第七章 哆開
1
「逐一言っておくが、今週は平野寺が事前申請によるお休みの日が多いので、よろしく頼む!」
朝のホームルーム。
真自さんが休むのはこれで二日目。
週が明けてからというものの、一回も学校に顔を出していない。
「真自は今日もおらんのか」
「ええ、そうみたいね…」
ノボルくんの問いかけに、私は空返事で返す。
「ふ~ん…」
「…えっ」
思わず横を向く。
ノボルくんも同様に、まるでどこか違うところに気を取られているかのような返答だった。
「ノボルくん…」
「ん?」
「あ、いや…なんでもないの」
「そか。…あ、ほら結子、一限世界史だぞ。お前教室移動しなくていいのか?」
「あ、ああそういえばそうだった…じゃ、またあとでね」
私は教科書と筆記用具を持つと、足早に教室を出る。
…何かあったのかな…
ただでさえ濃霧の中にいる私の心の中で、更に湿度の違う霧が発生しているような気がした。
*
「「…怪しい」」
「おわっ! イキナリ生えてくるな!」
俺の背後から寛映とキョウジがニョキっと現れた。
「おかしいとは思わんのか、ノボルは」
「何が」
「何がって坂屋おめえ…結子の態度だよ」
「態度?」
二人に囲まれながら俺は聞き返す。
歴史の授業は選択制の為、俺らを含む三人は、大概いつも近くに座っている(というか俺に詰め寄ってくると言った方が正しい)。
「真自が居なくなってからずっと魂が抜けたような、明後日の方向向いてるじゃねえかよあの女は」
借りている結子の机を掌で叩きながら寛映は言った。
確かに、先週までのいつもの彼女とは明らかに違う様子である。
「まあノボルもぎこちない感じだけどな~」
「仕方ないだろ!」
俺は反論する。
日曜日以降、俺たちは結子に見つからないように、隠れながら新しいストラップを作ることを決定したのだ。
「はたから見てると、おめえあの女と喋る時だけロボットみたいになってきてるぜ」
そう言いながら、寛映は俺の頬を横から指で押してきた。
「やっぱ…結婚の事なんじゃねえか?」
ドキッ。
「実際俺もそう思うんだよな~ノボル」
「そ、そんなのわからんだろ!」
「い~やどうかな。もうプロポーズされてたりして」
プップロ…
「そうそう。プ・ロ・ポ・~・ズ」
寛恵が珍しく女の色香を漂わせる声を出してきた。
「じゃかあしい! ヒロエが女みたいな甘い声で囁くな…いてっ!」
「俺は男じゃねぇ!」
悪戯に囁いていたその口で、そのまま噛みつかれた。
「あ~あ歯形ついた」
「キスマークみたいになっちまったなあ…ね~キョウちゃん?」
「ね~! ワッハッハ!」
明らかに俺をからかいに来ている。
「こういう時だけ旧友の空気出すなよな!」
「まあ、実際俺ら旧友だしな」
いつか痛い目見せてやる…
そんなことをしていると、日本史の先生ではなく、俺らの担任の先生がやってきた。
ザワザワしていた教室が静まり返る。
「え~、今日は日本史の先生がお休みなので…日本史組は自習だ! たまに俺が見に来るからな!」
そう言いながら黒板に大きく「自習」の文字を書いた後、先生は出て行った。
「なんでい…珍しいな」
「自習になった事だし…ノボル、持ってきてるか?」
「持ってきてるかって…あ、あれ?」
「そう、アレ」
俺はゴソゴソと鞄からあるものを取り出した。
スケッチブックである。
「急に四十分強も時間が出来たんだ、この時間を使わない手はないぜ」
「ナイスアイデアだキョウジ」
指を鳴らし、ニカッと笑いながらキョウジに言った。その時である。
「何がナイスアイデアか…こっちに来て先生にも聞かせてもらおうか…三人とも」
今日は背後から生えてくる人間が多い。
2
「な、ナニィ!? 平野寺クンと鹿児島クンが結婚予定!?」
「あれ、先生知らなかったのかよ」
「寧ろ知ってたのかお前らは!」
「知ってるも何も、俺らの家には招待状が来てたぜ」
そう言って寛映は自分のポケットからくしゃくしゃの招待状を取り出した。
自習の最中に勉強以外の事をしていたのがバレた俺たちは、歴史の授業の関係で空室になっているキョウジのクラスに呼び出しをくらっていた。
