の執行兵。僕がササコ先輩に語った仮説を、彼女は信じて考察してくれているだろうか。仮にふたりを相手取るとしたら、先輩もいてくれた方が心強い。しかし、彼女には彼女の立場や任務がある。その詳細についてはまた後日、聞ければ問題はないだろう。

 クレインの言葉を受けて小さく頷いたホノカ。事実、クレインとホノカはディカリア……彼女たちの先代にあたる強力な執行兵たちを撃破している。実力で言えば申し分はないはずだ。だが、どことなくホノカは浮かない表情を覗かせる。僕は思わずホノカに声を掛けていた。

「ホノカ、どうしたの?」 

「あ、いや……タカトは妙だと思わないか? ディカリアの面々が倒れ、それに呼応していたヒドゥンによる人間界への侵攻も多少は収まった。最近はヒドゥンの個体数も確実に減少している状況だ。我々の世界の上層部がこのことを把握できているかどうかは分からないが、もし仮に把握できていたとしたら追加の執行兵を向かわせる必要はないはずだ。それなのに、君とクレインは例の執行兵と出会った」

 ホノカの考察は興味深いものだった。思えば僕は、彼女たち執行兵を統括している存在がどういう組織なのか全く知らない。もちろん、ゲートを通って彼女たちの世界に行かない限り今後出会うことはないだろう。けれど、上層部の意図を知っておければ件の執行兵の存在も理由が立つかもしれない。

「それは、その「上層部」がこっちのヒドゥンの事情を把握してないからじゃないかな?」

「確かに最もらしい理由だが……我々の世界にもヒドゥンは出現する。そのための防衛勢力も必要なはずだ。上層部がその調整を怠っているとは思えない」

「そうね、そこはホノカに同意。あの「教官殿」たちが何も考えていないはずはないわ」

 クレインが呟いた「教官殿」という単語が少しだけ引っ掛かったが、彼女たちの言う「上層部」がそのまま彼女たちを導いた「教官」なのだろうか。彼女たちの世界の謎は解明するどころか深まるばかりだ。

「ああ。つまり、灰色の執行兵の派遣に上層部が絡んでいない可能性もあると私は考えている。その場合、導き出される結論は――」

 ごくりと唾を飲み込む。つい先程の会話。僕とササコ先輩が導いた、灰色の執行兵とコルネイユ先生の因果関係。ホノカがその答えに自力で辿り着いたかは分からない。彼女が口を開く前に、不自然なほど不気味で冷たい風が、頬を掠めたからだ。

「お喋りはここまでみたいね、ホノカ」

 クレインが臨戦態勢を取ると、闇の向こうから人影が姿を現す。ブーツの底が固いアスファルトを叩く音。あのときと全く同じ格好をした灰色の執行兵が、そこにいた。右手には当然のように、鈍い輝きを放ち続けている黒いナイフが。左手には恐らく、クレインを翻弄したあの鎖が隠れているはずだ。

 その瞳は真っ直ぐに、クレインとホノカを見据えていた。

「なるほど、対峙するだけでこうも背筋が震えるとはな。ヒドゥンより手ごわい相手だと直感できる……だが、容赦はしない。行くぞ、サトラっ!」

 ホノカは相手との距離を確認するように摺り足気味に進みながら、刹那、ネックレスを外した。彼女の瞳と同じ、燃えるような赤いネックレスは、一瞬にして一振りの刀へと変貌を遂げる。艶めかしいほどの銀色。少し触れただけで指が持っていかれそうなほどの鋭さを見せるサトラを前にしても、灰色の少女は一向に動きを見せない。ただ、少し背の高い雑草でも見るかのように、刃を見つめる。

 そして何らかの確信を得たのか、その口が動いた。

「敵対勢力は排除します」

 気迫も、感情も、何も伴わないような声。次の瞬間、灰色の少女によって鋭く地面が蹴られる。ホノカとの距離を一気に詰めた少女のナイフが、ホノカの胸へと吸い込まれそうになる。