「どれどれ…『平野寺家の跡継ぎでもあります、真自におかれましては、平野寺家古来のしきたりに従い、十月二十六日に結婚式を行う予定であります。』…もしかして、これの為に休んでるのか?」
「恐らく」
「平野寺家の決まりならそうと言ってくれればよかったのに…」
先生は呆れた顔で言う。
「しかし…なんでこの結婚式と鹿児島くんが絡んでくるんだ? そもそも鹿児島君の方はまだギリギリ結婚できる年齢じゃないだろう」
「それもそうなんだけどよ…事情が事情なんだ」
黙ってしまう俺の代弁をするかのように、寛映が答える。
「その事情って何なんだ?」
「話すと長くなるが、良いか?先生」
「も、勿論だ! 納得できる理由じゃないと法律的にもダメだしな…」
その後、今までの経緯を三人(主に寛映とキョウジだが)で話をした。
元々結子は俺の事が好きだった事。
俺に目を付けた真自が結子を奪うと宣言した事。
そして、今週に入ってから、結子の様子がおかしい事。
…そして何より俺が不甲斐ない事もちゃっかり二人にバラされた。
「…というわけだ、先生」
「まさか俺のクラスでそんな歪なことが起こっていたとは…しかも坂屋がこんなにもドジボーイなのも問題だ…」
そう言われてしまっては返す言葉もない。
「しかし、青春を謳歌している真っ最中のキミたちに何か一人の人間として手助けしてやりたい…そうだ!」
何かを閃いた様子で先生はこちらを見て来た。
「自宅訪問だ!」
「職権乱用じゃねえのか」
「詳細不明の事前申請で二日も連続で休んでたという理由があれば十分正当できるのだ、天堂くん」
そう言って自分の胸をポンと叩きながら先生は答えた。
「…そういやそろそろ一限おわるんじゃないすか、先生」
キョウジの言葉で時計を見る。
九時四十五分。終了ジャストタイミングだった。
3
「昨日の子はどうやら真自に合わなかったみたいだね…」
「ええ、まあ」
…僕が合わないように話しているんだ。
「じゃあ、今日は正午過ぎから次のお見合いの相手が来るからね、準備して置いて頂戴」
「…わかりました」
週が明けて火曜日。十月二十一日朝、平野寺と廊下で地続きの自宅にある自分の部屋に僕は居た。
日曜日から連続で父が選んだお見合い相手との顔合わせをしている。
その度に、以前から高校で女子生徒を傷つけないようにあしらう話術で何とか切り抜けた。
「まさかここで役に立ってしまうとは…」
過去に一度、坂屋に『浮いた歯が一人旅をしている』という評価をされた話し方だが、それでも役に立つときはあるのだ。
「今日でラスト…えっと、確かこの人は…」
僕は以前父が資料として纏めてくれた、お見合い相手の資料を見返す。
「常盤さくら…十八歳…」
常盤さくら(トキワ サクラ)
生年月日:2007年4月23日
年齢:十八歳
趣味:芸術
備考:親が離婚(母方についた)しており、その時の名前は『桜木さくら』。武道に精通する桜木家の血を引く。名前の由来は「サクラサク」という言葉を連想させる為にこの名前を付けたのだとか。
「趣味『芸術』ねぇ…」
僕は眉間に皺を寄せる。趣味の欄にしては範囲が広すぎる。
資料とともに添えられた写真を見る。
桜の刺繍の入った黒い着物を着た、お淑やかなイメージを持つ女性だ。かと言って武道家の気を見せているかと言うと全くその様子はなく…優しく落ち着いた性格である事が表情から伝わって来た。
「…断ろう」
良い女性とは思うが、やはり今の僕の心は一人にしか向いていない。
「相手が着物なら、誠意として袴を着るべきだな…」
少しでも無礼の無いよう、相手に合った服装を選ぶ。意外とコレが大事だったりするのだ。
「真自! そろそろ来るぞ〜」
「はい! 今そちらに向かいます!」
断るために正装をするのは何だか変な気持ちになる。
*
「せ、先生! どうして此処に…」
「いや、この子に道を聞かれてしまってな! 気付いたら此処ってわけだ!」
全く予想外の出来事が起きた。
平野寺正門。そこには僕の担任の先生があろう事か常盤さんと一緒にいたのだ。
「このお方、お優しい方でした」
「そ、そうですかな…ハハハ」
「いい歳して何調子乗ってるんだか…」
ため息をつきながら僕は先生に言う。
早いところ決着をつけよう。
先生にお礼を言っている常盤さんに見えるように手招きの動作を取る。
彼方も気付いたようで、一瞬ハッとした表情になり、此方へ歩みを進めた。
…のは良いのだが。
「どうして先生までついてくるんですか!」
「べべべ、別にいいだろ! 玄関まで見送るぐらい!」
久々の『時代ツッコミ』が炸裂してしまった。
「あら…このお方も真自様に御用があるって訊きましたけれども…」
常盤さんがそう言った。
「先程道で迷子になった時、お話しされてましたわ。『私も真自に用がある』って」
彼女の顔からして嘘では無いだろう。
「どーゆことです」
僕は小さな声で先生に訊ねる。
「どーもこーも、お前の結婚式の話だ! 他のクラスメイトにはハガキ寄越しやがって俺には何もくれないで!」
割と大きめな声で先生が反論する。
「バカ! 声が大きいですよ!」
「先生にバカとは!」
ムードもへったくれもない空間になりつつある。その時である。
「あの…」
常盤さんの声だ。
「早速…何ですが…その…あの…」
頬を赤らめ伏し目がちに、照れながら声をかけて来た。
「そういえばこの女性、なんか用があって来たのか」
どうやら先生は事情を知らないらしい。
「いやぁ、何と言うか…ハハハ」
僕は言葉選びに困った。
なんせ今からお見合いする相手…しかもコレから僕が断る予定の女性であるなんて言えそうにもない。
「まあ先に俺の話を進めさせてもらう! 結婚式の事でお前と親父さんに話をするからな!」
「…へっ!?」
何もかもが訳のわからない方向に転がっている。
「早くこっちへ来い!」
「こっちへ来いって、ここは僕の家なんですよ!」
ズカズカと本堂方向に向かって進み続ける先生を僕は慌てて追った。
「あの方…!私の事を察してくださって…今回のお話、行けるかもしれないわ…!」
何を言っているかは聴こえなかったが、小さくガッツポーズをした常盤さんをこの目で見ていた事を僕は忘れないだろう。
4
「お、真自。連れて来てくれたか」
「ええ、只今…」
常盤さんを迎え、応接間に連れて来るだけなのに、一時間かかった。
「…ん?そのおじさんは…?」
父が指を刺したのは他でもない、僕の先生だった。
「ど、どうも! ワタクシ真自君のクラスの担任をしている者です!」
「あら、こりゃどーもどーも! 息子がいつもお世話になっております」
ごく一般的かつ模範的な挨拶の会話が聞こえている。
「一昨日から真自君が休んでおりましたので、少しお話をお伺いさせて頂きたく…」
「あれ、真自伝えなかったのかい」
伝える訳なかろう。クラスメイトの女子が大騒ぎする。
「あら、そうだったのですね…生憎これから真自は予定がありまして…あ、そうだ!」
父がポンと手を叩く。
「もし良ければ一緒に見ていて頂けますかな?」
「なっ…!」
思わず声を出してしまう。
「見るって…何をですか」
「真自と隣にいる彼女のお見合いを…」
*
「私はてっきり鹿児島くんと結婚式を挙げるのかと…」
「カゴシマ…あ、もしかして真自が連れてきていた人か」
僕と常盤さんが移動している間、廊下の方で方では何やら微妙な勘違いの渋滞が起きていた。
「そうなんですよ! 真自君と鹿児島君が不自然な行動をとってると他の生徒から聞いていたもんでてっきり…」
「なるほど…やはり本当に好きな人がいたのですねぇ…」
悪い顔をする時の父の声色が聞こえる。
「…あの…真自様…その…」
「ご、ごめんなさいね…!廊下の方がうるさくて…」
あのバカ教師にバカ親…
彼らの声は扉を挟んでさらに廊下を突き進む先にある応接間の方にまで声が聞こえていた。
「私…帰った方が良いでしょうか…?」
…ハッ。
ふと声の方を見る。緊張からなのか、はたまた今の会話内容を聞いてなのかは分からないが、彼女は泣きそうであった。
「い、いや…全然そんな事ないですよ! まだ来たばかりじゃないですか!」
「そ、そうですよね…」
…地獄だ。
「しかし、真自のやつもコレで決めてくれると思うんですよね」
「と、言いますと…?」
またしても廊下から声が聞こえる。