 しかし。それは傍らのクレインが許さない。すかさずファロトを展開すると同時に、少女の突進を受け止めた。金属音が夜空につんざくと共に、クレインが声を上げる。

「ホノカ、油断しないでッ!」

「っ、ああ……!」

 灰色の少女の素早さを目で追えず、危うく出鼻を挫かれる寸前だったホノカ。クレインの一言ですぐにサトラを構え直した。

「らしくないわね、あなたが反応できないなんて」

「そうだな……少し気を抜けば殺されてしまいそうだ」

 ホノカが武器を向けるとほとんど同時に、バックステップを駆使して素早く距離を取る灰色の少女。そのまま両者の睨み合いが続く中、先に動いたのは少女の方だった。駆け出した足を止めることなくホノカへ肉薄する少女。逆手に持ったナイフを一閃し、ホノカのサトラと交わると同時に激しい火花が散る。

「く、早い……!」

 懐に入られてしまうと、ナイフより刀身の長いサトラは不利だ。至近距離で刃を振るえず、防戦一方になるホノカ。何か策は、と緊張しながら見守る僕。少女のナイフは、的確にホノカの心臓を狙っている。

「よほど私のことを殺したいようだな、君は。だが、私もタダでたられるわけにはいかないのでな」

話は通じていない様子だったが、少女の動きは見切れてしまえば対処は容易そうだ。まして百戦錬磨のホノカならば、単純な攻撃はすぐに打開策を思いつくはず。何度目かの攻防の末、遂にそのときが訪れた。ナイフの刃が心臓に届かんとする刹那、ホノカは身体を捻ってナイフの切っ先だけを躱す。その勢いを殺さないまま、肩で少女へぶつかった。

 当然、ホノカもノーダメージとはいかない。切っ先が届かなかったとはいえ、少女のナイフがホノカを掠め、制服を破り若干の血が舞う。それでも、少女の体勢を崩せたのは大きい。痛みで片目を瞑りながらもホノカは叫んだ。

「クレイン、今だッ!」

「ええ――っ、やぁッ!」

 ホノカが身体を張って作った隙。クレインは僅かに首を傾け、身動きの取れない少女へと武器を振るう。槍ではなく、盾。衝突の衝撃でクレインの攻撃を回避することもできない少女は、大きく目を見開いた。

 そして。

「ッ、が、っ……は――」

 重い盾の殴打を背中に受け、いよいよ直立できなくなった灰色の少女。ダメージは決して軽くない様子だ。ふらりと身体がよろけ、両膝を突いて崩れ落ちる。サトラを元のネックレスへと戻すホノカ。制服には未だに血が滲んだままだ。

「ホノカ、怪我は……」

「問題ない。この程度ならすぐに塞がる。それよりも彼女だ。クレイン、どうする?」

「そうね、とにかくこのまま放置するわけにはいかないわ。一旦家に連れ帰って、様子を見ましょう。訊き出したいこともあるし」

 クレインの提案に頷くホノカ。僕も同感だった。僕たちを二度襲った灰色の少女。彼女が自分の口から正体を明かすことはないかもしれないが、このまま放置するわけにもいかない。

「タカト、手伝ってくれる?」

 ホノカは怪我をしているため、少女の身体をクレインが背負うことに決まる。少女を持ち上げるために僕も手を貸した。クレインの重い一撃で完全に気絶をしている。時折息はしているが、起きる様子はない。制服である黒の軍服は、滑らかな手触りを伝えてくる。小さな肩と、細い腕。少女が苦しそうに頭を振ると、微かの彼女のサイドテールが揺れた。

 そのまま少女の身をクレインに委ねればそれで終わり。気を抜いていた僕の耳朶に、まるで囁きのような声が届く。


「――まさかこんなに早く、敵として君たちと相まみえることになるとはね」

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