「真自のやつ、『好きな人がいるからお見合いは全部断る!』って言っていたもんだから、ある条件を出してたんです」
「条件…」
「はい。二週間以内に意中の女性を説得できればその人に決定するという…」
「…なるほどそれで鹿児島君と変な動きがあった訳だな」
ここで、更に悲しそうな目で僕を見て来る常盤さんに気付いた。
そりゃあ、せっかく申し出をし、やっとの思いでお見合い相手の家で聞く初の会話がコレでは泣かない方がおかしい。
不幸中の幸いだ。破談になるだろう…。
「…でもこの前その…鹿児島さん?が来ていた時のことを女房に聞いたら、順調そうには見えなかったって…」
「ほ、本当ですか!? 良かった…まだ鹿児島君は十七なんです。そもそも結婚ができないので、担任として安堵しております…」
あの男ども…僕の彫刻刀で一閃してやろうか…
そう考えていた時。
「今のお話…本当ですか…?」
先ほどとは声色が明らかに違う常盤さんの声が、僕に投げかけられる。
僕はそちらに顔を向ける。
ポッと顔が赤くなっている彼女がいた。
「そんな…好きな人がいたのにも関わらず…私なんかのために態々…」
「あ、アハハハ…」
そう言うと、畳にちょこんと座っていた常盤さんは立ち上がり僕に近づいて来た。
「…私、嬉しいです…」
そう言いながら、常盤さんは僕を抱きしめた。
「と、常盤さん…ちょっと…」
僕は止めようとする。
「…不束者ですが…」
先ほどとは違う涙をホロリと流し、笑顔でそう言う彼女を振り解くには、僕のキャパシティでは不可能であった。
その直後である。
「ほら先生、あれ見てくださいよ!」
「平野寺君…キミ…」
運悪くこのタイミングでこの二人も此方へ来てしまった。
僕の世界の秒針が進み、分針が五十九分を指した。
5
水曜日午後。帰りのショートホームルーム終わりの出来事だった。
「鹿児島君、ちょっと…」
皆が帰る中、私は先生に呼ばれた。
「平野寺君の事で話がある。全員が教室から出て行った後に話す…」
「は、はい。わかりました」
真自さんの件って、もしかして…
皆が教室から出ていくのを見ながら私は考えていた。
もしかしたら結婚の事が既に先生の耳に入っているのだろうか。
「…あれ、結子帰らないのか?」
「あ、ノボルくんちょっと先生がお話したい事があるって…」
「…そう。ならしゃないな」
一瞬ノボルくんの動きが止まった気がするんだが、気のせいだろうか。
「帰るわ。先生もさよなら」
「気をつけて帰れよ」
「わかってますって」
一度気になり始めると、何もかも不自然に見えてくる。
これまでの先生とノボルくんの関係であれば、
『結子にモーションかけてるのか?』
『そんなことしたら俺が首切られるわ!』
…みたいな、漫画やアニメのような掛け合いをするような状況だった。
けど、今の二人は妙に仰々しいというか。気にし過ぎだろうか。
「先生、話って何でしょうか…?」
「あ、ああそうだな」
丁度私の左隣の席に腰を掛けながら先生が話し出す。
「実は先生、昨日の正午前から半休を取って平野寺家に様子を見に行ったんだ」
…やっぱり。
「…結婚の事ですか…?」
先生は縦に首を振る。
「…なんて言ってました…?」
「それが…なんというか、先生が様子を見に行った時、丁度お見合いをする直前だったみたいでな」
「えっ…」
私は少し戸惑う。
「先生は『鹿児島君との結婚をする約束をしたのではないか』と言う噂しか他の生徒から聞いてなかったから…」
「それ…詳しく聞かせてください…」
先生が言い終わる前に食い気味で投げかけた。
「あ、ああ。勿論。先生もそれを話すべく声をかけたんだし」
そう言うと、先生は持っていたファイルから一枚の用紙を取り出した。
その用紙には、一人の女性のプロフィールなどが記載されていた。
「常盤さくら…この方こそが、平野寺君とお見合いをしていた女性だ」
その写真に写る彼女は美しく、しかし儚さも感じられる…そんな印象を受ける女性であった。
「綺麗…」
つい見惚れてしまった。
「あ、ありがとうございます」
そう言いながら、資料を先生に返した。
「それで…彼女と真自くんは、どういう様子でした…?」
女の性という奴だろう。なんとなく聞きたくなってしまった。
「先生が見る限りじゃあ…平野寺君…いや真自も受け入れていた様子だったし、多分あそこでくっつくと思うぞ」
そうだったんだ。
結局私は彼の気持ちに十分に応えられないまま終わってしまった。
…せめて謝罪と挨拶にだけでも行こう。
「…常盤さんって方、真自君に似合ってました…?」
そういえば常盤さんってどんな人なんだろう。
「ああ、彼女か…彼女なら」
先生がそこまで言いかけた時であった。
「忘れ物忘れ物…」
「真自と結婚しても問題ないとおもうぞ」
「えっ…」
一瞬にして鉛色のような空気感に浸食されていくのがわかった。
「…先生!」
「な、坂屋…! 帰ったんじゃ…」
私は声を出せない。
出してしまうと、何か恐ろしい事が起きそうで。
「いや…忘れ物を取りに来ただけですよ先生! ハハハ…」
私はあの顔を知っている。
夏休み明けすぐ。
この教室で。
あの黒いカーテンがかかる、展示作品が彼を囲んで見ている密室の中で。
…彼はあの時と同じ笑い方をしていた。
「じ、じゃあ…お邪魔しました!」
「あっ、おい坂屋! これには事情が…」
先生が声をかけるも虚しく、足早に駆ける音が聞こえる。
「あ…」
ふと私はある事に気付いた。
今ノボルくんが忘れ物として机の中か取り出していたスケッチブック。
彼はそれを机の上に置いたまま帰ってしまった。
「す、すまん…鹿児島君…」
「入ってくるなんて思ってなかったし…気にしないでください」
私はありきたりな言葉で先生をなだめる。
「実は坂屋や天堂君たちに聞いたんだ…君と真自くん…そして君と坂屋について…だから俺が何か手助けできないかと…それで平野寺に足を運んだんだ…すまない…」
「そうだったんですか…」
先生も、私たちの事情をそこまで知ってくれていたうえで動いていたのか…
「…あれ、これって…」
わざとらしく、私はノボルくんの机の上に置いてあるものに今、気付いたふりをする。
「…あいつ、アレを取りに来たんじゃ…」
私は彼の席に座り、ぺらりとめくった。
「…!」
その瞬間、私は感情を抑えられなくなる。
このスケッチブックに描かれていたもの。それは…
「…新しいの…作ってくれようとしてたんだ…」
―一番描いてた結子の表情:笑顔
―作るもの:前回同様にストラップ
―(天堂)イラストを入れるためのケースにサファイアを散りばめて作る。
―(キョウジ)絵に歪みがないかをチェック。
そしてその下に、幾つか私を模したキャラクターと共に、ある事が書かれていた。
『目標:全部自分の手で作る』
「バカね…もう京次郎さんと天堂さんの手、借りてるじゃない…」
折角、私が開いてしまったノボルくんとの距離を、再び縫い合わせようとしてくれていたのに。
あの時、私が興味本位で常盤さんのことを聞いていなければ…。
私はその縫い目を更に開けてしまった。
私から滴り落ちた涙の粒が、彼のスケッチブックの一部を湿らせた。
また、私は…一人の人間を…
真自さんばかりでなく…
ノボルくんまで…
6
「ノボル。ノボル!」
…ハッ。
俺は帰ってきた後、ずっとこんな感じだった。恐らく。
「ご、ごちそうさま…」
「…どうしたのノボル」
「…いや…」
「…そうね」
母はそれ以降黙ってしまった。
ぼーっとしている俺の茶碗も一緒に、母さんは片付けてくれた。
「…」
…
…
…しばらくたった後。
「…ンッ?」
食器を全て片付け終わった母さんが、声を出さずに俺の目の前に小指を立ててきた。
「…ン」
一応縦に首を振った。
「…分かったわ。母さんは何も言わない。とりあえず、お風呂に入っちゃいなさい」
母さんのその気遣いが、今はとても心に沁みる。
*
「…どうしよう」
すっぽりと心に穴が開いた。
こんなにもその表現が合う感情は今後ないかもしれない。
そう考えながら俺は自室の扉を開ける。
静かな夜だ。
「イニア…俺、負けたよ…」
俺はベッド傍に立てかけていた、起動していないイニアに話しかける。
「…」
当然喋らない。
起動せず、含有量調整をしていない状態の彼女はとても青い。
「せっかくさ…前よりきれいに作ろうっておもって…」
目頭が熱くなってくる。
「それで…また再起動に向けて頑張ってるお前も一緒に制作してる仲間だからって…ヒロエちゃんにサファイアがちりばめられたケース作ってもらったのに…」
結子、先に取られちゃった。
元はと言えば俺が不甲斐ないから。
結子の気持ちに気付けなかったから。
「…こうして隣に来て、お前に喋っても今は無駄なのは分かってるけど…」
喋ってないと…落ち着かないんだ…
俺、何で気付けなかったんだろうね。
いなくなってから気付くって…こういう事なのかな。
しんどいよ。
辛い。
…
「よく頑張ったラ…」
「へっ…?」
はじめは俺の幻聴かと思った。
しかし。
「まだ、エラーチェックしてるんラけども…」
俺の隣に置いていたイニアが動いていた。
「起動しないとチェックできないエラーがあるラ…今はそのタイミングなんラ…」
イニアは俺の手を優しく握った。
「…どこから聞いてた…」
「…それは言えないラ」
「いいじゃんか…教えてくれたって」
「…一つだけヒントを教えてあげるラ」
「…なんだよ」
「…エラーチェックの時ってね…最低限の電力は…必要なんラ…」
そう言うと再びイニアの目が閉じる。
「…バカヤロー。全部って事じゃねえか…」
俺は泣きながら、一瞬動いて伸ばしていたイニアの足を元に戻した。
イニアも人間と同じで、耳は最後まで機能が残るのかもしれない。
7
「真自様…」
「様…じゃなくても」
「…ですが」
「…」
…ズズッ。
「では…真自さん」
ポッと彼女の顔が赤くなる。
―因みにココは、映一町内にある平野寺グループ管轄の喫茶店である。
お見合い(と言えるのか怪しい)の後、狼狽する僕に、更に父が追い打ちをかけて来たのだ。
「折角だし喫茶店にでも行ってきなさいな。弟に連絡して夕方から貸し切りにしておくから」
おまけに先生まで…
「大丈夫。応援しているからな!」
…なんて勝手な奴らなんだ。
「どうかされました…?」
悩む僕を、常盤さんは不思議そうに見てきた。
「え、いや! 何でもないですよ」
「そうですか…」
少し恥ずかしそうに彼女は下を向く。
とりあえずこの時間だけでもお話を聞いておこう。
趣味が「芸術」という幅広い物であったことを思い出した僕は、それを話のタネにすることにした。
「そういえば…趣味が芸術という事なんですが…」
「あ…そうなんです。…と、言っても鑑賞の方がほとんどなんですが…」
「鑑賞…成程。例えばどんなものを見るのですか?」
僕はコーヒーを一口飲みつつ、彼女に質問を投げかけた。
「えっと…そうですね…できるだけ様々な者を見たいので…日本画、西洋画、あとは最近見ている物ですと…もっと幅を広げたくて…漫画ですと…俗にいう『アメコミ』系とか」
心の中でコーヒーを吹いた僕がいた。
「す、凄い貪欲なんですね…」
…としか、僕からは言えない。
「はい…勿論、国内の漫画などにも目を通すようにしております…絵画とはまた違う、分かりやすい楽しさがありますから…」
少し笑った後、照れ隠しと言わんばかりに、彼女はコーヒーを啜った。
常盤さんのお見合いプロフィールに記述されていた「趣味:芸術」という漠然とした情報は、強ち間違いではないようだ。
ここは無難に僕の部活の事でもして終わらせよう。
「実は僕も昔から絵を描くのが好きでして。現在は美術部の部長をしております」
「まあ…」
ポッ…
彼女には好印象だったようだ。
それ以上の話は僕からは口に出さなかった。
暫く静かな時間が続いた。
コーヒーを半分ほど飲み終え、丁度良い温度に冷めて来た時の事だった。
「あの…」
「はい、なんでしょう?」
他愛のない質問がまた飛んでくる。
そう構えていた僕に待っていた質問がコレであった。
「真自さんは…AIのイラストって…どう感じておられますか…?」
コーヒーを飲もうと、カップにかけようとした僕の指が止まった。
「今、なんて…」
「…?ですから、AIの…」
「やめてくれ!」
その言葉と共に、僕は机をバンと叩いてしまう。
「し、真自さ…」
「僕は、僕はそれで苦しめられてきたんだ! 効率化効率化… 文章を書く事だってそうだ、この見合いの話もそうだ… 世の中すべてが『早いから』ってだけで手間をかけることに希薄になっている…」
「まって…お話を…」
「その希薄さから生まれたものに…情熱、熱量は込められてないんです!」
「あのっ…」
「それこそ僕の周りで言えば絵だ! その量産された絵は『本人が描いた』ものではない…『出された指令でAIが作った』ものなんです!」
「その…」
「常盤さんは…常盤さんは違いますよね…」
「…」
「僕を…置いていかないですよね…」
店内が静まり返る。
叫んでいてようやく気付いたことがある。
恐らく僕は『速さの大衆化』が怖いのだ。
その考えを持つ輩が今、僕が熱量を注ぐモノの全てをくらいつくそうとしている。
「どうなんですか…」
「ごめんなさい…私は…」
…ハッ。
常盤さんのその声で正気に戻る。
つい我を忘れてしまっていた。
「すいません…私が不用意な事を言ってしまって…。これ、お使いになって…」
僕は彼女が衿元からハンカチを取り出し、差し出してくれた。
「涙…拭いて下さい…」
その言葉で、ようやく自分が涙を流していた事に気付いた。
「い、いえ…こちらこそ申し訳ありません…取り乱してしまって」
僕は常盤さんが出してくれたハンカチで涙を拭きとった。
暫くの沈黙。
恐らく彼女を相当怖がらせてしまったのだろう。少し彼女の表情に陰りが…。
申し訳ない事をした。
そう思っていた矢先、彼女が意外なことを口にした。
「…先程の問いについてなのですが…正直に言いますと…どちらの立場でもありません」
「…へっ?」
さっきの質問の返答だろう。しかし、期待とは裏腹の曖昧な回答に、僕は素っ頓狂な声を出してしまった。
「私は…どちらの立場でも…ありませんでした。と言った方が正しいでしょうか」
「つまり…どういう…」
困惑する僕の前でズズッ…と残りのコーヒーを飲んだ後、彼女は云った。
「真自さん…貴方が今、私に訴えてくれたその気持ちで…」
こほん。と更に一息置いた後、
「実は私、AIイラストに対するわだかまりを抱いておりまして…聞いていただこうと思っていたんです…」
彼女は言った。
「わだかまり…?」
「はい…」
彼女は机に置いてあった紙ナプキンで口をひと拭きし、こう続けた。
「実は私、AIのイラストを『現代美術』の一つとして見ておりました。でも、どうしても『何か足りない』…少し刺激が足りないと…そう感じていたんです…」
「刺激…」
僕は冷めきっていた残りのコーヒーをクイッと飲み干す。
「はい…こんなにも現代的思考の作品なのに、どうにも好きになれない。こんなに革新的なのにどうして…そう考えていました」
「…」
「ですが…ですが、先程の…真自さんが仰った訴えで…ようやく…ようやく理解しました…」
一拍置いて彼女はこういった。
「作品を作った方にしか出せない『温もり』…情熱が、感じられないんだ、と。私はその『情熱』に、『感情』に心を動かされ続けている…。そう気付いたんです」
「常盤さん…」
僕の中にある時計の針が動き出す。
「…そして、真自さんにはその情熱が、怖いほどにあるって…貴方自身が壊れてしまうほど…私が彷徨い続けている答えを、貴方は持っています…」
…五十九分…三十秒…
はじめは断ろうとしていた。
「そのことを私に教えてくれてありがとうございます…だから…」
…五十九分…四十五秒…
けれど目の前の彼女は…
「私も頑張って…貴方の心を支えます…ですから…」
―まっすぐ、『僕を見ている』。
「…私と結婚して下さい」
…五十九分…五十五秒…
「貴方を…守らせてください」
結子さん…僕は坂屋なんかより、よっぽど弱い人間なんです。ですから…
…
…
「…はい」
―結子さん。
貴女を幸せにできる人間は、僕じゃないみたいです。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
―結子さん。
「はい…」
…さようなら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます